第三十六夜 ローストビーフ

 兼平かねひら沙織さおりは一晩中さめざめと泣き続ける。

 そんなサオリの様子をコウは遠巻きに見守りながらも、自分には何もできないことを知っていた。生まれてからずっとおばあちゃんに育てられ、ずっと二人で過ごしてきたのだ。

 数年なのか数カ月なのか自分でもわからないけれど、それだけしか一緒の時間を共にしていないコウでは、入り込む余地なんてあるはずがない。


 そんな時、コウの前を何かが通り過ぎる。

 それは黒い雄牛だった。漆黒というべき美しい黒色をしており、その毛並みはツヤツヤとした光沢を放っている。その眼は赤く爛々と輝いていた。異様なことに、片方の目には瞳孔が二つ重なっており、その眼でコウの心の中まで見透かしているように思えた。


 その雄牛が通り過ぎるのをぼぉーっと眺めた後、ハッとする。あの雄牛を捕まえなくては。せめてご馳走を食べさせて、サオリの気分を少しでも晴らすしかない。

 コウは黒い雄牛を追い、一心不乱に走り始めた。


 草原地帯を抜け、黒い森の中を進む。やがて、山の中へ入っていった。石ころのゴロゴロ転がる道を抜け、巨石をどうにか這い上って岩山を登っていく。

 コウは石の入ったスリングを手にしていたが、どれだけ追いかけても、その射程の範囲に黒い雄牛は入らない。それでいて、視界の外に出ていくこともなかった。

 気がついたら、朝になっている。黒い雄牛の姿も消えていた。


 奇妙なことだ。なぜ、夜通し黒い雄牛を追いかけることなんてできたのだろう。夜の闇の中を走ったという記憶はない。さりとて、日の光の下を歩いていた記憶もなかった。

 何の疑問も抱かず、こんな遠くまで追い続けなんていうのも、おかしなことだ。


 コウは途方もない気分になりながらも、来た道を戻り始めた。


         ◇


 帰り道でスクーターを拾う。試しに、運転してみると、運のいいことにエンジンがかかった。ハンドルもブレーキも機能する。

 なんで、あの状態のサオリをなぜ置き去りにしてしまったのだろう。一刻も早く帰りたい。

 そんなコウの思惑にぴったりなものだった。


 どうにかキャンプ地に戻ってくる。すでに昼も通り過ぎて夕暮れに近づいていた。

 しかし、どうも様子がおかしい。何か不穏な印象があった。ふと、人影に気づく。どことなく犬を思わせる風貌をしており、ゴムのような黒い肌で、足にはひづめがあった。周囲に、かびのような臭気が漂っている。


「これは、確か食屍鬼グール……。サオリは!?」


 サオリはまだテントの中にいた。すでに泣き止んではいるものの、暗い顔で佇んでいる。

 しかし、それどころではない。


「食屍鬼がいる! 逃げなきゃだよ」


 コウがそう語りかけると、サオリは立ち上がる。しかし、その反応はコウの予想したものではなかった。


「おばあちゃんが食べられちゃう。守らなきゃ……」


 そう言うと、クロスボウを手にして、飛び出していく。

 やむを得ない。コウはスクーターに乗ると、スリングを手にし、手当たり次第に食屍鬼にぶつけた。

 サオリもまた矢を放ち、食屍鬼を仕留めていくが、数が多い。やがて、食屍鬼の手がサオリに襲い掛かった。


「危ない!」


 コウはスクーターの全速力を出し、サオリを拾い上げる。荷重が後部座席に寄り、スクーターが後ろに倒れそうになるが、立ち上がることで、どうにかバランスを取った。

 スクーターで逃げながらも、サオリがクロスボウで矢を放つ。この分担は見事に嵌った。瞬く間に食屍鬼は倒れ、全滅させる。


「一安心だね。でも、早くこんなとこ逃げ出さないと」


 コウが促して、二人でキャンプ地に戻る。おばあちゃんの遺体はまだ埋葬していない。

 だが、おばあちゃんの眠っていたテントに、動く人影があった。コウとサオリが様子を窺うと、黒いゴムのような肌をして、犬のような牙を持つ女がいる。おばあちゃんが食屍鬼と化したのだ。


 ――グルルルルルル


 おばあちゃんであった食屍鬼は唸り声を上げ、サオリに襲い掛かる。サオリの手にはクロスボウが握られていた。

 引き金を引いた。ビュンっと矢が弾き出される。矢は食屍鬼の顎に命中し、そのまま脳天を貫通した。どくどくと青い血が流れ、食屍鬼は倒れる。


 二度目のおばあちゃんの死を看取ったサオリの心中はどうだったのだろうか。それも、自身が手を掛ける形で。彼女はもう泣くことはなかった。表情もなく、ただ倒れ込んだ食屍鬼の死体を眺めるばかりだ。


 そして、ぼそりと言葉を発する。


「料理を始めるよ」


         ◇


 食屍鬼グールのぶ厚い皮を剥ぐと、柔らかい肉が現れる。サオリは首から胸、腹を切り裂き、その硬い皮を力任せに剥いでいった。内臓を取り出し、肉を各部位ごとにブロック状に切り分けていく。


「ねえ、火葬じゃダメなのかな。食べなきゃ……ダメなの?」


 コウが疑問を口にすると、サオリは表情を変えないまま、ぽつりと声を出した。


「火葬すると火の精になる。食屍鬼なんかより、ずっと厄介」


 ブロック肉を串で何度となく刺し、穴を開ける。そこに、塩と胡椒、脂を揉み込んでいった。それを袋に入れて、空気を抜く。

 この調理過程を何度となく行った。おばあちゃんであったブロック肉がなくなるまで。


 コウは鍋を竈門に置いて、火をつける。湯を沸かした。

 そこに袋詰めのブロック肉を沈め、少しの間、中火を保ち、やがて火を止めた。その状態でしばらく待つ。


 ニンニクを砕いて、別の鍋で脂とともに軽く炒める。

 ブロック肉に火が通ったのを確認すると、その鍋で肉を焼く。焼き色を付けるくらいだ。

 それを取り皿に起き、冷めるまで待つ。ローストビーフが出来上がっていた。


 袋に溜まった肉汁を鍋に入れ、そこにニンニクと玉ねぎ、コンソメスープ、タレを入れて少し煮立てる。これがローストビーフの絶品のソースとなるのだ。


         ◇


「おばあちゃん、安らかに眠って」


 サオリはコップに赤ワインを注ぎ、それを手にしつつ、ぼそりと呟く。そう言う彼女の顔にも、何の表情も見出すことができなかった。

 コウもまたコップに注がれた赤ワインを眺めながら、同じように呟く。そして、一息にワインを飲んだ。酸っぱくて苦い。とても美味しいとは思えない。


 ローストビーフをナイフで薄切りにしていく。それを何枚かサオリに渡し、同じように薄切りにしたローストビーフを自分の器に入れた。

 そこにソースをかけて、すり下ろしたホースラディッシュをチョンチョンと付ける。

 口元まで運ぶと、ソースの香りとホースラディッシュの辛さが口元と鼻孔を刺激した。そのまま、噛みしめると、肉汁が口の中に滴る。野性味のある肉の美味さが全身を震わせるようだった。

 噛みしめるのに歯ごたえがあるが、それもまたいい。肉を食べているという感覚があった。ソースの甘さと辛さのバランスがちょうどよく、ローストビーフともよく合っている。ホースラディッシュの刺激も心地よかった。


 付け合わせにマッシュポテトといんげんのソテーを用意していた。

 ポテトのまろやかさとボリューム感のある甘さが、ローストビーフの尖った旨味を優しく受け止めてくれる。

 インゲンの苦さはいいアクセントだった。シャキッとしているような、キュキュッとしているような、その独特な歯ごたえは新鮮だ。肉を噛みしめ続けていると、それが一服の清涼剤のように感じられる。


 ローストビーフは美味しい。お肉は美味しい。美味しい。美味しい……。

 たまに冷静な感情が押し寄せてきそうになるが、それはどうにか胡麻化した。美味しいんだ。美味しいんだから。


 赤ワインを飲む。酸っぱさが、苦さが、肉の味わいとよく合っているように思える。さっきより大人になったのかもしれない。ワインが美味しい。

 何よりも酔うことで、考えたくないことを忘れさせてくれた。


 サオリの様子を見る。一心不乱に食べていた。

 相変わらずの無表情で。


 もう、サオリの笑顔を見ることはないのだろう。そんな気がしていた。

 すると、サオリが顔を上げ、何かをぽつりと呟く。


「私が死んだら、こんな風に食べてね」


 やはり表情は動かない。

 まさか、死ぬことを考えているんじゃないだろうか。

 コウは慌てて返事をする。


「ダメよ。それだと私が死んだ時に食べてくれる人がいないじゃない。サオリが私を食べるのよ」


 自分でも変なことを言ってしまった。

 それはサオリも同じように思ったのだろう。キョトンと表情が変わり、「わかった」とだけぼそりと口に出していた。

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