第二十三話 ジンギスカン

 深夜、ナユタはなんとなく目を覚ました。

 別におしっこがしたくなったわけでもない。ただ、ぼんやりと目覚めていた。


 兼平さんはまだ眠っている。それを確認すると、ナユタは自分の荷物を漁り、球形のものを取り出した。

 いつだったか、黒い男からナユタに渡された卵だ。黒いコアのようなものがぼんやりと見えるが、その周りは玉虫のようにさまざまな色が現れては消えていく。いくら見ていても飽きなかった。


 綺麗だなあ。

 ナユタはそれをぼけぇーっと眺めた。その時間はいつの間にか流れていく。

 いつの間にか眠ってしまっていた。卵は無意識のうちに荷物の奥に仕舞っている。


「ナユタ、早く起きて。何か来る」


 兼平さんの声が響いた。

 まだ夜明け前だったが、その一言で覚醒する。急いで身支度を整えた。

 兼平さんはすでに荷物をまとめ、スーパーカブに跨っている。


 何が来ているというのだろう。目を凝らしてみるが、何も見えない。

 それが余計なことだった。


 その瞬間に、白と赤のものが通り過ぎる。

 それが通り過ぎた時、ナユタはすでに元の場所にいなかった。いや、ナユタがいた場所が別の空間に変わっていたというべきだろうか。


 赤と白の調和が取れた広場にナユタはいた。

 赤い道、白い壁、赤い建物。兼平さんがいるだろう場所は壁で遮られており、彼女がいるのかどうかわからない。


 周囲には、赤い兵士が佇んでいる。

 彼らは一様に球形の兜をかぶっていた。その兜はツルツルと磨かれているようで、太陽の光を反射して輝く。胴体はスリムだったが、下半身はずんぐりとしている。

 その姿はさながらチェスのポーンのようであった。


 ポーンたちはナユタに気づくと、一体が動きだし、ナユタを摘まみ上げた。ポーンに吊られながら、赤と白の街並みを進んでいく。


「え、あれ、何!?」


 ナユタはただ狼狽えることしかできなかった。


          ◇


 ナユタはポーンに運ばれ、赤い城まで連れていかれる。そして、大広間でドスンと落とされた。

 急のことだったものだから、着地する姿勢も取れず、顔面から思い切り落ちてしまう。しばらく、床に伏したまま、痛みに耐えていた。


「うふふ、ナユタ、もう表を上げてもいいのですよ」


 それは女性の声だった。凛として澄んだ美しい響きである。

 その声に反応するように、ナユタは顔を上げた。


 目の前にいるのは、絶世の美女といえるほどに、美しい女性だった。

 金色の美しい髪がなびき、切れ長の目の中に赤い瞳が輝いている。唇はぷっくりとしていて妙な色気があった。


 ふんわりとしたゴシック調の赤いボレロとスカートを纏っており、その下にはやはり赤いブラウスと赤いブローチが覗いている。特徴的なのは頭にかぶった冠で、四方に広がったその先に綺麗に磨かれた玉石が装飾されていた。その頭上にも玉石が配置されているが、それは空中に固定されたかのように浮いている。

 その姿はチェスのクイーンを思わせた。


「赤の女王陛下の御前であるぞ」


 ポーンが口を開く。

 目の前の女性は赤の女王というらしい。


「ほかのものたちはあなたを放っておいたんでしょうけど、私は違いますよ。あなたを私の駒として使って差し上げます。

 生物は常に進化し続けなくては淘汰される宿命です。あなたも私のもとで変わり続けなさい。その努力こそがこの世界で生き延びるために必要なことなのです」


 赤の女王は一方的にまくし立て、ナユタの返事なんて待ってすらいないようだった。そして、ポーンの一人に目配せすると、そのポーンは馬を連れて戻ってくる。

 その馬は赤い宝石でできているかのように、キラリとした輝きを帯びている。その顔は、やはりと言うべきか、チェスのナイトを思わせる端正に整ったものだった。


「ナユタ、私の騎士ナイトにおなりなさい。私の愛する名馬とともにね」


 赤の女王がそう言うと、ポーンたちがナユタを掴んで、無理やり馬の上に乗せてしまう。

 その背に座った瞬間、電撃が走ったかのようだった。反射的に手綱を握り、馬を走らせる。

 しかし、その行動は自分の意志が介在したものではなく、むしろ馬の意志によって動かされているようにすら思えた。要するに、自分で動くことができなくなっていた。


 ナユタはぞわっとした焦りを感じたが、馬から降りることも、叫び声を上げることもできない。ただ、馬に従い、どこかへ移動するだけだ。

 赤い城の外に出て、兵舎を進んでいく。そこにはポーンもいれば、ナユタと同じようにナイトの馬に乗ったものもいた。

 ここで、ひとつのことに気づく。別のナイトとすれ違う時、互いの電磁波が干渉し合うからなのか、この瞬間だけ電撃による支配が弱くなるのだ。


 タイミングを見計らう。ナユタはほかのナイトとすれ違った瞬間に、馬の背から飛び降りた。

 その瞬間、馬がけたたましく嘶く。それに気づいたポーンたちがナユタの近くへと寄ってきた。

 ナユタは大急ぎで走り始める。そして、荷物の中からロープを取り出すと、煙突に向かって投げつけた。壁をよじ登り、屋根の上に立つ。

 さすがに、重装備のポーンたちではすぐに登ってくることはできないようだ。


 屋根伝いに城の兵舎から逃げる道を探した。屋根が途切れると、ロープを木に投げ、どうにか木を伝って移動する。

 地上ではポーンたちが迫ってきており、落下は即ち捕まることを意味した。


 どうにか城壁の上にまで来る。しかし、そこからでは建物への距離が長く、ロープで移動することはできない。

 降りるしかないのだが、その踏ん切りがなかなかつかない。だが、ポーンも迫ってきているのだ。悠長にしていられない。


「ナユタ!」


 いくつも並ぶ建物の中のひとつで、扉が開いた。声を上げたのは兼平さんだ。

 ナユタは大急ぎで城壁から降りると、兼平さんのもとへ走る。


 その建物の近くまでどうにか来ることができた。兼平さんはナユタの腕を掴むと、その建物の中へ引っ張り入れる。


「大丈夫よ。ここは赤の女王の力は適用されない場所だから」


 そこはバーのようで、カウンターと椅子が配置され、その奥に大量の酒瓶が並んでいた。さらに、奥にはテーブル席もあり、何人かが酒を飲んでいるのが窺える。

 バーテンダーだろうか。「いらっしゃいませ」と女性がニコニコとあいさつをする。彼女は金色の髪に褐色の肌という、倒錯した外見をしていた。


 バーの中にはスーパーカブと荷車が入れ込まれており、あろうことか、店の一角に竈門が作られていた。

 兼平さんは言う。


「じゃあ、料理を始めましょ」


          ◇


「え? え? 料理? ここで!?」


 人間牧場で起こる不条理な事態にはだいぶ慣れてきたつもりでいたが、バーの中で平然と料理を始めようとする兼平さんに対しては驚きを隠しきれない。

 だが、バーテンダーの女性はニコニコとした笑顔を崩さず、黙認しているようだった。


「大丈夫だから」


 兼平さんはそう言いつつも、材料を用意する。

 りんご、たまねぎ、にんにく、しょうが。それぞれをおろし器を使って、すり潰していった。

 鍋に酒、レモン、はちみつ、醤油を入れて煮立たせると、それだけで甘く香ばしい匂いが漂う。すり合わせた材料を混ぜ合わせると、味を見た。

 兼平さんはナユタの方を見ると、「グッド」と指で合図を送る。


 ナユタは野菜の用意をしていた。

 ほうれん草、エノキを切り揃え、器に入れていく。もやしは軽く洗浄する。

 そして、大事なのは肉だ。燻製になっていた肉も同様に器に並べていった。


「これで準備はできたね」


 焼肉の準備というのは意外に簡単だ。

 バーの中ということで気を使った結果かも、とも思うのだが、兼平さんの様子を見ているとそんあ遠慮は微塵も感じられない。


          ◇


 火をくべた竈門に野菜を山盛りに入れ、その周りに肉を並べる。

 あとは焼き上がるのを待つばかりだ。ナユタはワクワクしながら、肉の様子を眺めていた。


「ねえ、イアラ、ジンギスカンに合うカクテルってない?」


 兼平さんがバーテンダーに声をかける。イアラという名前らしい。イアラはこめかみに人差し指を当て、少し考える。


「そうねえ、さっぱりしたお酒が合うんじゃないかしら」


 そう言うと、グラスに氷を入れ、そこにウォッカ―を注ぐ。常温で管理していたはずだが、ビンの口から流れる瞬間に冷やされていくのが、肉眼でもよくわかった。

 オレンジを取り出す。オレンジは二つに切ると、芯を取り除く。そして、オレンジの片方を手に持つと、なんてことのないことのように片手で潰し始めた。その動きは万力で締め付けるようだ。オレンジの汁気は着実に絞り出され、直接グラスに注がれていく。

 オレンジジュースがオレンジ1個分絞り切ると、マドラーでかき混ぜるステアする


「はい、スクリュードライバーよ」


 兼平さんとナユタにグラスが差し出された。兼平さんは一口味わい、「美味しい」と言って笑顔を見せた。

 ナユタもまた飲んでみることにする。冷たい液体が舌の上に乗ると、柑橘のさわやかな香りが口いっぱいに広がった。ウォッカのささやかな味わいは主張しすぎないことでオレンジの味わい、香りを引き立てている。しっかりと甘いお酒だったが、くどさはまったくなく、すっきりとした飲み口がある。

 いくらでも飲めそうであったが、アルコールの重さもあるので、ナユタはさすがに自重した。


「美味しいです」


 ナユタもそう言って、イアラにお礼をする。

 だが、そろそろ肉も焼ける。兼平さんとナユタは焼けた肉と野菜を自分の器に取っていった。


 まずはタンを食べる。羊の舌だ。

 これはレモンを搾り、塩をかけて食べる。コリコリとした食感が楽しい。さっぱりした味わいだが旨味もしっかりあり、これから味わう肉の美味しさへの期待が高まる。

 燻製の香りと羊ならではの臭みが合わさり、奇妙なマリアージュを生んでいるかのようだ。


 続いてロース。これは兼平さんの作ったタレにつける。

 癖の強い肉だが、甘く旨味たっぷりのタレが実によく合った。柔らかくて食べやすい。旨味も十分で、肉を食べているという実感が湧いてくる。叫びだしたくなるほどに力強い味わいだ。


 ロースと一緒に野菜も食べる。

 もやしのシャキシャキとした歯ごたえが心地いい。そのボリューム感も嬉しい。エノキは食感が楽しく爽やかだ。

 この二つが合わさって肉の重さを軽減されるようだった。


 そして、肩肉。これもタレにつける。

 脂肪分が多く、旨味もたっぷりだ。その分、臭みも強い。けれども、兼平さんのタレの出来がいいのか、その臭みもまた美味しさに転換されていく。

 少し固いが、歯ごたえ十分ともいえる。

 一緒にほうれん草を食べる。重厚な味わいは肩肉の臭みにもまるで負けていない。その苦さが肉の旨味を引き立てるようだ。


 それにモモ肉。これもタレだ。

 柔らかくて食べやすい。あっさりとしているが、その分、タレの味をしっかり味わえるようだ。タンパクながらしっかり美味しい。

 ネギと合わせて食べると、その甘さ、切なさ、強い香りが、モモ肉の足りない部分を補ってくれるようだ。


 夢中になってジンギスカンを食べていた。

 時折、スクリュードライバーを飲む。その爽やかな味わいは格別だ。脂っこくなった口の中が洗浄される感覚があり、より食欲が掻き立てられる。

 お酒だけをゆっくり飲むのもいいだろうな。そう思えた。


 肉もなくなりかけたころ、兼平さんが話し始める。


「この赤の国は膨張を続けているみたい。ここから逃げ出すのは厄介よ。

 私たちは膨張から逃げることもできなかった。単にスーパーカブで走っているだけじゃ、外には出れない」


 確かにその通りだった。ナユタなんて赤の国が近づいてくると知らされても、それを見つけることができなかったのだ。


「ナユタもいいアイデアあったら言ってね」


 兼平さんがそう口に出した時だった。バーの奥のテーブル席でガタっと立ち上がる者がいた。

 その者はテーブルを離れ、二人に近づいてくる。それは無精ヒゲが伸び放題になり、草臥れた服装をしていたが、まだ若い男性のようにも見えた。

 ナユタは怪訝な表情になり、その男の顔を覗き込んだ。ハッとする。知っている顔だった。


「ま、まさか、お父さん……!」


 それはナユタの父、深敷ふかしき武亮むりょうにソックリだった。だが、一点異なるのは、その姿が記憶にあるものよりも、若いということだった。

 ナユタは十年前に両親が離婚した時から、父に会ったことはなかったのだ。その姿より若いということは、武亮ではないということではないか。


「ナユタ……。我が愛しき娘、ナユタ……」


 その言葉からは喜びや嬉しさとともに、怯えが伝わってくる。彼の笑顔は卑屈なものだった。

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