第十八話 麻婆豆腐
兼平さんの運転するスーパーカブが海辺の道を走る。ナユタはカブの牽く荷車に揺られながら、海を眺めていた。
だが、カブは山の上を進み始め、荷車はガタガタと揺れる。こうなると景色を眺める余裕もなくなり、ナユタは必死に揺れに耐えていた。
とはいえ、それもやがて止まる。どうやら目的地に着いたようだ。
それは川辺の町だった。思ったよりも活気がある。もっと言えば、人間牧場で見た中で一番活気があるかもしれない。
町には市場のように店がたくさんあり、賑わっている。この町の住人もいるんだろうし、旅人たちもたくさん訪れているようだ。
その様子に感心していると、兼平さんとナユタに近づいてくるものがあった。それは侍のように見え、黒い紋付を羽織り、一本の刀を差している。丁髷は針金のように細くピンと立っているのが特徴的だった。
「やあ、よく来たね。サオリ、それに、ナユタだったかな」
ナユタはこの侍が兼平さんの知り合いのようであり、しかも、自分のことまで知っていることに戸惑う。
それに、侍のような姿をしているが、いったい何者なのだろうか。
「おっと、名乗りが遅れてしまったか。
俺は
まあ、
その名前はナユタにも聞き覚えがあった。もっとも、歴史の授業で習ったという程度であるが。
あらゆる物事に精通する
「まさか、平賀源内……本人じゃないですよね?」
ナユタは面食らいながらも疑問を口に出す。
「ナユタ、知ってるの」と兼平さんは驚いたようだったが、平賀源内は平然と答える。
「本人さ。江戸時代の日本から人間牧場に引っ越してきたんだ」
それは驚くべきことだった。うすうす感じていたが、現実世界と人間牧場では時間的なつながりが曖昧のようだ。だが、彼の口ぶりだと、あたかも自分の意志で来たかのように思える。日本史上においても異端の天才である平賀源内であれば、そんなことが可能なのだろうか。
「せっかく来たんだ、俺の頼みを聞いちゃくれないか」
平賀源内が何かを話し始める。兼平さんは「それは報酬次第ね」と流すように聞いていた。
「報酬は、豆腐じゃあどうだい?」
その言葉を聞いた瞬間、兼平さんの目が光ったように見える。
「やる」
即答していた。
ろくに内容も聞かずに引き受けるというのは、普段の兼平さんからは考えれないことである。
だが、ナユタも豆腐という言葉の響きに懐かしいものを感じていた。久しぶりに豆腐を食べられると考えると、とても嬉しい気持ちになってくるのだ。
◇
太陽が灼熱のように照らしている。
兼平さんとナユタは大きな帽子をかぶって、その日差しを軽減しているが、それでも暑いものは暑い。いくら豆腐のためとはいえ、ここまで苦しい思いをさせられるなんて理不尽に感じてしまう。
ナユタは先行報酬だと言われて渡された竹筒から水を飲んだ。よく冷えた水が喉に流れ込んでいく。少しは涼しくなった。
この水筒は見た目以上に容量があり、それでいて軽量、保温機能もあるという優れものだった。確かに、報酬としては申し分のないものだ。
二人は大地の
そして、その巣は崖の岩壁の中に作られるのだという。見つけたとしても、手に入れるのは大変だ。ナユタはそう感じていた。
「あれじゃない」
とうとう兼平さんが大地の妖蛆の巣を見つけてしまった。しかもタイミングよくというか、卵は残っているが、妖蛆の姿は見えない。
兼平さんはガチャガチャと音を立て、クロスボウの準備をする。そして、崖のてっぺんに向けて矢を撃ち放った。矢にはロープが括られており、妖蛆の巣に向けてロープが垂れ下がることになる。
「ナユタ、気をつけて登ってね。ロープは急ごしらえだから、ロープが落ちることも考慮してちゃんと手と足で岩を掴んで登るのよ」
やっぱりナユタが登らなくてはいけないようだ。
兼平さんはというと、クロスボウに矢を再装填し、万が一、要素が現れた際に狙撃するのだという。その役目はナユタにはできず、やはり突入役はナユタになる。
崖を登るなんて初めてだった。
ロープが不安定なのは事実のようだったが、それでもロープを頼りに登らざるを得ない。しかし、次第に岩を掴むということもだんだんわかってくる。
崖というと、断崖絶壁のようなものを思い浮かべるが、実際には坂にも近いものであるし、掴むべき岩や踏みしめるべき足場も確実にあるのだ。それをしっかり探し出して、一つずつ丁寧に上っていく。
ふと地面を見た。それは、遥か彼方にあるようだった。気づけば、大分高い場所にいる。
ナユタは目の眩む思いがし、全身の力が抜けていくのを感じる。怖いのだ。だが、恐怖に飲まれていては、実際に落っこちて一巻の終わりとなってしまう。それは嫌だ。
――登るんだ、登る登る登る。
ナユタは指向のすべてを言葉でいっぱいにし、とにかく先へ進むことだけを考えた。
ようやく大地の妖蛆の巣へとたどり着いた。ゼーハーと肩で息をして、どうにか呼吸を整える。
あとは、妖蛆の卵を回収して、戻るだけだ。
「戻るだけ……」
自分の考えたことに、徒労と恐怖を同時に感じる。しかし、やらなければならないことだ。
ナユタは背負っていた袋に妖蛆の卵を詰めていく。
チョロチョロ
奇妙な音が聞こえた。次の瞬間、ナユタに襲い掛からんとするものがいることに気づく。
大地の妖蛆だ。それは二足歩行の蜥蜴というべき生き物だった。顔は蛇とも蜥蜴ともつかず、その細長い眼孔がナユタを睨んでおり、口からは二股になった舌がシュロロロと出たり入ったりしている。全身は赤褐色とでもいうべき色合いで、崖を張っていたら、その姿を見つけるのは困難だっただろう。
「あ、奥にいたのね……」
ナユタは絶望的な声を漏らした。地上からでは死角になっていた場所に、まだ巣の奥があったらしい。
襲われる。そう覚悟した瞬間だった。
ズサッ
大地の妖蛆の頭に矢が刺さっていた。兼平さんの援護射撃だ。妖蛆はなおも動き、ナユタに迫ってくるが、ナユタは腰に差していたナイフを抜き様に妖蛆の首を掻っ切った。
しばらくすると、妖蛆は動かなくなった。
「ナユタ―、大丈夫ー? 大地の妖蛆はロープに括って落としてねー」
下界から兼平さんの声が聞こえてくる。ナユタは彼女の言葉に従い、妖蛆の死体を地上へと降ろした。
そして、意を決して、崖を降り始める。
◇
「ふふ、確かに。それじゃあ、こっらを持っていってくれ。特上の豆腐だ」
平賀源内は袋の中に大地の
兼平さんは豆腐を目にすると、にっこりと笑顔になる。
平賀源内の屋敷を離れ、二人のキャンプ地に戻ると、兼平さんは言った。
「それじゃ、料理を始めましょ」
兼平さんは竈門を作り、鍋を火にかけると、すでにミンチにしていた大地の妖蛆の肉を炒めた。大地の妖蛆の肉は良く火が通り、パリパリとした感触を持った焼肉に変わっていく。
ミンチ肉を取り出すと、続いて、唐辛子、ニンニク、ショウガを炒める。さらに、平賀源内から物々交換で手に入れていた豆板醤と甜面醤を加えた。香ばしく、辛みを持った香りが周囲に漂い始める。
ナユタはというと、別の場所に竈門を作り、鍋で湯を沸かしていた。湯が沸くまでの間に、豆腐を刻み、一口サイズにしていく。湯が沸くと、その豆腐を茹でた。
そして、豆腐で沈静した湯が再び沸き始めると、兼平さんの作っているタレの中に豆腐を移す。
豆腐が入ると、醤油、塩、紹興酒、胡椒、それに山椒を投入して、味を調える。さらにネギを加え、とろみをつけるために片栗粉を溶かしたものを回しかけた。これはコウがチクタクマンから手に入れていたものである。
しばらく煮る。香味野菜の複雑な香り、肉の香ばしさが混ざり合い、得も言われぬいい匂いがする。
麻婆豆腐が出来上がりつつあった。
◇
兼平さんが料理酒に使った紹興酒をコップに注いでいる。
それを眺めていると、「一口飲んでみる?」と兼平さんに問われた。ナユタはドギマギしながらも頷き、紹興酒を口にする。
ゲホッゲホッ
盛大にむせていた。苦手な味だった。
苦いというか、よくわからない味だ。アルコールも強くて、受け付けない感じがある。どことなくドクターペッパーの奇抜な味わいを思い出した。
無理をせず、ビールを飲むことにする。
今日は炎天下の中で大地の
だが、疲れた時のビールは格別の美味しさをもって喉にしみ込んでいく。この異様なまでの美味しさは、最近になってナユタにもよくわかってきた。
喉を癒すと、ついに麻婆豆腐に手をつけ始める。
木の匙を用い、豆腐をすくうと、口に入れた。あつあつっ。熱い、それに辛い。でも、それが食欲を掻き立てる。
豆腐は熱くて、でも柔らかくてふわふわ、そして、何より熱々だ。それが強い美味しさと満足感になっている。だが、よく味わうと、辛さと旨味の奥に、豆の風味がしっかりとあるのがわかる。
辛く、美味しく、素材本来の味わいもある。兼平さんは料理上手だ。
大地の妖蛆の肉は粗くみじん切りにされており、食べていると厚みが感じられ、肉の旨味がしっかりと感じられる。
山椒が良く効いており、舌がしびれる感覚もあるが、それが奇妙に心地いい。ニンニクやショウガの刺激もしっかりとあり、食べるたびに新しい感覚が得られるほどだ。
この麻婆豆腐はバランスがいい。それだけでなく、冒険心も豊かだ。
「この麻婆豆腐、本当に美味しい。どうやったら、こんな料理作れるんだろ」
ナユタは思わず声に出していた。
それを聞き、兼平さんはにっこり微笑む。
「麻婆豆腐ってさ、マアおばあちゃんの作った豆腐料理だったんだって。
だからかどうかはわからないけど、私のおばあちゃんもこの料理が得意だったんだ。私のおばあちゃんはマアじゃなくて、
あははははははは。
兼平さんはそう言いながら、声に出して笑った。
ナユタが思い出せる限り、兼平さんが声を出して笑うのは初めてのことだ。
「私って、お母さんのこと、全然覚えてないんだ。私を生んですぐに死んじゃったらしいから、当たり前のことだけどさ。
それからはずっと、おばあちゃんが母親代わりっていうのかな? 面倒見てくれたのはおばあちゃんだけだった。
でもさ、結局、おばあちゃんは私をかばって死んだんだ」
あははははははは。
兼平さんはまだ笑っていた。けれども、ナユタが兼平さんに目を向けると、笑いながらも涙を流している。つらい記憶を思い出す時、人はこんな表情を見せるのだろうか。
「ナユタ、ありがとう。私、今日から先へ進める気がする」
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