#02 天国の男 後編

 ――嘘だ!


 私は思った。

 演劇という虚構うそを観るために、虚構うそのような劇場に来て、虚構うそみたいな偶然に出くわす。


 ――嘘だ!


 そもそもアーネストという男が、私の中で「演劇」に結びつかない。

 例えば、イヴ・ド・パラディ号での殺人事件の時だってそうだ。事件に右往左往する登場人物たちの中にあっても、アーネストだけは微動だにせず、感動もなく、ただ観察している。その灰色に濁った碧い目で、私の目には見えていない「事実」を直視しているのだ。

 アーネストは、チャコールグレーの黴臭い部屋の窓辺から、きらきら輝く世界の――私が生きるパリの青い空を傍観している、異邦人だ。


 異国の傍観者。


 私のなかでは、それが彼に与えられた役割なのだ。

 だから、これから私が楽しもうとしている、演劇フィクションを、アーネストが見るということが、私には許しがたかった。

 アーネストの存在が、私を「虚構」から「現実」に引き戻す。

 あんなに素晴らしかった『天国劇場テアトル・ド・シエル』という虚構空間が、アーネストという男の存在のために、一気に色褪せてしまったことに、私は無性に腹が立った。


 ――文句言ってやる!


 人混みの向こうに、くすんだ濃い金色の髪が揺れているのを見失わないように、私はその姿を追い続けた。


 緑色のドレスを纏った女性を伴ったシルクハットの男性が通り過ぎた瞬間、私たちの間を遮っていた人の流れが一瞬途切れた。


「アーネスト!」


 私は思い切って、男の名前を呼んだ。

 アーネストがこちらを振り向いた。

 あの虚ろな灰色がかった碧い眼が、明らかに私の存在を捕らえている。

 

 ――アーネスト!どこに行ってたんだよ!?


 彼の眼に映っている私は苛立っていただろうか。それとも、久しぶりの再会に驚いて間が抜けているのだろうか。

 光のない虚ろなその目、その顔からは、何を考えているのか、やはり私には分からなかった。


 ――アーネストの目に映る私は、何者だ?


 私は、アーネストの視線の中に自分の知らない自分がそこに存在するようなを覚えた。「恐怖」という言葉がしっくり来るのかは分からない。ただ、自分の知らない自分が存在することに納得がいかなかった。


 ――寂しかったわけじゃない!


 私は思っていた。


 ――寂しかったわけじゃない!




「アーネスト!!!」


 別の方向から彼の名を呼ぶ女の声が聞こえた。

 声のした方を振り向くと、金髪ブロンドの巻き毛を編み込んだ中年の女性が、彼に近寄りながら両腕を伸ばした。銀色をしたチンチラの襟巻をからは、白く美しいうなじが長く伸び、耳を飾る真珠が顔周りを華やかに際立たせていた。紺色の優美なドレスに身を包み、同じ色の天鵞絨ビロードの手袋を持って、右手をアーネストの左腕に絡めた。

 アーネストは、私の方に視線を最後まで残したまま、彼女に誘われるように背を向けて、階段を昇って行った。


 ――アーネスト!どこに行ってたんだよ!

 ――アーネスト!なんで出て行ったんだ?

 ――アーネスト!今どこにいる?

 ――アーネスト!心配するじゃないか!

 ――アーネスト!いつ帰って来るんだ?


 言いたいこと、聞きたいことが、山ほど湧いてきた。

 しかし、私の知らない女性と一緒にいるアーネストの傍に強引に寄って行って、問いただすのは、自分が未練がましい女にでもなったような惨めな気持ちがして、辞めた。

 私はアーネストが人混みの中に消えていくのを、そのまま黙って見送った。

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