第二十四話 鮭いくら丼

 深敷ふかしき武亮むりょう。その名前、その存在はナユタにとってトラウマだった。

 彼がナユタたち母子おやこの前から姿を消したのは、ナユタが8歳の時だ。それからの母は荒れた。力のままに暴れるなら、まだ良かったが、それだけでなく、母は姿を変え、その奇怪な姿のまま、ナユタを折檻するのだ。


 武亮が帰ってきた時には、ナユタは11歳になっていた。彼はすでに別の女と別の家庭を持っており、その事実は多感な時期であったナユタにとって、どれだけの傷を与えただろうか。

 その武亮が目の前にいるのである。ナユタがどのような感情を抱いているか想像できるだろうか。


「ナ、ナユタ、へへ……」


 武亮は締まりなく笑っていた。どことなく、卑屈なものに思えてならない。その卑屈さがナユタの幻滅を呼んだ。

 それに、武亮の外見が若いように見える。人間牧場では時間の流れは一定ではない。果たして、この武亮はナユタの知っている武亮なのか。


「お父さん、お父さんはよそで家族つくってお母さんと離婚した後のお父さんなの?」


 その言葉を聞いた瞬間、武亮の顔が引きつった。恐怖に慄いたような表情を見せる。


「ま、まさか、俺が阿僧祇あそうぎさんに対してそんなことを……。恐ろしい……」


 やはり時系列がナユタと並んでいないように思えた。


「ねえ、お父さん、今まで何があったか話してくれない? もしかしたら、あなたの未来のことも教えられるかもしれない」


 武亮は顔面蒼白になっていたが、その言葉を受けてポツリポツリと話し始めた。


 彼がナユタの母、阿僧祇と結婚したのは下心があってのことだ。武亮は秘密カルト教団で幼少期を過ごし、魔術師としての素養を持っていた。さらなる力を求め、クトゥルフの落し子クトゥルヒである阿僧祇に近づき、彼女と肉体を重ね合った。そうすることで、彼の魔力は跳ね上がり、さまざまな知識が彼のもとに集まってくるのだ。

 気分を良くした武亮は阿僧祇との距離も近くなり、やがて結婚に至った。だが、その頃になって、ようやく武亮は自分の妻が何者であるかに気づき始める。それは人の姿をした魔物、なんていう生易しいものではない。彼女の本質は人間と隔絶した、宇宙の無そのものであり、その力を取り込もうとした自分もまた無を取り込んでしまっていたのだ。

 それに気づいた時、武亮は家を飛び出していた。妻の阿僧祇が恐ろしくてならなかったし、娘であるナユタにも恐怖心がある。気づいた時には人間牧場に流れ着いていた。


「しかし、この赤の国もまた同じだ。無限に膨張を続ける恐ろしい場所だ」


          ◇


「ねえ、ずっと話しているなら、お酒くらい注文して頂戴」


 話の腰を折るように話しかけてきたのはバーテンダーであるイアラだ。

 それを受けて、ナユタの前にもお酒が回ってくる。乳白色の、少し茶色がかったお酒が注がれていた。カルーアミルクだ。

 口に含むと、甘さが広がっていく。ほろ苦い味わいもあり、それがさらに甘さを引き立てていた。ごくごくと飲んでしまいそうだが、アルコールの強さもまた感じる。これを一気に飲んでしまったら大変なことになるだろう。ナユタはちびちびと飲むにとどめることにした。


「ところで、この赤の国がどういうものかわかっているの?」


 お酒カクテルを作り終えたイアラが尋ねてくる。兼平さんが頭を横に振った。


「赤の女王仮説を知ってるかな。生物と生物が競合する時、進化をやめた生物は淘汰され、進化を続けた生物だけが生き残れるっていう。

 その場にいたいなら進み続けるしかない。変わらないためには変わり続けるしかない。

 生物にはそういう宿命があるのよ」


 イアラがグラスを磨きながら、そう語る。


「それが赤の国とどう関わるわけ?」


 兼平さんが尋ねた。


「国の進化ってどういうことかしら? 社会体制の変化? それとも国土の膨張?

 赤の国が赤の女王の治める国である以上、膨張こそが進化するということになる。膨張をやめる時は体制の変化を視野に入れることになってしまうのよ。だから、赤の国は常に膨張を続けている。宇宙のようにね。

 だから、赤の国の膨張するスピードを超えることなんてできない」


 イアラはグラス磨きを終えると、調理場の清掃を始めていた。

 兼平さんは考え込みながらも、返事をする。


「スピード以外の何かが必要ってこと? でも、そんなもの……」


 それに対して、イアラは会心の笑顔を見せた。


「空間を超えればいいだけじゃない。

 ナユタの持ってる黒いトラペゾヘドロンがあるでしょ。それの出番よ」


 急に名指しされ、ナユタは鼻白んだ。そんなもの持ってな……、いや、心当たりはある。

 ナユタは自分の荷物を漁った。


「まさか、これ?」


 それは黒い卵だった。中心は漆黒に沈んでいるが、その周りは虹のようにさまざまな色相の光を放っている。


「ふふ、そうよ。それに、ムリョウ、あなたの魔術の力があれば、どうにかできるでしょ」


 今度は武亮が名指しされた。だが、黒いトラペゾヘドロンを見た時から、武亮の青白い顔はさらに白くなっている。

 ガタガタと震え始めながら、呟いていた。


「……そ、それは宇宙の深淵の塊。外なる神々の究極にして窮極の叡智の結晶。そんなもの、人間が扱うべきでは……」


 イアラはその引きつった表情を横目で見ながら、にっこりと笑う。


「大丈夫。ナユタは人間じゃない。知ってるでしょ」


          ◇


 赤と白で構成された赤の国を、兼平さんの運転するスーパーカブが疾走していた。ナユタは兼平さんの背中を掴みつつ、手には黒いトラペゾヘドロンを握っている。

 そして、荷車に乗った武亮が何事かをぶつぶつと呟いていた。


「ふんぐるい むぐるうなふ くとぅうるう るるりえ うがふなぐる ふたぐん

 ふんぐるい むぐるうなふ まいのぐら つがあ なふるたぐん」


 それは呪文だった。その呪文に反応してか、ナユタの持つ黒いトラペゾヘドロンは胎動を始めたかのように、脈打ち始める。

 彼らの乗るカブを見つけたポーンたちはカブを追いかけ始め、次第にポーンの集団がカブを追っていた。

 やがて、ポーンの一体が荷車に手をかけ、登り始めた。それでも、武亮は呪文を唱え続けている。


「いあ! にゃあらとほてぷ! いあ! まいのぐら!」


 ポーンの剣が武亮の首に迫っていた。そこで呪文が唱え終わる。

 黒いトラペゾヘドロンの闇が広がった。影が溢れ始める。影は触手のような姿を取り、武亮を絡め取ると、トラペゾヘドロンの中に吸い込んでしまった。


「え、あれ? それだけ?」


 ナユタは悲鳴のような声を上げる。その声に反応するように、兼平さんはカブを停めた。

 そして、腰に下げていた包丁を抜く。バルザイの偃月刀だ。


「大丈夫。ここはもう赤の国の外よ」


 その場所は赤と白ではなかった。真っ黒な台地が広がり、赤紫の太陽が辺りを照らしている。人間牧場のありふれた光景だった。

 ナユタが驚いている間に、兼平さんは荷車に侵入していたポーンの首を斬り裂いた。


 その首からはどろりと赤いものが飛び出る。

 兼平さんは首を手に取り、赤いものを口に入れた。


「これ、魚卵ね。いくらみたい。ポーンって魚だったんだ」


 そうか。ポーンの赤い球形の兜が何かに似ていると思っていたが、いくらに似ていたんだ。ナユタは納得した。

 ナユタはポーンの首から下を確認した。その肉は赤に近いオレンジ色をしている。一欠けらを口に入れた。


「これ、サーモンだ」


 それを受けて、兼平さんが言う。


「それじゃ、料理を始めましょ」


          ◇


 ナユタは湯を沸かしつつ、米を研ぐ。炊飯器の中で米は必要分の水に浸し、蓋をすると、火にかける。

 一方、兼平さんはポーンを捌いていた。内臓を取り出して、身体を三枚に卸していく。そして、一口大に刻んでいった。


 湯はぬるま湯の状態で火を止めて、塩を溶かし入れる。そこにポーンの頭から取り出した筋子を浸した。塩水の湯で筋子の皮をほぐし、中の魚卵を取り出していく。丁寧に一粒一粒、わたを取り除いた。

 そして、その湯を捨て、ザルにいくらを揚げる。それを何度か水洗いにして、不純物を除いた。


 鍋で料理酒とみりんを熱して、そこに醤油を足す。そうしてできたタレをいくらにかける。醤油漬けにするのだ。


「このポーンの中、冷たいよ」


 兼平さんが声をかけてきた。ナユタはポーンの鎧というか外殻の中に手を入れてみる。冷やっこい。まるで、冷凍庫の中のようだった。


「この中で、いくらとサーモンを冷やしてみるの、いいかも」


 ナユタの提案に兼平さんも同意し、醤油ダレで漬けたいくらとサーモンを冷やした。


          ◇


 ご飯が炊けた。ご飯を器によそい、その上にサーモンとイクラを乗せ、その上に紫蘇と海苔を乗せる。

 紫蘇は周囲に自生していたのを見つけたもので、海苔はかつてノーデンスと無貌のものの戦いがあった時に拾い、干していたものがあったのだ。


「イアラからもらったお酒があるから飲みましょ。

 えーと、スパークリング酒……。日本酒かしら」


 兼平さんはそう言うと、コップにお酒を注ぐ。シュワーッと泡立ち、炭酸が上がっていくのがわかる。兼平さんは一息に飲むと、「美味しい、さすがイアラのお酒ね」とプハーと息をついた。

 ナユタも同じように飲んでみる。日本酒らしい濃厚な甘さが押し寄せてくるが、炭酸のパチパチした刺激が爽やかで、なんだかスッキリと飲めるお酒だった。


 鮭いくら丼を食べよう。

 ナユタは箸でご飯といくら、鮭を掬い、口に入れた。なんともいえない、一体感が口の中でいっぱいになる。

 ぷちぷちとした魚卵が弾けた。その表面を覆う鋭い塩味の中から、甘さと旨味が湧き出てくる。シンプルながらも味わい深い美味しさだ。


 サーモンはポーンの中で冷やしていたためか、シャーベットのような冷たさがあるが、それが温かいご飯で溶けていく感覚がある。脂身たっぷりなその身はとろりとしていて、まろやかで、とろけるような味わいがある。今までに食べたことのない美味しさだった。


 それをご飯で食べるのだ。いくらとサーモンの深い味わいが、白いご飯によって昇華されていく。ご飯自体の美味しさももちろんあるが、何より、この二つの味を受け入れる度量こそがご飯の真骨頂であろう。


 ナユタは夢中で鮭いくら丼を食べる。

 紫蘇の香りも、海苔の香ばしさもいいアクセントになった。食欲を増進させ、脂身のこってりとしたしつこさを和らげる。

 いくらでも食べられそうだったが、終わりは来る。ついに鮭いくら丼を平らげてしまった。


「お父さん、死んじゃったのかな」


 思わず、そんなことを呟いてしまう。

 その言葉を受けて、兼平さんが返した。


「ナユタの話した内容を信じるなら、元の世界に戻って、新しい家族を作るんじゃない?」


 それを聞いて、ナユタは複雑だった。

 自分がそのことを告げたから、お父さんは別の家族を作ったんだろうか。歴史を変えないために。

 もし、ウソをついて、幸せな未来があると話していたなら、このつらい記憶は書き換えられたのかもしれない。


「私はナユタと一緒にいられて嬉しい。そう思ってる。私はナユタが今を選んでくれて良かったと思うよ」


 ナユタの気持ちを汲んで、兼平さんはそんなことを言う。

 ドキッとした胸の高鳴りをナユタは感じた。おかしい。そんな風に思うはずはないんだ。兼平さんも自分も、同じ女なんだから。

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