第三十四話 回鍋肉
「お前がっ! お前がぁっぁっ!」
兼平さんの怒りが爆発していた。いつになく激昂し、その黄金に輝く拳に大気は螺旋を描くように収縮し、竜巻のような形状となる。
その先には黄色の衣をひらひらとさせる、虚無の塊が漂っていた。その存在が兼平さんの怒りを誘うのか、対峙することで次第にその感情が増幅されるようだ。
「全部、お前のせいだ!」
その拳が振り下ろされる。それとともに大気の螺旋もまた、その先に解き放たれた。
――汝の敵は我に非ず。その拳、敵に向けよ。
黄衣の王に兼平さんの拳が振り下ろされた瞬間、そこに黄衣の王はいない。そこにいたのは血塗られた舌のような怪物だった。
いや、兼平さんの存在そのものが瞬間的に移動し、地上で様子を窺っていた血塗られた舌の正面に移動していたのだ。
螺旋は筋肉質な血塗られた舌の肉体に波及し、体内で増幅し、その肉体をズタズタに引き裂いていく。ブシャアッという響きとともに、ズタズタに破裂し、血塗られた舌は肉片と言うべき姿に変わった。
「えっ? なんで?」
兼平さんには何が起きたかわからない。空を見渡し、再び黄衣の王を見つけ、再び空中に舞った。しかし、気づくと、地面に伏し、なすすべもなく倒れている。
「なんで、なんで……」
兼平さんの瞳から涙が溢れていた。悔し気に顔を歪ませるが、もはや体が思い通りに動くことはない。
――愚か。身内と敵の区別もつかぬか。
大気を響かせ、黄衣の王の声が響いていた。その言葉が兼平さんの感情にも響く。激昂はやまぬが、それでも何もすることができない。
「サオリ、君の無念は私が晴らそう」
破裂した血塗られた舌の肉片が集まり、暗黒の塊のような姿に変わった。それは人のような形をとる。さながら黒い男とでもいうべき姿であったが、顔と呼ぶべきものがなく、特徴といえるものもなかった。ただ、
闇は大気中に溶けると、ただその軌跡だけが飛行機雲のように残る。その軌跡は黄衣の王に向かって進んでいるようだった。
――古ぶるしきものどもの使者に過ぎぬものが何をしようというのか。
大気が響く。黄金の衣が剥がれ、名状しがたきものがその姿を現した。
地上に伏した兼平さんにも、コウの亡骸とともに事体を見守ることしかできていなかったナユタにも、何が起きたのか、わからない。ただ、壮絶な戦いがあった。
気が付くと、空は澄み渡り、大地は抉れ、兼平さんとナユタのいる場所だけが残っている。すべては終わったのだった。
◇
「何も……できなかった」
ナユタとコウのもとに、兼平さんが戻ってきていた。いつになく、意気を喪失している。
しかし、それも仕方のないことだろう。ナユタはコウを抱きかかえていたが、その体温はすでに失われており、冷たくなっていた。すでに事切れている。
「コウは……」
ナユタはそれ以上の言葉を口に出すことができなかった。
ただ、こういう時に何をすればいいのかはわかっている。
「料理を始めよう。何か食べないと、何も始まらないから」
その声を受けて、兼平さんが無言で頷く。
そして、ナユタの抱えていたコウを今度は兼平さんが受けとめ、ギュッと抱きかかえた。
「コウ、約束を守る時が来てしまったのね」
そう言うと、コウの首筋を包丁で切る。血が流れた。
「え、何を……」
ナユタが唖然とすると、兼平さんが答える。
「人葬よ。人間牧場では親しい人が亡くなった時は食べて供養するの」
血液が抜けると、服を脱がした。豊満な乳房も瑞々しかった太ももも、もはや血色のない土気色だ。
その喉元に包丁を突きつけると、皮を切り裂く。腹を掻っ捌くと、内臓が漏れ出てくるので、それを引きずり出してバケツの中に入れた。
手首から腕、脇の下、足首から足の付け根までを切り、皮を剥ぐ。
肩を切り、腕を切り、脚を切った。胸を切り取り、ももを剥ぎ、骨から肉をこそいでいく。
ナユタは残っていた野菜を取り出すと、キャベツとピーマンを一口大に切っていった。
竈門を作り、鍋に火をかけると、油を敷き、少しの水と塩を加えながら野菜を炒める。しっかりと火が通ると、器に取り分けた。
薄切りにした肉をニンニクとともに炒める。ニンニクの香りが充満し、食欲が刺激された。
肉に焼き色がつくと、豆板醤を加えて、じっくりと炒める。さらに、グラーキのタレをかけると、甘い匂いが周囲に漂った。
そこに野菜を戻して、全体に味をなじませる。
◇
「コウはビールが好きだったから」
そう言うと、兼平さんはコップにビールを注いでいく。
二人同時にそれを口にした。苦い。ビールの苦さと炭酸の弾ける痛みが喉を焼いていくようだった。
最初に肉から食べるのは憚られた。キャベツを摘まみ、口に入れる。
シャキッとした歯ごたえとともに、爽やかな甘みが伝わってきた。次いで、ピリッとした唐辛子の辛さとタレの旨味がくる。
ピーマンも食べる。ほろっとした苦みが心地いい。今の気分にも合っていた。苦さが辛さ、甘さと絡まって、妙に爽やかな気分になる。
とうとう、肉を口にした。柔らかなトロッとした口触り。噛みしめると、肉の旨味が強い刺激となり、電気信号のようにビリビリとした感覚があった。
甘く、旨く、辛い。その味付けも絶妙だ。気づいたら、咀嚼し、胃の中に肉が収まっている。
ついつい食べ進めてしまう。肉の刺激を和らげるようなキャベツとピーマンは優しく、食べる手を止めさせようとしない。
「美味しいね」
そう言った兼平さんの頬から涙が伝う。
「うん」
頷いたナユタも胸の中にポッカリと穴の開いたような、寂しさを感じていた。
二人の中の何かが終わったんだ。そんな感覚があった。
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