テアトル・ド・シエル殺人事件
江野ふう
#01 天国の男 前編
アドルフ・サンカンがスポンサーとなってパリ18区に建てた
演劇祭の七夜目にあたる今日、私は夕方早めに家を出てカフェで軽めの夕食を取り、その足で天国劇場に向った。
演劇学校で同窓だったエドモン・ティオゾが、新進気鋭の劇作家で演出家クリストフ・ラヴォーの喜劇に出演するとのことで招待を受けたのだ。
パリ北部の丘へ向かって大通りを抜け、観光客向けの露店の並ぶ、ごみごみした路地を歩いて行くと、正面が三叉路になっている。その右手奥に私が目指す
新しくできたばかりの劇場は、夕暮れの近づくほの暗さのなか、ガス灯に白く照らし出され、輝いて見えた。
玄関の大理石の柱が支える廂の上には、ミカエル、ラファエル、 ガブリエルの三大天使の像が鎮座し、「テアトル・ド・シエル」と刻まれた看板の下を通る観衆をやさしく見下ろしている。
乳白色の真新しい建物を背景に、本日の公演として掲げられている牡丹色のポスターが映えていた。黄色の大きいディドで書かれた『パリアンテ』という文字が一層鮮やかだ。
その名の通り、劇場のコンセプトは「天国」だ。
玄関を天国の門に見立て、入ってすぐのロビー正面には十字架が架かっている。金色に輝く巨大な十字架を囲んで青天を舞う天使たちが描かれた壁画が天井を覆っていた。ホールへと続く扉付近は白壁になっているが、壁画との境目部分は優美な曲線に加工され、毛足の長い濃紺色の絨毯の踏み心地と相まって、雲上を歩くような心持になる。
「演劇」という
劇場内に蠢く大勢の観客もまた「虚構」を構成するひとつの要素だ。
私の目に映る
私が目にしている「現実」というものは、私の目が、脳が。創り出した『虚構』ではないか――であるならば、その私を創ったのは誰か?
――神は死んだ。
私はこの近代的な考えを理解したような気分になって、満足した。
もう一度あたりを見回す。
そして、私は、自分の目を疑った。
時間が止まる。
右手奥の大階段脇に立つ、見覚えのある男の姿だけが、周囲から浮き上がって見えた。
――アーネスト?
見間違いではないか。
私ははっきりと目を凝らして見た。
――なんでこんなところに?
演劇という
イェゴス帝国から祖国プランセールに帰るため、イヴ・ド・パラディという船に密航し、殺人者の濡れ衣を着せられかけたのを助けてくれたのがアーネスト・バートラムだった。私はそのお礼として、彼を、プランセールの首都パリに住まわせる約束をした。
彼曰く、イェゴスの田舎から出てきたものの、別段これと言って行く宛はないらしい。新大陸行の
イェゴス帝国へ遊学に訪れて二年。
私は近代的思想と、アーネストという男を拾って、パリ18区の雑然とした裏路地にあるアルメル婆さんの元を訪れた。
「おや!ドウヨじゃないか、帰って来たのかい?」
もともと私の胸あたりまでしか身長のなかったアルメル婆さんは、腰が折れ曲がってさらに小さくなっていた。久しぶりに見た懐かしい姿を目に留め、思わず駆け寄った私の腹のあたりに顔がある。婆さんは大きな目を、皿のようにぱちくりさせた。
「ただいま、ポワレさん!変わりはなかった?」
私は
「親父は?帰ってきた?」
婆さんは途端に残念そうな顔をして、無言のまま首を横に振った。
「そうか……」
親父が帰っていないことを聞いて、私は特別な感情を抱かなかった。それは幼い頃からよくある、ごくごく普通のことだったからだ。
婆さんの哀れみの表情を見て、親父が未だ放浪していることは、子である私にとって、残念なことなのであると認識する。
私は、脳内に散らばる父の断片を搔き集め、思い出話でもして、懐かしい気持ちを婆さんと共有できれば彼女の慰めになるのではないかと思ったが、記憶に残る輪郭すら曖昧な親父の姿は、私に向かって語りかけるだけだ。そこにアルメル婆さんは登場しない。
酒を飲み、放浪先での話を楽しそうに話す。
「世界は広いぞ」
と笑って繰り返す放浪者がいるだけだ。
「ドウヨ?」
名前を呼ばれ、私の顔を小首をかしげて心配そうに見上げる婆さんに気づく。
私はアルメル婆さんに視線を戻して、微笑みかけた。
「下宿は、空いてるかな?」
「空いてるよ。お前が出て行ったっきり、あとは誰も入らずじまいさ」
「よかった!また借りられるかな」
「もちろん、大歓迎だよ!部屋にはたまに風は通していたけど……掃除はしていないよ」
「十分十分!ありがとう!
アーネスト!こっち。こちらがポワレさん。アルメル・ポワレ。家の管理をしてくれている大家さん」
「アーネストさん、初めまして。……ドウヨの知り合いかね?」
「ああ。旅先で意気投合してね。しばらくプランセールに滞在したいと言うから連れてきたんだ」
紹介をする私の背後から、仕立てのよいフロックコートを身に
「アーネスト・バートラムさんね。よろしく。まあまあ、外国の方には、おもしろい街ですよ、きっと!家は狭苦しくて、雑然しているかもしれませんがね、ゆっくりしていってください」
老婆はにこやかに挨拶すると、先頭を歩いて私たちを下宿に案内した。
下宿に落ち着いた私たち二人は、イヴ・ド・パラディ号での殺人事件の証人として、しばらく警視庁に通う必要があった。
身の回りの世話はアルメル婆さんとその義理の娘がしてくれた。
私は知り合いに帰国の挨拶もしなければならない。忙しく動き回る私はアーネストにはあまり構わなかった。私が出かける時間、アーネストは寝ていたし、帰ってくる時間には、夕食を済ませて自室に籠っていた。
たまに午後、日があるうちに家に帰ると、アーネストは二階の窓辺に置いてあるソファに足を投げ出して座り、深窓の令嬢よろしく外を眺めていた。天井まで雑然と本の詰まれた部屋は黴臭く、窓から入る光が逆光になって却って暗い。
チャコールグレーの部屋の奥にある窓だけが、青く澄み渡る空を四角く切り取っていた。
窓の前で僅かな風に吹かれて、アーネストの金色の髪がきらきら輝いていた。
アーネストがどんな顔をして外を眺めいたのかは分からない。でも、その表情が何らかの感情を表すものだとは、私には想像できなかった。
「外に出ないのか?」
私が帰った物音は聞こえているはずなのだが、アーネストには私のほうを気に留める様子はなかった。
――無視か。
お帰りぐらい言えばかわいいものを!猫でも玄関まで出迎えに来ることがあるのを思い出した。
私はムッとして、黙ったまま自室に戻って着替えをした。着替えているうちに落ち着きを取り戻す。戻ってきたところでコーヒーも飲みたい。私は階下に降りる階段の手前にある部屋の扉をノックして開けた。
「コーヒー、飲む?淹れるんだけど」
アーネストは気怠そうに、頬杖をついたままこちらを振り返って一瞥をくれると、黙ったままゆっくりと頷いた。
知らない土地で、日がな一日、することもなく、喋りかけてくるのは私しかいない。アルメル婆さんもアーネストの性格を悟ったのか、必要以上のことは話しかけなかったようだ。
彼は私の家での生活に飽きてしまったのかもしれない。
私なら飽きる。
警視庁通いから解放されて三日後には外泊するようになって、一週間後には行先も告げずに私の前から姿を消した。
母親も、親父も、飼っていた猫さえも、この家に私を残して去っていく。
さっきまで私の隣にいた人間が、別れの挨拶すらなしに、いつの間にやらふといなくなる。そういったことは今回に限ったことじゃない。子どもの頃から何度も経験してきたことだ。
私は、そんなことには慣れている。
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