第二十二話 水煮魚
大地の
だから、場合によっては、その新芽だけを食すことも可能だ。
兼平さんはビンを用意した。その瓶の中に大地の妖蛆の卵を入れ、たっぷりの水で浸す。
それに封をして、光が当たらないように袋に入れ、箱の奥にしまい込んだ。これで、しばらくすればもやしができあがることだろう。
あるいは、豆板醤を作ることもできる。
ナユタは蒸し器で大地の妖蛆の卵を蒸して、柔らかく固まった卵を圧し潰していった。それに、米麹や塩、唐辛子を混ぜ合わせ、別に用意したビンの中に保存する。
これもまた、光が当たらないように保存し、熟成を待つ。
だが、人間牧場の時間の流れ程よくわかないものはない。
基準などあってないようなものなので、いちいち確認する必要があった。
朝、それぞれの支度が終わった。
兼平さんはスーパーカブの運転席に、ナユタはカブの牽く荷車に乗り込み、今日も出発する。
◇
カブが走っていく。周囲に真っ黒な沼が広がっていた。
ただ、臭気が漂っているわけでもなければ、水のせせらぎを感じるわけでもない。
黒いだけの沼というのも奇妙だった。
「あれは影たまりよ。世界中の影に隠れた影、行き場をなくした影が集まってきているの」
疑問を口にしたナユタに兼平さんが答えてくれる。
しかし、それはどうにも要領の掴めない言葉だった。
「影の中に入ると、影が消えるでしょ。それで消えた影はどこに行くと思う? 建物の影をより大きな建物の陰が飲み込むなんてことも、別に珍しくないでしょ。
そうした影がここに全部集まっているの。何重にも何万重にも、いいえ、無限に影がたまっている場所なのよ」
なんだか途方もない話だった。
いや、そんな話が信じられるだろうか。影ってそういうものじゃないだろう。
けれど、真っ暗な闇の広がる沼を見つめていると、それが決して荒唐無稽な話だとは言い切れないように思えてくる。
プロロロロロロ
カブが止まった。兼平さんが運転席から降りて、荷車に近づいてくる。
「釣りしましょ」
そう言って、荷車に積んでいた釣り竿を取り出した。
場所はまだ影たまりの広がる中である。ナユタはそのことに不安になった。
「大丈夫よ、影の中にだって魚はいるんだから」
どういうことなのか、よくわからなかったが、影たまりの中に釣り竿を投げ入れる兼平さんに倣い、ナユタも釣り竿を振るう。
「影は全てに通じている。だから、影に釣り竿を投げれば、あらゆるものが釣れるはずよ」
兼平さんが釣りを始めたのは、つい最近だったはずだ。だというのに、そんなことが保証できるのだろうか。
そんなことを思いながらも、釣り竿を垂らしたまま、反応があるのを待つ。
そんな時だ。ナユタの釣り竿がピクンピクンと反応した。
ナユタは必死で釣り糸を巻く。だが、獲物の勢いも強く、ナユタの身体が引っ張られた。そんなナユタの後ろに兼平さんが来て、ナユタの両腕を掴んで、その体を固定してくれる。
ナユタの鼓動はドクンと高鳴った。兼平さんは獲物を釣り上げるのを手伝ってくれているだけだ。だというのに、なぜそんな感覚が起きるのか、ナユタにはわからない。
やがて、獲物も疲れたのか、抵抗する力が弱まってくる。釣り糸を巻くのも大分楽になってきた。
そして、ついに獲物が釣り上がるぜーはーぜーはーと二人は荒くなった呼吸を肩で息しながら整えた、そんな中、兼平さんは釣果が何かを眺める。
全身に鱗が生えており、背中には甲羅があった。顔と思しき箇所はバグのような見た目で、長い鼻が伸びている。
「ヌグ=サスね。大きい魚が釣れた」
これが魚なのかは定かではなかったが、なんにせよ釣果があるのはいいことだ。ナユタにも大物を釣り上げたという実感が湧いてくる。
そんな様子を眺めてか、兼平さんは微笑みながら言う。
「じゃあ、料理を始めましょ」
◇
兼平さんはバルザイの
そして、腹を捌き、内臓を取り出し、三枚に卸した。ヌグ=サスの肉を一口大に切り分けていく。
そこに紹興酒をかけ、塩と胡椒で下味をつける。さらに片栗粉をまぶす。それを湯を沸かした鍋の中に入れ、火を通した。
ナユタはかつての相棒だったニワトリに残された骨を鍋の中に浮かべて、煮え立たせる。そこに化学調味料を混ぜながら、味を調えていく。
同時に、ニンニク、ショウガ、唐辛子、セロリを切っていく。
兼平さんはもう一つの鍋を用意し、そこに油をたっぷり入れた。ニンニクとショウガを加える。さらにナユタの作っていた豆板醤を入れると、香りが辺りに漂った。食欲を掻き立てる、いい香りだ。
その香りの中に、もやしとセロリを入れていく。もやしは今朝育て始めたものが、すでに芽吹いていたのだ。
ナユタが鶏ガラで出汁を取ったスープはすでに煮立っていた。それを兼平さんの炒めるもやしとセロリの中に入れる。ジュワァーっとスープが沸騰する。
それを皿に取り分けていき、魚肉を乗せた。そこに唐辛子や山椒を乗せていく。
鍋で油を熱し、それを皿の中にかけた。油が撥ねる。それと同時に魚や野菜、そして唐辛子と山椒が焦げつつある匂いが漂っていった。
これが四川料理、水煮魚だ。
◇
「紹興酒、飲む?」
兼平さんが尋ねてきた。それがどういうものかはよくわからなかったが、ナユタは頷く。
兼平さんは紹興酒をストレートで飲んでいたが、気を使ってくれたのか、水で薄めたものを出してくれた。
それを飲む。不思議なお酒だった。
舌に奇妙な苦みを感じ、鼻先に独特の香りが乗る。中華圏のお酒というべきだろうか。杏仁豆腐を思い出す味わいがある。それが心地よい。
その感覚を楽しみながらも、水煮魚に手をつける。
「あっ、言い忘れてたけど、唐辛子は避けて食べてね」
兼平さんが補足してくれた。
ナユタはそれに従い、水煮魚に手をつけ始める。
まずは、魚だ。白身魚を食べる。さっぱりした味わいだが、淡白ながらも魚介ならではの旨味を感じる。
もやしはシャキシャキとしていて食べ応えがあり、豆の旨味をどこかで残している。
セロリはしっかり熱が通っており、ホクホクとした食感があった。その独特の香りは健在で、それがまたフレッシュな美味しさを感じさせる。
これらが辛みとしびれのあるスープによって深い味わいを持っているのだ。美味しくないはずがない。
スープに旨味がしっかり出ているが、その奥でニンニクの食欲を刺激する香りが漂う。ショウガの爽やかでありながら、刺激的で喉の奥まで正常していくような味わいも健在だ。
なにより辛さ。それは食欲を掻き立ててならないものだった。
中華料理、とりわけ四川料理は劇薬だ。美味しいだけでなく、その美味しさは肉体にも変革をもたらすほどのパワーがある。そんな思いが頭をよぎった。
事実、水煮魚を食べたナユタは元気が有り余る奸悪を持て余す。まるで美味しさがそのまま肉体に力を与えているようだった。
同様に、兼平さんも美味しそうにスープを飲んでいたが、ふと顔を上げる。
そして、話し始めた。
「最近、おばあちゃんが言っていたことが頭をよぎって仕方ないの。心当たりがないなら、気にしないでいいんだけど。
ねえ、ナユタ、
突然の兼平さんの問いかけに、ナユタは思わず箸を落とす。
次の瞬間、母のことを思い出した。癇癪を起した顔。優しかった顔。何を考えているのかわからない、無表情。
それらを思い出し、ナユタは暗い気持ちに沈んでいた。
「なんで、その人のこと知ってるの……」
どうにかして動揺を包み隠そうとする。
ようやく言葉にしたそれは、ナユタにとって、精一杯に紡ぎあげた言葉の羅列だった。
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