第二十八夜 フィッシュ&チップ
ただ、眠っている時に夢を見るだけではない。
今日もサオリは浅き眠りの七十階段を降りていた。最後の階段を踏みしめると、突如、炎でできた洞窟が現れる。その前には古代エジプトの神官を思わせる、二人組の門番がいた。ナシュトとカマン=ターだ。
「サオリ、今日も来ましたね。深き眠りの七百階段への道もあります。迂回して、そのままドリームランドへ入ることもできますよ」
声を発したのはナシュトだ。ナシュトとカマン=ターは全く同じ服装をしており、顔も一緒だ。当然、背丈も変わらない。けれど、すでに見慣れているため、ナシュトだということはすぐにわかった。
「今日は深き眠りの七百階段から行くことにする。ドリームランドを治めているというニャルラトホテプに会ってみたいのよ」
サオリは意を決して発言した。七百階段に降りようとしたことは今日が初めてではないが、その覚悟が定まらないでいた。
そして、発言をした後でも、自分の言葉に戸惑いが残っている。
「よく決断しましたね。あなたは深き眠りの七百階段を進むに相応しい方。その言葉をお待ちしておりました。
この先は死の危険のある恐ろしい場所。でも、それは覚醒の世界の身体に限られます。ドリームランドでの肉体が傷つくことはありませんので、ご安心ください」
この言葉はカマン=ターだ。カマン=ターは覚醒の世界のことをわかっていない。
覚醒の世界の人間にとって、大事なのは覚醒の世界の肉体だ。言ってしまえば、ドリームランドの肉体は二の次といってもいい。だというのに、ドリームランドの肉体は傷つかず、現実の肉体が傷つくという、恐るべき事実をこともなげに告げる。
しかし、サオリはそのことを十分に知っており、その上で覚悟してきたのだ。
サオリは炎の洞窟に進み、炎でできた階段を踏みしめる。ジュワッと足元が焦げる感覚があった。だが、問題ない。そのために安全靴を履いてきていた。
一段一段を慎重に降りる。その度に怪物が現れ、サオリを飲み込もうとした。だが、それは幻なのだ。意に介さなければ、そのまま消えていく。だが、ひとたびそれに注意を払うと、その怪物は実体化し、サオリは喰われてしまっただろう。
そういうわけにはいかない。サオリは現実世界だろうと、まだ死ぬ気はないのだ。
◇
「来たんだな、サオリ」
ランドルフ・カーターがそう言った。彼は青いターバンを頭に巻き、青いマントで身を包んでいる。樫の木でできた杖を持っていたが、その杖にできた傷や歪みは彼の旅の過酷さを物語るかのようだった。
カーターは数百年前を生きた夢見る人だ。サオリの先達者というべき存在だった。かつて、未知なるカダスと呼ばれる夕映えの
その英雄がサオリを待っていたというのか。
「あなたがカーター? 名前は知っています。でも、あなたが来てくれるなんて……」
サオリも戸惑いを覚えていた。
だが、カーターはそれを制止する。
「君はニャルラトホテプへの面会を求めてここに来たのだろう? ならば、案内役は私にならざるを得ない。かつて、ニャルラトホテプと敵対した私を除いて、彼のもとへの案内はできないんだ」
話を聞いても、その理屈はわからないものだったが、カーター以外にニャルラトホテプの宮殿に進む道のわかるものはいないようだ。こうなると、彼に従うほかない。
深き眠りの七百階段を降りたものは、
カーターに案内されるままに、ラクダのような奇妙な生物の背に乗った。そして、砂漠を越える。
やがて、荘厳なる黄金の宮殿が目の前に広がっていた。その美しい宮殿の内部に入り、血で濡れたかのような絨毯を通り、豪奢な広間に出る。
そこには、エジプトの王がかぶっていたような頭巾をかぶり、煌びやかな装飾品を身に纏った浅黒の肌の男がいた。男は尊大さを思わせる仕草で、怠惰に椅子に座っている。だというのに、その威厳は少しも損なわれていなかった。
「サオリ、来たか。直接、私に会いに来たということは望みがあってきたのだろう。
言え。お前は何を欲しているんだ」
ニャルラトホテプのその言葉に、サオリは堰を切ったように喋り始める。
目には涙を浮かべ、その表情は悲壮感に溢れていた。
「おばあちゃんを元いた世界に戻してあげて。もう長くないことは私にもわかる。なら、せめて、家族のもとに帰してあげたいの」
その言葉にニャルラトホテプは侮蔑を含んだ笑みを浮かべた。
「それはできない。大抵の願いなら叶えてあげたいところだが、その願いはかつての
萌詩はお前たち孫世代を見守りたいのだろう。諦めるしかない」
その冷笑的な言葉に、サオリの心は傷つき、同時に怒りを抱いた。
「でも、このまま私やコウしか看取る人がいないなんて悲しすぎる。おばあちゃんには十人以上の姉妹がいるんだし、せめて会わせてあげたい」
感情のままに詰め寄るサオリだったが、ニャルラトホテプの態度は変わらなかった。そのことが無性に腹が立って仕方ない。
「お前の望みは萌詩にとって迷惑なものでしかない。独りよがりなんだ」
ニャルラトホテプの嘲りを含んだその声を聞いた時、サオリは感情を制御できなくなった。
思わず、ニャルラトホテプに近づき、その胸元を掴んだ。
カラン
すると、ニャルラトホテプの姿が消えてしまった。頭巾と衣服だけが空中に残り、やがて地面に落下する。
いや、もしかすると、サオリの相対していたニャルラトホテプは幻に過ぎなかったのではないか。そんな風に思えてならない。
ここまで来て無駄足だったというのか。
「残念だ。決裂だな」
カーターは淡々とした声でそう答える。サオリはカーターの顔を見ようとしたが、宮殿の天板から下がる
続けて、カーターはサオリに告げる。
「この宮殿に来て手ぶらで帰ることはできない。何か、欲しいものを持ち帰るといい」
サオリは苛立ちを隠せないまま、台所に向かう。そこで、
「これでいい。もう帰る」
怒りの感情で隠していたが、それ以上に強い感情は悲しみだった。カーターに涙を見られないようにプイと顔を背けると、サオリは帰り道に向かって歩き始める。
その彼女を見送るカーターの口元は、冷笑的に歪んでいた。
◇
目が覚めると、サオリは自分が涙を流していることに気づく。そして、自分にあった夢見る
しかし、自分の見た夢がただの夢でなかったことは容易に証明できる。目覚めた時に抱えている、鱈やジャガイモといった食材やビネガーの瓶によってだ。こんなもの、眠る前には持っていなかったし、手に入れる手段もなかった。
「サオリ、ようやく目が覚めたの? もう夕方だよ」
コウが驚いたような声を上げる。
その声を聞いたのか、萌詩は振り返り、サオリの様子を見つめた。そして、カブを停車させる。
「それじゃあ、料理を始めましょう」
萌詩は鱈の鱗を包丁で落とすと、三枚に卸す。丁寧に骨を取り除くと、一口大に刻んでいく。
小麦粉と卵黄、ミルク、それにビールをかき混ぜて、鱈の切り身をその中に漬けていった。
コウはジャガイモを丁寧に洗うと、皮の付いたまま、薄切りにしていく。厚みのあるものもいい。その切り方はまばらだった。
鍋にそのジャガイモを並べると、油をひたひたになるまで注いだ。
竈門を作り、火をくべる。その上に、コウが鍋を乗せた。油が熱せられ、それと同時にジャガイモが揚がっていく。
サオリもまた竈門を作り、卵を茹でた。それと同時に、玉ねぎときゅうりのピクルスをみじん切りにする。
卵が茹で上がると、器に入れて、潰した。そこに玉ねぎとピクルス、マヨネーズを入れ、かき混ぜる。仕上げに塩と胡椒で味を調えた。
ジャガイモが揚がると、同じ油に、鱈の切り身を沈めていく。火力を上げ、十分に熱した油の中に入れるので、鱈は一気に揚がっていた。
こんがりとしたキツネ色の衣を見ると、食欲がそそられる。
器に揚がった鱈のフィッシュフライを並べ、ポテトチップスを並べた。別の器に、タルタルソースを入れ、またビネガーを器に注ぐ。
「これこそが、フィッシュ&チップスね」
コウが満足げに宣言した。
◇
「これはいい組み合わせよね。フィッシュ&チップスにはモルトビネガーとギネスビールだって決まっているもの」
そう言って、萌詩はふふと笑う。その笑顔を見て、サオリは罪悪感を覚えた。それが具体的に何かはわからない。
その後ろ暗い感情と困惑を振り払うように、サオリは一気にビールをあおる。
ギネスビールの黒さからニャルラトホテプの黒い肌を思い起こした。そのほろ苦さがは自分の感情と合致するようだ。だが、その深いコクとクリーミーな味わいはその苦さを払拭するほどだった。ビールを飲み干すころには、モヤモヤした感覚はいつの間にかなくなる。
ずっと眠っていたはずなのに、ひどく疲れているし、お腹がすいていた。思わず、フィッシュ&チップスに箸が伸びる。
フィッシュフライを口に入れた途端、パリッとした歯ごたえが抜群の破壊力を持って出迎えてくれた。主張は強くないが奥深い鱈の旨味はうっとりするほどに美味しい。下味もしっかりしていて、萌詩の仕事の確かさが感じられる。ただフライを食べるだけでも美味しい。
フィッシュフライをモルトビネガーにじゃぶじゃぶと漬けた。これこそが英国流なのだという。
酸味とともに芳醇な香りが漂う。麦とトウモロコシの旨味が発酵によって芳醇な味わいへと変化しているのだ。爽やかであるが、それだけでない複雑な美味しさがあった。
タルタルソースに漬けるのもまたいい。玉ねぎとピクルスのシャキシャキした歯ごたえがアクセントになり、卵のまろやかな味わいを引き立てている。玉ねぎには旨味と辛みがあり、ピクルスには甘みと酸味がある。それが混ざり合い、フィッシュフライやポテトチップスと絡み合うことで、新境地というべき味わいを演出しているのだ。
当然というべきか、ポテトは淡白な味わいでありながら、病みつきになる美味しさだ。モルトビネガーやタルタルソースはもちろん、フィッシュフライともよく合う。
食べるごとに肉体に満足感があり、疲れが癒されていくようだ。
そして、食べ終わるころには、ドリームランドでの記憶が蘇っていた。
「おばあちゃん、ごめんね」
サオリは強い罪悪感とともに、謝罪の言葉を口に出した。
けれど、萌詩はその言葉の意味がまるでわからない。
「どうしたの、サオリ? 今日眠っていたことなら気にしなくていいのよ。体調悪い時に無理して起きている必要いなんてないんだから」
サオリは萌詩と自分との間に、強い隔たりがあるのだと感じていた。
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