#25 ホテル・ラトゥール802号室 前編

 ホテル・ラトゥールの802号室の呼び鈴を押すと中からはっきりとした発音で「はぁい」という高い声が聞こえて、すぐに扉が開いた。


「アーネスト!待ちかねたわよ。もう、昨日は散々だったわよ!!!警察からはいろいろ事情聴取されるし……泣いてばかりいるロンダ夫人をなだめるの、大変だったのよ!

 アドルフはずっと屋敷にいっぱなしだし!

 仕事をしに出ていけばいいのに!

 ずっと怒っているんですもの。私に怒ってるんじゃないのは分かっているけれど、怒鳴りちらしているか、そうでなければ苦虫を噛み潰したような顔をして黙っているかしかないんだから、もうウンザリ!」


 サンカン夫人は真っ昼間から呼びつけた情夫に挨拶のキスどころか、部屋のなかに招き入れる前から、まくし立てた。


「立ち話もなんだから、入りなさいな……。

 まあ!ドウヨさんも来てくれたのね!

 二人ともお掛けになって!コーヒーでいいかしら?」


 アーネストのすぐ隣に立っている男にすら気づくことなく、一方的に話し続けたサンカン夫人には、苦笑いをするよりほかなかった。

 しかし、ここに来る前は正直なところ、邪魔者扱いされたらどうしようかと不安だった分、思わぬ歓待を受けて、私は気分が良くなった。

 コーヒーを淹れてくれた夫人に礼を述べ、私は話を促した。


「大変だったんですね。

 警察にはどんなことを聞かれるんですか?」


 ここはサンカン夫人の愚痴を聞く場なのだと認識する。


「そうねぇ……。劇場に入ったのは何時かとか」


「ああ、お見かけしたんですよ、私。

 あなたとアーネストがロビーに居るところを。5時ちょっと過ぎぐらいでしたかね」


「そうだったの?声掛けてくれればよかったのに!

 警察にもだいたいそのぐらいに劇場に行っていたこと伝えたのよ。そしたら、その前はどうしていたかと聞かれたものだから、アーネストと食事していたことから話さなくちゃならなかったのよ。

 しつこいったらありゃしないの。

 ロンダさんと知り合いだったかとか。

 ロンダとは、そりゃ知り合いだったわよ!仕事で嫌でも顔を合わせるんだから。私、あの男の愛想笑いには飽き飽きしていたぐらいよ」


「愛想笑い……ですか?」


「ええ。

 だって、あの男が活動できるのも、全部私のお金のおかげなんですもの。

 アドルフが劇場を立てたのだって、ロンダさんが書く宣伝評の執筆料だって。私、スポンサーなのよ。お金の点ではアドルフもロンダさんも同じね。

 私と結婚したんじゃないのよ、アドルフは。

 私の財産と結婚したの。愛なんてないのよ!これぽっちも!!!

 だからねぇ、アドルフにだって愛人は何人もいるんだから、私にも一人や二人いても文句はないの。ねえ、アーネスト!」


 突然名前を呼ばれた愛人の方は、平然とコーヒーを飲んでいる。

 私は再び苦笑いをした。

 アーネストがここに来るのに私を誘った理由も分かるような気がする。こんな調子で延々と喋られるのは疲れるのだろう。


「サンカンさんとロンダさんは仲が良かったんですか?」


「……そうね。どうかしら?

 いいビジネスパートナーだったと思うわ。ロンダさん、アドルフの言うことを大抵は聞いてくれたみたいだし。

 まあ、サロンにも一緒に出入りしていたみたいね。『この間は、どこそこのカフェでお世話になりまして……』なんて、ロンダさんの方から私に挨拶に来ることもがよくあったもの。演劇仲間の集まりな訳だし、お互いにたくさんいる知り合いのひとりなんでしょうけど」


「ああ、確かに。私もそういった集まりでお二人をお見かけしたことはあります。恐れ多くて話しかけにはいけませんが」


「あら、あなたも演劇を?出演作は?」


「いえ、私は書くほうなんです」


「そうなの?意外ね!……出ればいいのに!あなた、そっちのほうが向いてるんじゃないかしら?その気があるなら、出してあげるわよ?」


 サンカン夫人の声が華やいだ。海辺でキレイな貝殻を見つけて喜ぶ子どもみたいに、瞳をきらきらと輝かせている。

 その表情を見ていると、私の方も満更ではない気分になったが、首を横に振った。


「演技の方はからきしダメなんですよ。大根にもなれない素人ですよ」


「なら、原稿を持ってきて頂戴、ね?読みたいわ!」


「はあ……そうですね……」


 私は曖昧な笑顔をつくることしかできなかった。

 サンカン夫人の押しの強さに圧倒された。それに、ここ数ヶ月作品を書けずにいる自分がなんだか恥ずかしくなって、恐縮した気持ちにもなった。果たして、私は本当に演劇を志している言えるのか――

 私の気持ちを知らないで、目の前の中年女性は、少女のように天真爛漫な笑顔を浮かべて


「ねえ、きっとよ?」


 と言った。


 ――ぜひ!


 二つ返事でOKしたいところなのに、私は何も言えなかった。

 

 自分の作品が他人の評価のテーブルにのる。

 自分の能力に評決が何らかの下る。

 自分の将来について、審判を受ける。 

 劇作家を志す自分が、死刑宣告されるような、心持ちになる。


 物書きとして食べていくのなら他人からの評価を受けることは避けて通れない道だ。それは分かっている。分かっているのだが――いや、分かっているからこそ、避けたい自分がいることに気づく。自分の将来を自分ではない誰かに決められるていくこと、それから、将来何者かにならなければならないという自分への抵抗――要するに、私は自分の将来について覚悟が決められていない。

 ふらふらと水面に浮かぶ草舟。

 そういう意味で、私は、放浪して生きる自分の父親の生き方にに憧れているのかもしれない。

 そういった覚悟のない自分に後ろめたさを感じて、こんなとき、屈託なく受け答えできる人間になりたいと思って、ふと、エドモンの顔が脳裏に浮かんだ。


「俳優としてなら、エドモン・ティオゾは優秀ですね」


「エドモン?」


「ええ、『パリアンテ』に出演していた……王子役の」


「ああ。ザザの相手役の男の子ね。彼は……まあ……。そこそこね。悪くはないけれど……俳優としては十人並みじゃないかしら?飛び抜けていいとは思えないわ。そこ行くと、あなたの方がいいと思うの。舞台映えするもの、きっと。

 それに逮捕されたでしょう?」


 サンカン夫人は笑顔をつくった。

 権力のある女性から色よい返事が聞き出せなかった私は、途端に自分が友人を盾にとった卑怯な男であるかのように思えてきた。

 私が残念そうに黙ってしまったからか、サンカン夫人は深く背凭れに凭れ掛かるように座り直した。


「ザザのことはちゃんと見てるんだね」


 沈黙を破ったのはアーネストだった。


「もちろん!見ているわよ。あのはいい女優になるわよ、きっと!私好きなのよ?あの娘」


 夫人は愛人の方に向きなおって、嬉しそうに話し始めた。


「アドルフも褒めてたもの」


「サンカンさんもですか?」


 サンカン夫人とアーネストの会話に、ついつい口を挟んでしまった。しかし、夫人は気を悪くした様子もなく、にこやかに続けた。


「ええ!あの人、女優を見る目は確かなのよ。

 ラシェル・ボネールとか!そうでしょ?」


 サンカン夫人は、夫の愛人の名前を出してクスクスと愉快そうに笑った。


「あの人が目をつけた女優は大成するのよ」

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