#15 女優 ①

 カツカツと高いヒールの音を響かせながら去っていく恋人の背中を見つめ、肩を落としたクリストフの小さな体はさらに一回り小さくなったように見えた。

 そんなクリストフに聞くのは酷だとは思ったが、かける言葉が他に見つからず、私は尋ねた。


「ブランションさんとは一緒に住まれていたんですか?」


「そうです」


 クリストフは私の方に向き直って端的に答えた。

 会話が終わる。さすがにこれ以上モーガン・ブランションについての話は続けられないと思ったとき、クリストフが「ふふっ」と笑って言った。


「そんな顔しないでくださいよ、いつものことなんですから。

 モーガンは、警察からの事情聴取が終わったら迎えに行きます。ほとぼりが冷めたらまた何事もなかったように帰ってきますよ」


「それは……たいへんですね」


 私は返答に迷って、相槌を打つことしかできなかった。

 新進気鋭の劇作家であるクリストフ・ラヴォーという男が、そうまでして、あの性格がいいとは言い難い女優に入れあげている理由が、私にはよく分からなかった。さっきモーガン・ブランションが話していたザザ・レスコーではないけれども、クリストフに言い寄ってくる女性は大勢いるだろうに、と思う。

 上昇志向が強く野心家だという噂のこの男は、劇作に対して純粋で熱心なだけであって、案外誠実なのかもしれない。成功して、社会的地位がほしい、金持ちになりたい、女性にモテたいといった功名心は、今話をしている限りにおいては感じられない。


「あなたは確か、エドモンのお知り合いでしたね?」


「はい、そうです。ドウヨ・ノエル=コーヌと言います」


「ええっと……そちらは?」


 クリストフがアーネストのほうに片手を上げ、目をやった。


「アーネスト・バートラムです」


 私が紹介する前に、アーネストは名を名乗って、


「煙草を吸っても?」


と聞いた。

 私に促されない限り、あまり自ら自己紹介をすることがないので、話が長引いていることにイライラしていたのかもしれない。


「いいですよ、気にしません」


 クリストフの返事に、アーネストは「どうも」と言うと、私たちに煙がかからないように方向を変えると、黙ってパイプをくゆらせ始めた。


「アーネストは私の知り合いなんです」


 クリストフは私の説明に「なるほど」と相槌を打ったあと


「サンカン夫人と一緒にいらっしゃいましたね」


と続けた。

 クリストフは、サンカン夫人との関係に興味でもあるかのように、アーネストの頭から爪先まで眺めていたが、見られている男の方は、我関せずと言った風情で、黙ったままでいた。


「たまたま劇場で会ったんです。別々に観劇に来たんですが」


 私は場の沈黙をつなぐようにクリストフの横で話を続けた。

 なぜ私が気を使っているのか、自分でも理由は分からなかった。


「サンカン夫妻は仮面夫婦のようなものですからね」


ですか」


 「仮面夫婦」という言葉を繰り返した私の方に向き直り、クリストフは苦笑した。


「サンカンさんは、奥さんと結婚前からボネールさんと付き合っていたのはご存知でしょう?」


「いえ……そうなんですか?」


「当時は新聞でも話題だったみたいですよ。

 ボネールさんの女優としての成功はサンカンさんなくしてはなかったと聞きます」


「それじゃ、サンカンさんはボネールさんじゃなくて、なんで今の奥さんと結婚したんでしょう?」


「それは僕には分かりませんが……。

 結局のところ、金じゃないですかね?

 サンカンさんは金が欲しかった。だから、婿養子に入ったんじゃないかと言われてます。

 しかし……本当のところはどうなんでしょうね。昔の話ですし、私も直接聞いたわけではないから分かりかねますね」


 クリストフと私は同時にアーネストの方に視線を向けた。

 アーネストは白い煙をゆっくり口から吐くとパイプから唇を離して、「自分は知らない」とでも言うように首を軽く横に振った。




「ラヴォーさん!」


 背後から聞こえたデュムーリエ警部の声に、私たちは振り返った。


「こちらにいらっしゃいましたか」


 デュムーリエ警部の後ろにはフィデール刑事とザザ・レスコー、さらにその後ろにラシェル・ボネールの顔が見えた。

 フィデール刑事に支えられて歩くザザ・レスコーは幽霊のようだった。

 開演前に楽屋で会った際、エドモン・ティオゾの側で口元に湛えていた微笑みはなく、薄紅色に上気していた頬は青白い。長いブリュネットの髪はすでに解かれていて、憔悴した様子を際立たせていた。涙で潤んだ瞳だけが輝いている。

 ラシェル・ボネールは無表情のまま、濃い緑色の瞳で私たちの方を見つめていた。

 先ほどまでクリストフと噂話をしていた私は、これまでの会話と心の内を見透かされそうで、ボネール女史とは目線を合わせることができなかった。

 それは私の隣りに立っていたクリストフも同じ様子で、デュムーリエ警部の問いかけに、


「……ええ、すみません」


と言葉を詰まらせながら答えていた。

 クリストフが「すみません」と謝ったのは、デュムーリエ警部にではなく、ラシェルに対してかもしれない。


「女性お二人からはお話を伺いました」


 デュムーリエ警部はそんな私たちの様子に気づくことなく、話を続けた。


「クリストフさん、あなたにもお話を伺えますか?」


 クリストフは「もちろんです」と言いながら首を縦に振った。


「私たちは帰っても?」


 ラシェルが、立ち去ろうとするデュムーリエ警部を呼び止めた。


「そうですね、結構ですが……外は暗いですな」


「ご一緒しましょう。私たちもそろそろ帰ろうかと」


 暗い中、女性二人だけを返すのは憚られるのは同感だ。

 殺人事件直後のショックもあるだろう。ボネール女史は見たところでは動揺している様子はないが、ザザ・レスコーは憔悴している。

 私は二人を送ることを申し出た。

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