#39 フィクション 前編

「私は警察ではありません」


 アーネストが静かに言葉を紡いでいく。


「だから、犯人を捕まえる義務はありません。

 義務もないのに犯人を突き出すほどの正義感にも溢れていません。

 そもそも真実はひとつなのか?

 真実が人間の認識の外にあるのか。人間の認識の中に真実があるのか。

 もしも後者であるならば、私たちはそれぞれがつくり出す虚構フィクションを真実だと仮定して生きているのにすぎない」


 ラシェルは黙ったまま、アーネストを見つめていた。


「もし仮に、あなたがモニオットになりすまし、短剣をすり替えてロンダ氏を殺害したのならば、その動機はなんだったのでしょう」


「そうね……」


 ラシェルは、ふうとひとつ息を吐くと、目を伏せ、真一文字に閉じていた唇の端を上げて微笑んだ。


「もし仮に、私がモニオットになりすまし、短剣をすり替えてロンダ氏を殺害したのならば、その動機は、のこしたかったからよ、きっと」


「遺したかった?」


「ええ」


 ラシェルはティーカップの取っ手を右手の人差し指と中指でつまんで持った。細く長い指先は、手にした白磁のカップに負けないぐらい白く艶めいていて、優美だ。


「それは……何を遺したかったんです?」


 紅茶を一口飲んで答える。


「私の後に続く若い人を。

 才能ある女優を」

 

「ザザ・レスコーですか?」


 ラシェルは軽く頷いた。


「ザザには才能があるわ。女優として才能ある。

 つぼみのまま摘み取ってしまうには惜しいほど、この先大きな華が咲く可能性が」


 アーネストは黙っていた。

 黙ってしまった真意のところは実際分からないが、アーネストには、不可解なんじゃないかと思った。ラシェル・ボネールの殺人動機には、本人にメリットがないのだ。


「まだ若いあなたたちには分からないかもしれないわね」


 ラシェルが自嘲して笑った。


「ザザ・レスコーから、マルタン・ロンダについて相談を受けたわ」


「愛人契約の件ですか?」


「ええ。

 ロンダは、愛人になるなら仕事も与えてくれると言ったそうよ。でも、ならないなら干すと。

 昔の私をことを聞いているみたいだった」


「エドモンにも相談したと言っていましたね」


「そうね、でも。

 エドモンは『ザザがロンダの愛人にはなるのは嫌だ』と言ったのよ。つまり、女優の夢を諦めろと。『愛人になるぐらいなら、仕事なんて辞めたらいいじゃないか。僕が養ってやる』と」


 計らずもこんなかたちで友人のプロポーズの言葉を知り、それが叶わなかったことに、私は動揺を隠せなかった。眉間に皺が寄っているのを自分で感じていた。


「ザザは、エドモンを愛していたんじゃないんですか?」


「何を言っているの?」


 私の質問にラシェルは鋭い言葉で回答した。

 表情に怒りはない。私の言い分が分からなくて当然といったキョトンとした顔だ。


「ザザは女優になりたかったのよ。

 夢を諦めて、オレの嫁になれなんて、男が女に夢見るロマンスはいらないわ。

 三流役者のプロポーズが、ザザが女優になることに何の役に立つというの?」


 私は言い返せなかった。

 エドモンが三流役者だとは思わないが、ラシェルからすると、ロンダ氏もエドモンも同じなのかもしれない。

 ザザ・レスコーという美しい薔薇に誘われた虫。

 ラシェルはその虫を駆除したまでだ。ニコチンで。


「昔の私なら、ロンダの愛人になる選択しかなかった。

 でも、私はザザに、別の選択肢を与えて、彼女の未来を……可能性を遺したかったの」


 ラシェルは言った。


「私は、過去の私を殺したかったのかもしれない」


「サンカン氏の愛人だったことを、後悔してるんですか?」


 私は尋ねずにはいられなかった。

 男として寂しい気持ちで胸が締め付けられそうだったから。


「いいえ。ちっとも。

 アドルフは私が女優として成功するのために誰よりも助けてくれた。

 誰よりも私を支援し、誰よりも私の成功を喜んでくれた。感謝しているのよ、アドルフには、私。

 ただ……遺したかったんだわ、私」


 ラシェルは言葉を切った。

 少しして、自分の心のうちを確かめるように、ゆっくりと述べた。


「私の遺伝子を。意思を……魂を。受け継ぐ、誰かを」

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