第四十一話 海鮮ちらし
「あ、おばあちゃん!」
兼平さんが声を上げる。その視線の先にいるのは、少し苦労した印象を受けるものの、穏やかな表情を湛えた女性だった。おばあちゃんというよりは、若いお母さんという風体に見える。確か、
そして、そのそばにいるのは勝気な印象の少女だった。ナユタと同い年くらいか、少し年上ぐらいのようだ。彼女が
兼平さんは何度か萌詩さんを呼ぶが、まったく気づかれることはない。
やがて、二人の近くにまで来るが、それでもまるで返事がなかった。ついに、兼平さんは萌詩さんに触れる。いや、触れようとする。触ることはできなかった。
「どういうこと?」
兼平さんが呆然としつつ、呟く。
ナユタは、もしかしたら、と思い、声をかけた。
「過去の世界では、見ることはできても、干渉することはできない……のかなあ」
どうやら、その推測は当たっていたようだ。何度話しかけても、返事はない。物には触れることはできるが、人や生き物には触れることができなかった。
「字でも書けば、何か伝えられるかも」
意気消沈する兼平さんに、ナユタが提案する。その言葉に兼平さんが瞳を輝かせた。こんな兼平さんは初めて見るかもしれない。
だが、そんな時だ。何者かが近づいてくる。
古代エジプトを思わせる真っ赤なローブを纏い、多くの貴金属で全身を着飾った、高貴な振る舞いの女性だった。金髪で色白、赤い頬が印象的に映える。しかし、美しいのは横顔だけだった。彼女の顔の右半分は小動物に齧られたかのような痕があり、醜く爛れている。周囲には腐臭を巻き散らかしていた。
「あなたは、ニトクリス……」
萌詩さんは表情を強張らせる。そして、海乃瑠を庇うように、彼女の前に立った。
ニトクリス。エジプト第六王朝最後のファラオであり、女王である。彼女が王位に就いたのは兄王が暗殺されたためであり、彼女のファラオとしての行動はその復讐に終始した。そのためには手段を選ばず、失われたニャルラトテップと呼ばれる邪神の崇拝を復活させる。残酷な儀式を数多く執り行い、暗殺に関わったものに死を超越した苦痛を与えた。
やがて、暗黒のファラオと呼ばれたネフレン=カが遺したとされる輝くトラペゾヘドロンを使用し、
「邪魔しないでくれるかしら。そろそろ交配の時なのよ」
いつの間にか、ニトクリスの周囲には
「あなたたち、何なのよ!」
海乃瑠さんが怒りと恐怖のない交ぜになった表情で叫ぶ。そして、近くにあった包丁を手に取ろうとした。
その時、ニトクリスが鏡を取り出す。鏡は青銅の枠に嵌められており、枠には悪鬼や食屍鬼の禍々しい姿が刻まれていた。
鏡が海乃瑠を映すと、海乃瑠の胸部が輝き出し、三つの線が螺旋状に広がる
その印はナユタには見覚えがあった。
「いあ! いあ! はすたあ! はすたあ くあふやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ あい! あい! はすたあ!」
ニトクリスの呪文が響き渡った。
◇
黄色のローブを纏った王と呼ぶべきものが出現している。だが、その姿はすぐに揺らぎ、触手で覆われた二本足の蜥蜴のように見えたし、イカの触手が増え、禍々しい牙と棘を覆ったような姿にも見えた。それは見るものの精神を反映して姿を変えるのだと言われたら、それが真実だと思うだろう。
それは、まさに名状しがたいものであった。
名状しがたいものはニトクリスの呪文に反応して、
「あがぁっ! あぐぅぁっ!」
海乃瑠さんは悲痛な叫び声を上げる。
その度に、体内の腕が膨らみ、足が膨らんだ。その苦痛は痛ましいほどに伝わってくる。
「なんで……、なんで……!」
兼平さんは見ていることしかできないことに悔し気に声を上げていた。その手にはバルザイの偃月刀であった包丁が握られている。
ついに、我慢できなくなったのか、名状しがたいものに斬りかかる。だが、やはり、その攻撃は宙を切るばかりだ。
やがて、海乃瑠の腹が膨らみ始めた。すると、今度は腹以外の部位が爆発を始める。足が爆発し、腕が爆発した。頭も爆発する。もはや、海乃瑠は見る影もない、肉片というべき姿に変わっていた。
そんな時だ。頭に角を生やし、足に蹄の生えたものたちが兼平さんとナユタに近づいてきた。この場所まで案内してきた生物たちだ。その生物たちが兼平さんとナユタに接触し、そして、消滅した。
その瞬間、何かが変わった。空気の肌触りが変わっている。
爆発した海乃瑠の肉片が掠めた。ナユタの頬が切れ、血が垂れる。
「肉体が過去に干渉するようになっている! その逆も……!」
ナユタが叫んだ。兼平さんは包丁を手にし、爆発を避けつつ、迫ってくる肉片は叩き落としていた。
でも、このままでは爆発に巻き込まれ、その破片を受けることだろう。これが、角と蹄を持つものの同胞を食べた復讐なのだろうか。
「オギャアオギャアアア」
爆発の中心地では赤子の泣き声が上がっていた。
ナユタは必死で兼平さんを爆発から庇おうとしていた。そんな中、自分たちの身体が次第に薄くなっているのを感じる。現実の身体が目覚めつつあるのだろう。
赤子は地面にゆっくりと降下していた。この赤ん坊こそが兼平さんなのだろう。ナユタは薄れつつある意識の中で、そう思った。
◇
ナユタは微睡みの中で、兼平さんが調理しているのを見ている。
兼平さんとナユタは人間牧場の河を渡っていた。船に乗り、スーパーカブもスクーターも船上にある。兼平さんは船で釣った魚を調理しようというのだ。
その釣れた魚は奇妙だった。深きものが侵食した魚というべきか、ハスターの落とし子に侵食されたイカというべきか。それは奇怪な魚だった。
その魚の鱗を取り、三枚におろしていく。肉だけでなく、触手の部分と、卵とに分かれていた。それを丁寧に切り分けていく
卵はぬるめの湯でほぐしていく。その肉はさまざまな魚の特徴を有しているようだ。魚の姿の部分は切り身にし、触手は薄く剥いでいった。
ガスバーナーでご飯を炊いている。
鶏卵を溶き、鍋に乗せて焼いた。側面が固まると、固まった部分を中央に寄せる。そして、形状を長方形に整えた。卵焼きになる。
ご飯は酢で締める。炊飯器からボウルにご飯を移し、酢を加えると、混ぜ合わせた。それを丼ぶりに分けていく。
ご飯の上に魚の切り身を乗せていく。
海鮮チラシが出来上がっていた。
◇
「起きたんだ、ナユタ」
兼平さんが声をかけてきた。そして、グラスに酒を注いだ。透明な液体だが、匂いは甘かった。
冷酒だ。一口飲むと、清涼感とともに、甘さが口に広がる。美味しい。さらに水滴のような清涼感が広がった。
これが冷酒の味わいなのだ。
「海鮮丼作ったから、食べてみて」
兼平さんが言った。そのどんぶりを見て、お腹が減る。ぐぅーっとお腹が鳴った。
海鮮チラシを食べる。
サーモンはとろけるような甘さだった。それが醤油とワサビと合わさり、極上の旨味に変わる。それは滑らかな美味しさだった。
アナゴには甘辛いタレが掛けられている。その独特な香りと味わいが合わさり、もうほかでは味わえない美味しさである。
卵焼きは美味しい。口に入れるとその甘さが全身を支配する。だが、それだけでもない。醤油を掛ければ塩気が、ワサビをつければ辛味が、新たな感覚をもたらしてくれるのだ。
ハマチのとろける味わい、脂身は素晴らしい。心までとろけるようだ。
ネギトロは食べやすいが、もちろん、それだけではない。旨味が塊になっており、噛みしめると、それが充満してくるようだ。
海老の美味しさを今更語る必要があるだろうか。ぷりぷりとしたその肉を食べるたびに、素晴らしい食感、香り、味わいが伝わってくる。
マグロは美味しい。憎らしいほどに存在感があり、米を消化する力がある。脂身もたっぷりで、旨味を増幅させるかのようだ。
全体にかかったいくらは本当に美味しい。一粒一粒に旨味が満ちており、弾けるたびに旨味が破裂するようだった。
その爆発の一つ一つがご飯にかかる。そのたびにご飯が美味しくなった。
海鮮チラシはご飯と魚の戦いの現場だ。食べ進めるごとに美味しくなっていく。食べることが芸術であり、食べることが暮らしであった。
気づいたら、思いが口から溢れていた。
「ここまで一緒でいてくれてありがとう」
ナユタの言葉に、兼平さんはふふっと笑う。そして、言った。
「過去のこと 観たんでしょ」
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