#03 役者は揃っている 前編
空気が破裂するようなトランペットの音がして、私は思わず後ろを振り返った。
ロビーに燦然と輝く十字架の下を、天使の音楽隊が陽気な音色を奏でて動いている。
からくり時計が17時半を告げた。
開演まで一時間半。
冷静になった私は、開演前にエドモン・ティオゾに挨拶しておこうと思い、左手に進むと地下の楽屋へと続く階段を降りた。
「……ドウヨ!ドウヨじゃないか!!!来てくれたんだな!」
楽屋がどの部屋か分からず、廊下できょろきょろしていた私を、エドモン・ティオゾの方が見つけて声を掛けてくれた。
「ああ、二年……いや、学校を卒業してからだからもっとになるか……新劇場のこけら落とし公演に出演できるなんて、チャンスを掴んだね」
久しぶりの再会に、どちらから求めるでもなく、私たちは握手をして抱き合った。
エドモンは、相も変わらずきれいに並んだ白い歯を見せた。誰の目から見ても魅力的な男に違いない。
「お前も役者になればよかったんだ……見た目はいいんだし。身長だってある。舞台映えするんだから、今からでも遅くないよ」
「いやいや。無理だよ」
私の背中を叩き、楽屋に招き入れようとするエドモンの言葉に、私は謙遜した。
「無理なもんか。オーラが違う。絵力っていうの?オレのほうが薄いだろ、普通に」
「私の場合は台詞から覚えられるかが怪しいよ。緊張するから表舞台は苦手だ。絶対なにかトチるし。一人で黙々と脚本を書いているほうが、他人に迷惑が掛からないからいい」
「黙々とって柄か!?お前が!?」
エドモンが吹き出した。確かに、自分でも黙々と作業するのは柄じゃないと、後から思った。事実、脚本を書いていたのはいつだったか。ここ数ヶ月はほとんど机にすら向かえていないことを反省する。
「社交的だし、華もある。ドウヨは役者に向いてると思うんだけどなぁ!……まあ、お前にはどこか抜けているところがあるのは確かだけど!」
エドモンが声を立てて屈託なく笑った。
「エドモン、楽しそうね。お知り合い?」
楽屋の入り口で盛り上がる私たちに、ブルネットの髪を無造作に結んで後ろに垂らした女性が話しかけてきた。
ピンク色の艶めいた唇が優美に動いて、微笑む彼女の左頬にえくぼが浮かんだ。まだ無垢なあどけなさが残る少女だ。
「ああ!……ザザ。学生時代の友だちのドウヨ・ノエル=コーヌだ。僕たちの舞台に招待したんだ」
エドモンは、女性の前では自分のことを「僕」と言う。彼のそこはかとないフェミニストっぷりは昔から変わらない。
「ドウヨ、こちらはザザ。ザザ・レスコーだ」
エドモンが紹介した。
ザザの名前はポスターで目にしていた。
「ああ、あなたが主演の!……まだお若いのに大抜擢ですね!」
私の言葉に、彼女は頬を赤らめた。深い藍色の瞳が夢見るように輝いている。
「ありがとうございます。……オーディションに受かった時は、本当に私なんかでいいのかと自信もなかったのですが、日々皆さんに支えていただき、ご指導いただいています。今日は全力を尽くして精一杯がんばります」
そう言うと、ザザはにっこりと目を細めた。聖女の微笑みだ。
「成功を祈ってます!」
掛ける声にも力が入る。私でなくとも、男なら誰でもそうなると思う。
「エドモン、入り口で立ち話なんかもったいないから、入ってもらったら……」
「開演前よ」
ザザが私を楽屋の奥へと招き入れようとした時、私の後ろから、女性の鋭い声が飛んできた。
「あなたは主演ではないのかしら。自覚はないの?」
そのよく通る、女性にしては低めの声には聞き覚えがあった。
背後にちらりと見える
ラシェル・ボネールだ。
私がこの往年の大女優を間近で見るのは、これが初めてだった。
美しい金髪を後ろにまとめ上げているためか、引き締まった知的な面立ちが際立っている。
彼女の登場で、和んだ様子だった楽屋の空気が一変した。
ピリピリした雰囲気に飲まれる。
「……失礼ですが、あなた。ご用件は?」
ラシェルの挑戦的な切れ長の目が私を捕らえた。背の高い彼女と私の目線は10センチ程度しか変わらない。女性にしては珍しく、彼女は私の顔を正面からまともに睨んだ。その強い眼差しに私は息を飲み、答えに躊躇した。開演前の忙しい時間に邪魔をしている、自分の過ちを、知らずのうちにも見咎められているようだ。
「わ、私は……」
蛇に睨まれた蛙の心境とはこんなものかもしれない。言葉をうまく出すことができなかった。
「ボネールさん!いつもながら私の言いたいことを代わりに言っていただきありがとうございます。この舞台にかけている
誘い笑いと調子はずれの明るい声が、凍り付いた空間に、さらなる不協和音となって響いた。
黒髪を短く刈った鼻の大きな垂れ目の男が、臆面もなく見え透いた世辞を言いながら、ボネール女史の背後から現れた。その短めの首元から長く垂らしたスカーフの白さが、派手なストライプのスーツの上で悪目立ちしていた。スカーフに比べると身長が寸足らずでいかにも不格好だ。
男の隣ではその言葉に同意するかのように、
「別にあなたの代わりに言ったわけではないわ。それに、この舞台だから熱心な訳ではないのよ、クリストフ。私はどの舞台でも熱心なの」
「そうですね、あなたはいつも熱心だ」
嫌味を言われていることに彼はまるで気づいていないようだ。小男が自信たっぷりににこりとボネール女史に微笑みかけるアンバランスさが、哀れにすら見えるのは、私の嫉妬のせいもあるのだろうか。
クリストフ・ラヴォーは今回の舞台を手掛けた、若手演出家のひとりだ。コメディアンとしても人気が高い。我々劇作家の卵の中では、やっかみ半分、野心家で見栄っ張りだと
ボネール女史はラヴォーから視線を外すと、隣の美女の方に向き直った。
「モーガン、貴女は人のことを言えるのかしら?」
「ええ、ラシェル。クリストフにもアドバイスをもらったもの、ご心配なく。そこで遊んでいる主演女優とは違いますわ」
媚びるような甘ったるい声でモーガン・ブランションが答えた。口角は判で押したようにあがっているが、その目は笑っていない。ボネールのほうもブランションを見据えたままである。女たちの間で静かに火花が散っている。
ザザは一瞬泣き出しそうな顔をして俯いてしまった。隣に立っていたエドモンが、よろめきそうな彼女の腰に手をやり、身体を支えた。
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