#16 女優 ②

 天国劇場テアトル・ド・シエルを出た頃には、日はとうに暮れていた。

 頭上には三日月が白く輝いている。街の明かりのせいか星はほとんど見えない。

 路上パフォーマーの演奏する陽気な音楽に混じって、斜向かいにあるカフェからは人が溢れており、酒を酌み交わして騒ぐ男たちの笑い声が聞こえてきた。街並みを彩る大小の芝居小屋の明かりの下では、派手な衣装に身を包んだ、客引きが愛想笑いをしてビラをバラ撒いている。


 私はザザの手を取って、四人乗りの馬車に乗り込んだ。その後ろからラシェル・ボネール、それからアーネストがついてくる。

 アーネストに関して言えば、私の突然の申し出に付き合わされてたかたちだ。私はアーネストに了承を取るどころか、一言も言葉をかけなかった。アーネストのほうも、それで当然のような態度でいるから構わないだろう。


 住まいを尋ねると、ザザは8区の東側。ボネール女史はさらに東部、市街地を越えた郊外に家があるのだという。私たちはほど近くにあるザザから送っていくことにした。


「今日は一日お疲れだったでしょう」


 行き先も決まり一息ついたところで、私は同乗者たちに声を掛けた。

 リズムカルな馬の蹄鉄の音が響いている。

 揺れる馬車に身を任せながら、私は、この場にいる誰もが喋りたい雰囲気ではない状況で発言してしまった自分を呪った。 

 私は無駄だと分かっていながら、助けを求めるように、斜め向かいに座っているアーネストの方を見た。街灯の仄かな光の下、行き交う人もまばらな石畳しか見えない窓の外を眺めているだけだ。私の居た堪れない気持ちなど、アーネストが分かるはずもない。

 私の隣りに座っているザザは、俯いたままだ。その表情は長い髪に隠れて見えない。

 視線を前に戻すと、勢いで、目の前に座っているラシェルと目が合った。

 私は、気まずさから目線を泳がせようとしたが、ラシェルはじっとこちらを見たまま


「ええ、そうね」


 と、かなりの時差を持って私の問い掛けに答えた。

 それから言葉を切って続ける。


「あなた……。エドモンの友だちだったわね?」


「はい。

 まさかあのエドモンが事件を起こすとは思っていませんでしたから驚きました。しかも、舞台の上で……」


 ラシェルは黙っていた。

 代わりに、私の隣に座っていたザザが一瞬身震いし、大きな溜息をつくと、


「エドモンでは……。エドモンでは、ないと思います」


 と、囁くようなか細い声を発した。


「エドモンでは、ありません、きっと」


 ザザは繰り返すと、その青褪あおざめた頬に、一筋の涙をこぼした。


「ロンダさんとエドモン・ティオゾは、女性を巡って争っていたとお伺いましたが」


 憔悴して涙する少女の訴えを、アーネストは冷淡にも突き放した。

 ザザは顔を上げ、目をみはると、自分の正面に座っている男を見返した。


「誰が……。誰がそんなことをおっしゃったんですの?」


 ザザの声は震えていた。怒りというよりも、悲しみに満ちた声だった。


「あなたの召使いの役をしていた女性が。

 今回の事件はザザ・レスコーを巡っての痴情のもつれだと……」


「そんな……」

「アーネスト!」


 ザザの落胆の声と、私のアーネストを制止する声が重なった。

 殺人の原因がザザにあるのだというようなことを本人に言うべきではないと思った。殺人事件を間近で目撃し、恋人が殺人犯として捕らえられたのだ。ショックな出来事が続きすぎている。

 私はザザ・レスコーの胸の内をおもんばかった。

 どうか、自分のことを責めないでほしいと思う。しかし、その願いは叶わなかったようだ。

 ザザはしばらくアーネストを見つめたまま黙っていたが、小さな声で呟くように続けた。


「ロンダさんとのことを……。エドモンに話したのがよくなかったのでしょうか」


とは?」


「………………」


 ザザは再び大きな目を見開いた。

 その唇は小刻みに震えている。


「アーネスト……。もういいじゃないか。聞きづらいことを聞かなくても」


 私はため息混じりにアーネストの質問を遮った。人の気持ちを考えられないこの男に、私は呆れていたのだ。

 そんな私を一瞥して、アーネストは続けた。


「聞きづらいことがあったということなのか?」


「それは……」


「ロンダさんと愛人関係にあったとでも?」


「違います」


 ザザの回答は素早かった。静かに、しかし、きっぱりと断言した。

 横に座っているザザの方に視線を移すと、彼女は正面に座っているアーネストのほうを物怖じすることなくじっと見つめていた。それは、挑戦的な眼差しのようにも見えた。


「エドモン……。エドモンには、ロンダさんから愛人にならないかと誘いを受けているということを相談しました。

 でも、私、愛人にはなっていません」


「相談した時、エドモンはなんて?」


「エドモンは……『僕は反対だ』と言ってくれました。『嫌だ』と」


「理由は?」


「それは……」


 アーネストの質問にザザはしばらく答えあぐねて、足元に視線を移した。

 アーネストは黙っていた。返事を待っているようだった。


「それは……。エドモンが君を愛していたからじゃないの?」


 私は横からザザに尋ねた。

 ザザは私の方に顔を向け、泣きそうな顔をしてこくりと頷いた。

 ザザは眉根に皺を寄せ、苦しそうに表情を歪ませていた。その心痛を思うと、私も辛い。


「エドモンは……私を愛しているから、嫌だと言ってくれました。でも……」


「でも?」


 私は努めて優しく話を促した。


「ロンダさんは演劇界では重鎮です。

 ロンダさんのお誘いを受けるのは、女優としてのチャンスなんじゃないかとも思いました。その逆に、ロンダさんの誘いを断ってしまえば、そのチャンスがなくなるどころか、今後舞台に立つことすらままならなくなる」


 ザザは言葉を切った。

 ラシェルは興味がなさそうに窓の外を眺めていた。

 アーネストは伏し目がちに、ザザの言葉に耳を傾けていた。


 ――ロンダ氏に目をつけられたのは、彼女にとってよかったのか悪かったのか……


 私は思った。


 ロンダ氏の愛人となって女優として名を成すか。

 エドモンの愛を受け入れて……いや、受け入れなくても、ロンダ氏の誘いを断って、夢を諦めるか。どちらがザザにとって幸せなのか。私には分からなかった。


「ザザ。……そろそろ、家に着くわよ」


 ラシェルの声から程なくして、馬車を止めた。

 馬車から降りるとき、ザザ・レスコーはエスコートした私に言うともなく、呟いた。


「……わたくし、女優にはなれない運命なのでしょうか」


 咄嗟のことで、私は彼女に掛けられる励ましの言葉を見つけられなかった。

 少女は、私に向かって力なく微笑むと、一礼して去って行った。

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