#37 薔薇と毒薬 ②
私たちは、
「私、てっきりジャンだと思ったんです。
左脚を引き摺って歩いていたので。それにあんな大きなキーホルダーのついた鍵を持っているのはジャンしかいませんから」
***
ラシェル・ボネールの邸宅を昼間、陽光の下で見るのは初めてだ。
入り口に置かれたローズアーチには小振りな赤白のつる薔薇が開いている。アーチの向こう側は、色とりどりの薔薇で埋め尽くされており、中央を乳白色のレンガで組まれた小道が緩いカーブを描いて通っていた。小道の先には平屋建ての邸宅が見える。邸宅は蔦で覆われた、こじんまりした建物だった。
馬車を降り、庭の外から中の様子を伺っていると
「何か御用ですか?」
と、小間使いらしき少女が、木立の間から顔を出した。
思いがけず声がしたから驚いたが、小首を傾げてこちらを見ている少女の愛らしい様子に、私は笑顔をつくり、腰を落として尋ねた。
「ボネールさんにお会いしたいのですが……ご在宅でしょうか」
「主人は家におりますが……失礼ですが、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
見た目のわりにしっかりした受け答えをする少女だと思う。ボネール女史にきちんと教育されているのだろう。
私はアーネストと自分の名前を少女に伝え、先日7日夜、馬車でボネールさんを自宅まで送らせてもらった者だと説明した。
少女は「しばらくお待ち下さい」と言い残すと急ぎ足で邸宅の方へと歩いて行った。
15分ほど待っていると、少女はラシェル・ボネールを伴って、こちらへ戻ってきた。
「ここに人が来るなんて何日ぶりかしら。お客さまは珍しいの」
ラシェルはにこりともしなかったが、招かれざる客だというわけでもないらしい。
「今日は天気がいいから、庭でお話してもいいかしら?」
と付け足した。
「構いません」
アーネストが答えると、ラシェルは少女に
「マリー、お茶を用意してくれるかしら」
と申し付けた。
私たちはラシェルの後について、庭園内の小道を進んだ。
「ちょっとピークはすぎたけれど、薔薇は今が一番美しいの」
ラシェルの言う通りだと思う。薔薇はこれでもかというほど華やかに咲き誇っていた。各々がその美しさを競い合っているようだ。甘い薔薇の香り
小道は邸宅の手前で二手に別れていた。ラシェルは邸宅とは別の方向へ続く道へと私たちを案内した。
庭の南東側、日当たりのよいところにテラスをつくっているのだ。テラスには深い緑色をした日よけのパラソルと白いガーデンテーブルが置かれていた。
「素敵なお庭ですねぇ」
私は素直に感嘆した。
「これ全部ボネールさんが育てられているんですか?」
「ええ。だいたいそうよ。土いじりをしていると時間がすぎるのを忘れるの。
もちろん、月に一度は剪定はしてもらっているけれど」
「月に一度ですか……」
「往年の」という枕詞が付くとはいえ、やはり大女優と言われる人は違うと思った。これだけの広い庭だ。費用がかかるだろう。
「今日はどういったご用件かしら?」
ラシェルは私たちに椅子をすすめながら言った。
私は思わずアーネストの方を見た。
単刀直入に話を切り出してしまわないか、ハラハラする。
アーネストはそんな私の心配をよそに
「シュゾンを一度拝見したくて」
と言った。
「あら、シュゾンのこと覚えてくれていたの?」
「ええ」
「ちょうどいいわ。
今が一番綺麗なときだから。
後で案内するわ」
「お願いします。
……しかし、これだけの薔薇を育てるのは大変でしょう」
「そうね。
でも手がかかる分、かわいいの」
「病気にかかりやすいと聞きますね」
「ええ。そうね。
根腐れもしやすいから、大切にしすぎるのもよくないし、難しいわ」
「害虫も多いでしょう」
「そうね。美しい花ほど。
悪い虫がつくのよ。
それは人間と同じかもしれない」
「薬剤の散布は剪定師にお任せされているのですか?」
「……私がすることもあります」
「殺虫剤は何を使われていますか?」
「………………」
「薔薇の殺虫剤からは、ニコチンが精製されるそうですね」
「……そうなの?知らなかったわ」
アーネストは黙っていた。ボネール女史も黙っている。
先に喋ったほうが負けを認めるかのような沈黙。
重苦しい時間がすぎていく。
プレッシャーに耐えかねて、私が何か喋ったほうがいいんだろうかと思い始めた時、マリーがお茶を運んできた。
まずは私の横に、それからアーネストに、カップを置いていく。ボネール女史が口を開いた。
「仮にニコチンが精製されたからと言って、それが何になるというの?」
「例えば、殺人事件に」
ボネール女史の面食らったような顔を見るのは、これで二度目だ。7日の夜、馬車の中で話したことを思い出す。
黙ったままアーネストの方に一瞥をくれ、その後、「ふふっ」と笑うところまで同じだ。
「私が誰かを殺したとでも?」
「ええ」
「あなた……そう言えば、見かけによらずミーハーだったわね」
いったん言葉を切って、彼女が続ける。
「葉巻を吸ってもいいかしら」
「どうぞ」
私たちの許しを得ると、ボネールはマリーを呼びつけ銀色のシガレットケースを受け取った。細長い指で葉巻を1本つまむ。アーネストが火を差し出した。
「ありがとう。でも……」
ボネールは笑顔を覗かせ、アーネストの手元から火をつけると、じらすように一服吸って、紫煙を細く吐き出し、
「失礼だわ」
と言った。
アーネストはこれに対して顔色ひとつ変えずに
「どうも」
とだけ返した。
ボネール女史はこのやり取りに満足したようだった。
口元に笑みを浮かべ、アーネストに尋ねた。
「……それで。
私は誰を殺したのかしら?」
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