#33 今宵短し 前編
私たちは、デュムーリエ警部たちと別れ、天国劇場を後にした。
同じく18区内にある自宅までは馬車を使うまでもない。
私たちは人が
帰る頃には夕食のはずだ。
途中にあるカフェか何かで夕食を済ませて帰ろうかとも思ったが、きっとアンヌさんが――これはアルメル婆さんの義理の娘の名前だが、用意してくれているに違いない。昨日が白身魚のソテーだったから、今日は肉料理だろう。
空が薄紫とオレンジのグラデーションで彩られている。薄明の西の空が燃えるように赤く染まろうとしていた。
この地区では、賑やかな大通りから一本路地を入ればいかがわしい店が軒を連ねている。
客引きの少女に腕を取られて、足を止めざるを得なくなって気がついた。
後ろを歩いているはずのアーネストがいない。
晩飯のことを考えながら歩いていたからだ。
「お兄さん、ちょっと遊んでいきませんかぁ?」
少女が私の腕を引っぱって行こうとする方に目を向けると、暗い路地に女たちが
50メートルほど戻ったところで、交差点の向こう側にアーネストが立ち止まっているのが見えた。
――アーネスト!
呼びかけようとした時、アーネストが私の方を振り向いた。あっちを見ろと言わんばかりに、顎をしゃくる。
示された方向を見ると、赤い
――あのカフェが何だと言うのだろう?
私は意味を解しかね、交差点を急いで渡り、アーネストに大股で近寄った。
「どうしたんだよ?
晩飯ならきっとアンヌさんが用意してくれてるぞ。今日は多分鶏肉だと思う」
「いや……晩飯のことじゃなくて、あれ」
アーネストの視線の先を追う。
カフェの奥の方に見覚えのあるブルネットの長い髪の女性が見えた。
ザザ・レスコーだ。
そして手前に座っているのは壮年の男だ。
しばらく二人を眺めていると、ザザがこちらに気づいたようだ。目が合った。
ザザは一瞬驚いた顔をした。さっきまで見せていた笑顔が消え、真顔を見せた。食事をしているところを、声を掛けに行くでもなく、黙って見ていることに立腹したのかもしれない。
しかし、それは一瞬のことだった。――いや、私の気のせいだったのだろう。
ザザはにこやかな笑顔をこちらに向けると、ちょっと会釈した。
ザザの様子を見て、私たちに背を向けて座っていた男もこちらを振り向いた。
男の顔を見て、驚いた。
と同時に、心なしかザザという女性に落胆を感じた。
ザザと食事を共にしていたのは、アドルフ・サンカンだった。
サンカン氏は物言いたげにアーネストのほうをじっと見ていたが、しばらくするとザザの方へ向き直り、二言三言喋った後、ナイフとフォークを手に取って食事を再開した。
私たちは再び肩を並べて歩き出した。
「……あの二人、仕事の話かな?」
会話を始めるのはいつも私からだ。
「さあね」
アーネストはなかなか会話にのってくれない。
「……まさか、付き合ってるとかじゃないよなぁ?」
「それも分からん」
「サンカンさんは、お前が夫人と付き合ってるのは知ってるんだよな?」
「いや。
サンカン夫人とは付き合ってるわけじゃないよ」
――付き合ってるわけじゃないなら何だと言うのだ
私はどう切り替えしていいのか分からず、黙ることしかできなかった。
黙々としばらく歩いていると、アーネストが何の前触れもなく、
「ただの愛人」
と言った。
――ただの愛人
「愛人」というのは「付き合ってる」というのとは違うのだろうか。
アーネストとサンカン夫人との間には、愛だとか恋だとかいう「気持ちの問題」が介在していないということを言いたいのだろうか。
アーネストにしてみればそうなのかもしれないが、サンカン夫人も同じなのだろうか。
私はサンカン夫人の気散じのない美しい笑顔を思い出した。
――マイペースよね、アーネストは
私がサンカン夫人に初めて会った時、夫人はこう言っていた。この言葉の奥に、年下の愛人への慈しみがあると、私には感じられた。
アーネストが「ただの愛人」と言ったら、サンカン夫人は悲しむのだろうか。それとも、もっと深く大きな愛情で笑い飛ばしてしまうんじゃないかとも思う。
そして、今、サンカン夫人の夫である、アドルフ・サンカンもまた、ザザ・レスコーに対して、夫人がアーネストに対して抱いているのと同じような感情を持っているんだろうかと想像し、一方で、ザザ・レスコーの気持ちは、アーネストと同じようなものなのだろうかと考える。
例えば、エドモン・ティオゾを愛していると言いながら、「愛人」としてマルタ・ロンダやアドルフ・サンカンを関係を持つことはありうるのだろうか。
――ザザ・レスコーの気持ちはどこにあるのだろう
ザザが、サンカン氏の愛人なのかも分からない。
さっきカフェでしていたのは、ただの仕事の話かもしれない。
肉体関係と精神的な情を切り離して考えたことのない私にはよく分からない。
「晩飯はキッシュがいいなぁ」
アーネストが独り言のように呟いた。
「多分、鶏肉だよ」
「鶏肉かぁ……」
「賭けてもいい」
「んー……」
アーネストは鶏肉に納得がいかないようだった。
そう言えば、コイツは昼、クロワッサンを食いそびれだったんだなと思い出した。
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