第四十三話 天ぷら蕎麦

 船旅は続いている。狭い船内にも関わらず、あれから兼平さんと話をする機会は少なくなっていた。

 ナユタとしても、兼平さんと話すのは気が重い。彼女の生まれてくる瞬間を見てしまったわけだが、それは同時に彼女の母が犯される瞬間を見たということと同じだ。

 ただ、それだけでなく、兼平さんもナユタを避けているように感じる。自分に対して嫌悪感を抱いているんじゃないかと、ナユタは不安だった。


「あはは、不安だよねえ」


 急に声が聞こえた。ビクッとして、振り返る。

 それは古代エジプトを思わせる衣装をまとった男だった。だが、その顔は山羊そのものであり、異様な風体であるといえる。

 ナユタの様子に気づくと、山羊の貌の男は明るいことのまま弁明した。


「ごめんごめん、驚かせてしまったね。僕はニャルラトフィス。敵意なんて微塵もないものさ。近くに船があったから寄ってみただけなんだ」


 その言葉は快活で爽やかさを感じさせる。けれど、この人間牧場でそんな言葉を信じるなんて馬鹿げていた。


「何が目的?」


 兼平さんが来ていた。その手にはバルザイの偃月刀であった包丁が握られており、包丁はニャルラトフィスの喉元に突き付けられていた。

 ニャルラトフィスは蟇蛙のような貌から、さらに目を大きくして驚いている。


「うわー、怖い怖い。こういうの、やめてくれないかな。話し合おうよ」


 ニャルラトフィスの言葉で力を緩めるような兼平さんではない。さらに力を強めて喉を切り裂こうとした。その瞬間、ニャルラトフィスの首が伸縮し、包丁を絡め取った。ニャルラトフィスの蛇のような顔は目を細めて、兼平さんとナユタを眺める。


「武力行使のようで本位じゃないんだけどね、こういうの」


 そして、伸びた首から包丁を持ち替えると、刃を自分側に向けて兼平さんに渡した。

 自分の力量を超えた相手だと認めたのか、兼平さんもそのまま受け取る。


「そんなことよりね、この船、ピンチなんじゃない」


      ◇


 船が襲撃を受けていた。

 とはいっても、近くに敵船があるような事態ではない。水棲動物たちが船を襲っているのだ。

 船倉に穴が開き、船は沈み始める。このままでは、河の藻屑となってしまうだろう。


「ナユタ、船倉を見てきて。甲板とニャルラトフィスは私が見張る」


 その言葉を受けて、ナユタは戦争に向かった。果たして、穴が開いていた。だが、それだけではない。

 小鳥ほどの大きさの昆虫のような生物がみっしりと船底を喰らっていた。


「なんだ、このっ!」


 昆虫を槍で貫く。数が多い。しかし、そんなことで泣き言を言ってもいられない。

 ナユタの腕は次第に槍と一体化し、槍そのものへと変化を遂げていく。昆虫に反応し、咄嗟に貫いているようだ。

 だが、現れるのは昆虫だけではなかった。黒い粘着質の怪物が、昆虫の明けた穴をすり抜けるように姿を現す。


――テケリ・リ


 怪鳥の泣き声のような音が響き渡った。黒い不定形の生き物の鳴き声なのだろう。

 今のナユタには怪物の生命を維持する臓器がどこにあるのか一目瞭然だった。槍と一体化しながらも、その部位を破壊し尽す。

 黒い怪物は破裂し、昆虫の開けた穴を覆った。幸いにも、船底の穴が埋まる。


 これで船底はOK。そう思って、甲板に出る。

 兼平さんとニャルラトフィスが対峙していた。兼平さんはバルザイの偃月刀であった包丁をニャルラトフィスに向け、ニャルラトフィスは先端が円状に曲がった剣を構えている。

 やがて、二人の剣閃が交差した。それぞれがそれぞれの獲物を斬り捨てる。


 それは多数の色彩を持つ不定形のものであり、周囲を棒状のもので覆われている。

 それは奇怪な鳥であった。目が一つ、脚が一つしかない。

 そして、その獲物たちで船を襲う者たちは終わりであった。戦いは終わったのだ。


 パチパチパチパチパチパチ


 ニャルラトフィスが手を叩いていた。存在しない貌をにこやかに歪ませながら、二人を讃えている。

 その様子は不気味だった。


「見事だね。ここまで見届けられて良かったよ。

 お祝い……というのは不適切かな。でも、これを置いていくよ。年末だしね」


 そう言うと、何か袋を置くと、ニャルラトフィスが消えていった。

 兼平さんはその様子を釈然としない様子で眺めている。


 ナユタは袋を拾う。中に入っているのは蕎麦粉だ。兼平さんを促すように声をかけた。


「それじゃあ、料理を始めよう」


      ◇


 久しぶりに麺を打つ。そう思うと、高揚感があった。

 蕎麦粉と小麦粉を混ぜ合わせると、水を少しずつ入れて捏ね回していく。水によって粉がまとまりかけるが、まとまらないように注意し、粒上の状態を保たせて水を入れた。少しずつ、粉の粒をまとめていく。


 次第にまとまり、生地と言うべき形状に変わっていった。こうなると、練るのみだ。

 手早く練り、腰のある蕎麦に仕上げていく。しっかり固まると、中に混じった空気を出すため、圧し潰した。

 その後、麺棒で麺を広げ、丸くのす。しっかりとのせたら、何枚か重ねて、包丁で切った。いわゆる、蕎麦というべき形状に変わっていく。


 兼平さんは麺を打つナユタを横目にして、つゆと天ぷらを作る。

 ニャルラトフィスの熱波により乾燥したダオロスをヴェール状に剥ぎ、同じくニャルラトフィスにより乾燥したゴル=ゴロスを薄切りにした。それを火にかけた鍋の中に入れ、水で煮出す。沸騰し、沸騰寸前でダオロスは取り出し、ゴル=ゴロスは沸騰した後もなお加えて、さらに五分ほど煮出した。その後、少し蒸らす。

 別の鍋に醤油とみりんを入れ、煮切る。これが返しだ。


 ナユタの獲ってきた昆虫はシャッガイからの昆虫であり、俗にシャンと呼ばれる生物だ。このシャンの殻を剥き、肉を剥き出しにする。玉ねぎは薄切りに、ニンジンは棒状に細切りにする。ごぼうも同様に細切りだ。


 ボウルの中に具材を入れて、そこに小麦粉を振ってあえる。別の容器に、小麦粉、卵、水を混ぜ合わせた。それを先ほどのボウルと合流させる。

 鍋に油を満たして熱した。そこに拳大ほどの大きさに分けて、ボウルの中身を油に沈めていく。ジュワジュワジュワ。程よく揚がっていく。小麦色の天ぷらが食欲をそそった。


 丼ぶりの中に茹った蕎麦を入れ、蕎麦つゆで満たす。そこにかき揚げを乗せた。

 これこそが天ぷら蕎麦だ。なんとも高揚する景観であった。


      ◇


 蕎麦の風格というのは、ほかのどの麺類とも違う。

 蕎麦の実の香りがそうさせるのだろうか。実に食欲を誘う。


「これも飲んでね」


 そう言うと、兼平さんがコップに飲み物を注ぐ。八海山の純米大吟醸だという。

 よくはわからないが、甘いお酒だ。辛さと米の香りが強く、それが酔いを誘発するようだ。

 美味しいお酒だと思うが、ナユタにはお酒の良し悪しなど、あまり判断できない。


 蕎麦に口をつける。温かさが心地よい。蕎麦を啜ると、蕎麦粉の香りが口の中でいっぱいになる。それと同時につゆの旨味が感じられた。醤油味のつゆの味わいが美味しい。

 蕎麦を食べ終えると、改めてつゆを飲んだ。旨味がたっぷり。塩味もちょうど良いが、それ以上につゆに漂う香りがぴったりだ。

 兼平さんは蕎麦つゆを作らせても一流なのだ。その才能には舌を巻くほかない。


 次いで、天ぷらを食べる。小エビとニンジンと玉ねぎ、ゴボウのかき揚げだ。小エビはシャッガイからの昆虫というべきなのかもしれない。

 噛みしめると、カラっとした噛み応えが心地いい。小エビは旨味が凝縮されており、噛みしめるとその旨味が口の中で破裂していくようだ。ニンジンの甘さはその過剰な旨味をリセットしていく。玉ねぎのシャキシャキとした歯ごたえは気分がよく、甘みと旨味がかき揚げを素晴らしい体験にしている。ゴボウの香りは唯一無二だ。新たな食感とともに、新たな香りを齎していた。


 この美味しいかき揚げで蕎麦を食べる。これは贅沢だ。


「蕎麦打ちあまり上手くなかったけど、おつゆとかき揚げが贅沢で美味しいね」


 ナユタは自分の思いが口に出てしまったと感じた。けれど、その言葉に兼平さんはにっこりと笑う。


「そんなことない。このお蕎麦美味しいよ。こんな美味しいお蕎麦始めた食べたかも」


 屈託のない笑顔だった。それを聞いて、ナユタはドキリとする。胸が高鳴るのを感じていた。

 そして、思う。兼平さんと普通に話せるようになったということを。

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