第10話 どんな魔法よりも大切なもの

 第九話 https://kakuyomu.jp/works/16816700429598600377/episodes/16817139557695301504




「よそ見しないで!」

 そう叫びながら、入り口を見て固まったエピィに向かってぬいぐるみが駆け寄る。声を上げるよりも早くエピィの足は宙に浮かび上がっていた。それとほぼ同時にピシィと鋭い音が鼓膜に響き、頬の横を蔓が踊る。

「まったく。ぼうっとしてる余裕なんてないだろ」

 高々と抱き抱えられたエピィの横で馴染み深いくりんとしたガラス玉の目が動き、その下で緑色の髪の毛が意志を持っているかのようにうねる。

「ちょっとあんた! なにちゃっかりあんたまで上に乗って!」

「かたいこと言うなよ。棘なんて受けたら腹綿はらワタが飛び出る」

「こちとらカワイイ女の子しか乗せるシュミ無いっての!」

 言いながらもエピィの体は高速で薔薇の蔓を躱しては逃げていく。気づけばぬいぐるみが座っているのは葉っぱであり、短い手でその先を器用に左右へ動かしている。

「主、怪我ないか」

「シュガー? あなたシュガーよね?」

 体をよじらせ姿勢を落ち着けると、やっと声が楽に出せるようになった。エピィが手を伸ばすと、シュガーは葉っぱの操作を左手に任せて右手でエピィの人差し指を掴む。

「よしよし。無事なあたり、主にしては頑張った」

「なんでシュガー、しゃべってるの?」

「あー、それは説明してる暇ない。早いところあの口金をどうにか黙らせないと。喋るごとに薔薇が増えてる」

 それはエピィもなんとなく推測していたことだった。口金が何か言うたびに蔓の勢いも力強くなっている気がするのだ。多分、口金の絞り出し口は生き物でいう口のようなものなのだろう。そして「言葉」は強い。魔女の呪文と同じように、魔力を持つものが発する言葉は特に力を持つ。

 狭い厨房だ。蔓から逃げてもすぐに端まで追い詰められてしまった。マンドラゴラがオーブンを背に停止し、口金を上に載せた薔薇の花と対峙する。

「うふふ、行き場がないですわよ」

 口金が話すのに合わせて薔薇が愉快そうに揺れた。

 ——どうしよう。ここで攻撃されたらオーブンが壊れちゃう。

 そうなったら大火事が起こってしまう。エピィは唇を噛んだ。薔薇は火に弱いかもしれないが、双子もエピィたちも助からないだろう。

 すると、頭上からコンコン、カツコツという音が鳥たちの声と一緒に降ってきた。

「ねえ、中で何が起こってるの?」

「ここもうちょっと開けてくれないかなあ」

 見上げると、天井近くに付けられた窓をカラスくちばしで叩いている。いや、嘴の先に何か光るものがある。窓を叩いているのはその塊だ。

「せっかくキラキラ綺麗なもの見つけたからお兄さんたち、驚かそうと思ったのに」

 ——綺麗なもの?

 思った矢先、シュガーが短い手を極限まで伸ばして叫んだ。

「エピィ、あの烏がくわえているやつ! あれがあれば……」

 言われてエピィも目をこらす。窓に打ち付けられているは、ガラスの向こうにあって輪郭が朧げだ。やや白濁して見えるが、その縁が時折り虹色に光っている。ガラスとその物体で互いに光を反射しあい、烏の艶やかな漆黒の毛に玉虫色に変わる光の輪ができる。まるでそれは、朝日を受けた氷柱のように。

「アイスキューブ!」

 高窓は少しだけ隙間が開いているようだ。少し押せばキューブくらいなら入るだろう。問題は、どうやってあの高窓に辿り着くか。

「主、さっきのあれ使おう。リュー、あの薔薇ちょっと食い止めといて」

 シュガーは何か思いついたようで、上を見たままマンドラゴラの頭をぺしぺし叩く。

「痛いわね! いいえぬいぐるみごときの力なんて痛くないけど心が痛いわよ! 人に物頼む態度なの?」

「お願いリューさん。あたし降りるから、少しの間でいいの。口金の気を留めておいて」

 エピィが頼んだ途端、リューは自力で降りようとするエピィをふわりと持ち上げる。

「小さい可愛いお嬢さんのお望みなら喜んで」

 さあどうぞ、とリューが優しくエピィを床に立たせる。シュガーはげんなりリューを睨んで悪態を呟いたが、エピィがお礼を言うのと被さって運よく聞こえなかったらしい。むしろ意気揚々と口金と対峙した。

「主、妖精の羽の粉出して! 早く!」

「うわわ、これっ?」

 開いた緑の葉っぱの後ろに隠れながら、エピィはポケットから粉の入ったケースを取り出した。トン、とシュガーがエピィの手の上に飛び降り、ケースの蓋を開ける。

「粉をかけるよ!」

 言うが早いか、シュガーは煌めく粉をエピィの体めがけて払った。思わず目を瞑ったのと同時に足の裏が触覚を失う。

 エピィの体は宙に浮き上がっていた。

「主の魔力じゃ空中浮遊は一時的だよ。早く!」

 足を軽くばたつかせると泳ぐように宙を上がっていく。下からは口金の甲高い喚きとやり返すリューの言い合いが聞こえてくる。

「ちょっとそこを退いたらいかが? わたくしの素晴らしい薔薇園に貴方のような雑草はいらなくてよ」

 高飛車な調子は薔薇に伝染するようだ。棘のある茎をうねらせながら真紅の花びらがリューに迫った。

「雑草とは失礼ね」

 パシン、とリューの葉が花びらを一枚叩き落とした。

「あんたこそ何よそのけばい色」

「私が作った子をけばいですって!? 美意識のカケラもないわね! 言葉の選択すら品性を疑うわ!」

「あんたみたいな年増なんて眼中外なのよ。しかも小さくて可愛らしい愛らしい魔女っ子を虐めるなんてこれだからお局の嫉妬は」

「ちょっと聞き捨てならないこと言わないでくださる? わたくしのようなものは使い込まれてこそ味が出るのよ!」

「こちらは道具なんて使わないから微塵も興味ないわね! 大体、自分で素晴らしいとか言うあたりから性根が腐ってるわよ。その時点で一番から格下げだわ」

 リューの言葉にエピィはどきりとする。箒を持ち出して、自分が思ったことは何だったか。

「大体、自己満足で薔薇園作って誰のためになるわけ? 周りを考えもしないで」

 ——自己満足……そうだ、お兄さんたちも、あたしも一緒だ。

 宙を飛ぶ体はみる間に窓に近づき、手を伸ばせば簡単にガラスが押し開けられた。一歩飛びすさった烏が羽を畳んでエピィの手に近づく。腕に捕まっていたシュガーがエピィの手の先までよじ登った。

「ごめん君、このアイスキューブ、主のなんだ。返してもらってもいいかな」

「烏さん、ごめんなさい。でもどうしても必要なの」

 烏はまだ嘴にキューブを咥えたまま、嘆願するエピィの目をじっと見つめた。漆黒の瞳はエピィの心の奥底まで見透かすよう。

「ごめんなさい。できることなら後でお礼をするからお願いします」

 高い天井の遥か下では憤った口金が勢いを増して薔薇を増産している。部屋が埋め尽くされるまでそう時間がかかるとは思えない。

「急がないと、お兄さんたちも危ないの」

 烏は窓の中を覗き込み、部屋の様子を見るや羽を羽ばたかせた。そして嘴をエピィの手のひらに近づけ、アイスキューブをそっと載せる。

「お兄さんたち、ちゃんと守ってくれる? 癖があるけどお菓子をくれる優しいお兄さんなんだ」

「できるかどうか分からないけれど、やってみます。せっかく見つけたものなのにごめんなさい」

 すると烏は首をふりふり、カァと一声鳴くや、陽気に告げる。

「お嬢さん、貰うなら、もっと素敵で大事な別の言葉がいいなぁ」

 えっ? 別の? とシュガーと顔を見合わせる。もっと素敵で大事な……

 エピィとシュガーは口を揃えて叫んだ。

「ありがとう!」

 満足げに胸を反らし、烏は羽を大きく一振りする。勢いのある風がエピィの体を部屋の中へ押し戻し、新たな羽ばたきで生まれた風にふわりと乗って、エピィは下に戻っていった。

 しかし緩やかな下降は途中までだった。がくんと均衡が崩れ、一気に落下速度が加速する。妖精の粉の力が切れたのだ。

「いたっ!」

 薔薇の棘が服の袖を裂き、腕が引っ掻かれる。ジャっという音と共に肌に刺激が走り、思わず握っていたキューブが手から離れた。

 しかしエピィに傷をつけた薔薇の花は、即座に萎れて床に倒れた。真紅の花びらは重力に負けて力なく横たわっている。そして鮮烈な紅の上にきらきら光るのは、溶けないアイスキューブ。

「思った通りだ。さすがに大輪の薔薇でも魔力を宿した氷の冷たさには勝てないだろ」

「早く他のも鎮めないと!」

 また太陽に当たって温度が戻れば回復してしまう。エピィは室内に蔓延る花々を睨みつけた。ところが、口金とやり合っていたリューが起き上がったエピィを一瞥するや葉っぱをばたつかせた。

「ちょっとぉ、そのちっこいの、アタシに当てないでちょうだいよねっ」

「主、リューはともかく全部を相手にしてると消耗しすぎる」

「あっコラ、『ともかく』って何!? 『ともかく』とか言う!?」

「本体を封じよう」

 シュガーはエピィの肩に再びよじ登り、左手の上に右手を被せた。その仕草だけでエピィには十分だった。破れた袖を捲ってアイスキューブを拾い上げ、それを胸の位置までかかげる。

「リューさん、マンドラゴラの幻覚って道具にもかけられます?」

 口金に視点を定め、隣のリューとシュガーにしか聞こえないよう囁く。先ほどの憤りはどこへやら、リューは葉先をピンと伸ばして胸を張った。

「当然楽勝朝飯前! そこのソルト、この礼儀の良さを見習ったらどうなの」

「ありがとうリューさん、じゃあ行きます!」

 植物特有の筋張ったリューの手をきゅっと握り、エピィは駆け出した。背後では歓喜して絶好調のリューが魔力の宿った音波を発しているのが伝わる。

「あら何かしらこの麗しい花畑は!」

 マンドラゴラの発する音波は聴覚には伝わってこない。しかし確実に効果を発している。魔女の神経が察知するのだろう。その証拠に、口金は恍惚として幻視に夢中のようだ。

 アイスキューブを持った手で体の周りに半円を描きながら、エピィは足元の薔薇を飛び越えた。周囲を埋めていた蔓薔薇はキューブが近づくやザッと後ろにしなる。わずかに触れた葉が凍って床に項垂うなだれると、ますます薔薇はエピィから離れて道を開けた。

「美しいわ。この上ない庭園だわ。わたくしの子供たちが咲き誇って! 誰もが褒め讃えるに違いないわ!」

「そうかしら」

 たん、と靴底が床を撃つと、マンドラゴラの音波が消えた。

「素敵に見えるかは、作り手がこめた気持ち次第だと思うわ」

 すぅ、と意識的に深く息を吸う。魔女の声は、使いようによって空間を支配する——そうママが言っていた。

 ——あたしはまだまだ、未熟なんだわ。箒も道具も、偉そうに使えるほどじゃない。だから……

「あたしがあなたに綺麗な花を咲かせてあげられるまで、しばらくお休みよ!」

 突然幻視の解けた口金が、エピィの方に口を向けて静止した。ほんの一瞬だった。

「頭を冷やしなさい!」

 口金目掛けてアイスキューブを振り下ろす。

 金属がぶつかる硬質な音が響きわたった。

 その音と同時に、ざざぁっと漣のように部屋の端から花々が倒れ、床についたものから次々に消えていく。薔薇の花は残像を残しながら空中に霧散し、ついには花びら一枚残らず厨房から失われた。

 コロン、と、アイスキューブにくっついたままの口金がエピィの足元に転がる。

 それを見た途端、足から一気に力が抜け、エピィは床に座り込んでしまった。

「主、よくやった。やっぱり金属と氷は相性がいいね。落ちても離れない」

「きっとアイスキューブの温度が保たれてるうちだわ。早く姉さんかママに預けて、口金が正常化するまで冷やしてもらわなきゃ」

 高らかに話す口を塞がれてしまえば悪さも出来ない。でもきっとエピィの魔力では効き目も限界があるだろう。くっついたままになるよう、そっと二つの道具を拾い上げる。

「う、うん? あれ? なんで座ってるんだ僕ら。しかもこのとっ散らかりよう」

 背後で双子が起き出したようだ。がたがたと落ちた器具を拾い上げる音がする。

「あぁ、お嬢ちゃんまで座り込んで」

「あれ本当だ。大丈夫かい? 何か割れて怪我とかしてないかい?」

 エピィに気づくや、双子は厨房に散乱したものをそのままにエピィに駆け寄り助け起こしてくれた。心底心配そうな目でエピィの顔を覗き込む。烏の言う通りの性格なのだ。

「ありがとう。あたしは大丈夫です」

「それなら良かった。そうだマドレーヌ。あれも駄目になっちゃったかな」

 オーブンの方に戻ろうとするマサキを、エピィは呼び止めた。

「あの、ね、お兄さんたち」

「んん、なんだい?」

「お兄さんたちのマドレーヌは、誰に食べさせたいの?」

 脈絡のない質問にマユミの動きが止まる。マサキはオーブンの蓋にかけた手を離した。

「子供からお爺さんお婆さんまでみんなに愛されるお菓子。それがマユミとマサキの菓子店だよ」

 決まってるだろう、と双子は口を揃えた。

 でも何かそれは、双子の振る舞いとは矛盾している気がする。ひとつひとつ考えながら、エピィは言葉を選んだ。

「でも、もし、もしそうなら、きっと食べる人を考えながら作ったら、もっと美味しくなると思うの」

「食べる人を?」

 エピィは大きく頷いた。

「たとえば、お兄さんたちのマドレーヌ、確かにどれもいい香りなんだけど、あたしにはお酒が効いたのは食べたくても無理だし」

 ——あたし、前まで魔法を使うときに、周りのこと考えずに使ってた。迷惑だなんて思わずに。ママの箒も。道具の使い方だって、後始末にユーフェミアの助言がなかったらどうなっていたか。魔道具は便利だけれど、自分だけのご都合主義では災厄を呼びかねない。

 マサキとマユミのお菓子と似ていた。作ったものを受け取る相手を考えないのと、使った魔法の影響を考えない自分。

「ああ、そうかぁ。それは思いつかなかった」

「それ言うと甘すぎたり苦すぎるのもまずいのかな。僕らは平気だけど、苦手な人もいるかもしれないぞ」

 途端に双子はオーブンからマドレーヌを取り出し、一口ずつ齧って議論を始める。まさに職人のこだわりようで、粉の配合から卵を入れるタイミングまで仔細に検討し始める。

「てことは、あのケーキもあげる人の希望を聞かないといけないね」

「ああそうだ。薔薇より好きな花があるかもしれないし」

 二人が口にするのを聞くなり、エピィの服に冷や汗が滲む。本物の花はもう消えて、ケーキはめちゃめちゃなはずだ。

 しかし二人の後について店の方へ戻ったエピィは、あんぐり口を開けてその場に立ち尽くした。

「んん、薔薇の香りをメレンゲに入れたのは失敗だったかな」

「形は悪くないんだけどなぁ。シャンティ・クリームが甘すぎるかな」

 ——花が、どうして?

 双子が見る角度を変えて検分しているケーキには、先ほどと同じ位置に薔薇がついていた。マユミがピンク色の小さな花を摘み上げて口に放り込み、「シャンティと相性悪いかも」と呟く。今度は本物のメレンゲ菓子なのだ。

 握りしめた手を小さく開き、エピィは絞り口金があるのを確認する。アイスキューブは操る主人にとっては冷たくないが、口金の先はしっかりキューブとくっついて離れない。

 ともかくもう暴走はうんざりだ。どんなものでも包んでこぼさないハンカチにキューブごと口金を入れると、エピィはそれを鞄の奥底に埋めた。

 その仕草が帰る合図と思われたのだろう。

「あれ、お嬢ちゃん、そろそろ行かなきゃいけないかい?」

「それじゃその前にひとつ、いいかな?」

 首を傾げたエピィの肩の上では、シュガーがキリリと座っている。


 ***


「お疲れ様。よくできました」

 双子の店から一歩出ると、街路樹の上から耳馴染んだ声がする。首を上げるよりも早く、目の前で水色のローブが翻った。

「フェミア姉さん!」

「双子のケーキ、うまく誤魔化せたみたいね?」

「誤魔化せた?」

 抱きついたエピィを撫でてユーフェミアがくすくす笑う。エピィの鼻先で甘い香りがする。顔を上げると、ユーフェミアの腕に乗ったシュクレが、小さな薔薇の花をエピィの目の前に差し出していた。

『ユーフェが作って遠隔で飛ばして飾ったの』

「もう道具集めは終わっていた時なんだから、このくらいは試験の手助けに入らないでしょ」

『ママもいま頃、お祝いの準備してるわね』

 試験? お祝い? そう言われても、エピィには何のことか分からない。シュガーは知っているだろうか、と自分の肩を見る。

 しかしそこにいたのは、喋ったり動いたりする相棒ではなく、すっかり黙りこくったぬいぐるみだった。

「シュガー! どうしたの? さっきあんなにお話ししてたのに!」

 ゆさゆさ揺さぶってもシュガーはされるがままになっている。悪い魔法にかかってしまったのだろうか。

「あのねぇ、あれは一時的だったのよー」

 足元でキーキー音がし、ズボッと土が盛り上がった。

「今日は流れ星がうるさい日、妹ちゃんには星が集まるタルト型。きら星の光を集めて拡散、そのちっこいのにそら命中。ユーフェミアの魔法がほら発動」

 リズミカルに歌いながら、マンドラゴラは土から半身出た姿勢でくるくる回っている。

『お星様には願いを叶える力もあるのよ。エピィもシュガーと話したかったでしょう。ユーフェが出かける時に仕掛けを作っておいたからね』

「もう話せないの?」

 シュクレが話せるのはユーフェミアの高等魔法が効いているからだったのだ。

「シュガーはエピィとの絆があるから、私の魔法はきっかけを作ることしかできないわ。でも高等魔法を習得すれば、私とシュクレみたいに話せるようになるわよ」

 そんな寂しそうな顔しないの、とユーフェミアはエピィの額を人差し指で突っついた。弾みで肩からシュガーが滑り落ち、胸まで転がってきたのを慌てて受け止める。

『わたしはシュガーと繋がってるから、エピィに伝言よ。お疲れ様、早く帰ってよく休め、ですって』

「そうよ、本当。早く帰らなきゃ」

 しゅぽん、と軽快な破裂音と共にユーフェミアの右手に箒が現れた。マンドラゴラも「お先に帰りまっす」と地中に潜り、その動きに合わせて盛り上がった土が、魔法界の方角へ向かって地面に線を引いていく。

「エピィは私の箒に二人乗りね。さあ」

 ユーフェミアが箒に跨り手招きする。しかしエピィはその場に立ち止まったままだ。

「待って、姉さん」

 道具が全て戻った鞄をぎゅっと抱え直し、エピィはさっき来た道の先を見つめた。


 ***


 カラン、コロン。

 軽やかな鈴の音が入り口から室内へと広がっていく。キキィと蝶番の音を立てながら、そろそろと扉が開いた。

 部屋の一番奥でゆったり座っていた老人は、よっこいしょ、と呟きながら腰を上げた。室内に陳列された雑多な品物を落としたり倒したりしないよう、重い足をゆっくり運んでいく。

「ごめん、ください」

 入口が見えると、扉のところで小さな影がおずおずと会釈する。

「おや、まあ。あんたかい。道具はどうした。なんでまたこの店に来たのかい」

 恰幅のいい老婆の姿は迫力があり、声は低く怒っているようにも聞こえる。だが、もうエピィには怖くはなかった。深く息を吸い、ユズの瞳を真っ直ぐに見上げる。

「ありがとうございました。道具はすべて戻ってきました。もう落としたりなんかしません」

 手を揃え、深々と頭を下げた。

 何も聞こえてこない。見えるのは床と自分の靴だけで、何も動かない。

 どくどくと打つ鼓動が脳天に響いてくる。


「少し、大事なことも一緒に拾ってきたみたいだねぇ」


 しわがれ声の中に、柔らかさが混じる。

 そろそろと顔を上げると、ユズの顔には笑みが浮かんでいた。

「なんだい、なに言ってるのって顔は。あんたの目を見てればわかるよ。この間よりしっかりした目になった」

 ユズはエピィのすぐそばまで近づいてくると、腰を折って「それに」とエピィの顔を覗き込む。

「あんたが最後に来たあとにね、カリンもやってきたよ。小さな女の子はまた来てないか、その子に教えてもらったことのお礼がしたいってね。思ってたよりやるじゃないか」

 くっくっくっと抑えた笑いを向けてから、ユズは片目をつむってみせた。棒立ちで動かないエピィを見て、さらに面白かったのか今度は声を立てて笑い、エピィの腕をぽん、と叩く。

「また遊びにおいで。あの子も喜ぶよ。ほらもう日暮れだ。お姉さんが外で待ってないかい?」

 振り返ると、店の入り口までユーフェミアが来ていた。ユズの声が聞こえたのか、先のエピィと同じく手を揃えてお辞儀をする。その向こうでは、いつの間にか空が青から橙色に変わっていっていた。

 西の方から飛んできた烏が、街路樹の下に降りてくる。

「あの、ユズさんに、双子のお兄さんから伝言です」

 烏は黒々と光る羽を綺麗に折り畳み、こちらを向いてひと声鳴いた。

「ケーキの好みを教えてほしいって。お世話になっているお婆さんのお誕生日に、贈りたいそうです」

 するとユズは皺に囲まれた目をまん丸に見開いた。

「あの双子もどうにかしたのかい。これは立派な使いになったもんだね」

 そしてまた、今度は嬉しそうに目を細める。

「完成したらきっと、あんたも招待されるよ。そしたらちょっと付き合ってくれるかい」

 顔を綻ばせて小指が差し出される。皺のたくさん刻まれた指に、エピィは自分の小指を絡ませた。



 ***



「さぁって! 日が落ちきる前に魔法の国まで戻れるといいけど。エピィ、ちゃんと捕まってる?」

 ユーフェミアの箒の後ろに跨って、エピィは返事代わりに姉の腰に回した腕に力を込めた。ユーフェミアの銀色の靴が地面を蹴ると、瞬く間に体が木の上まで飛び上がる。

『眠くても寝ちゃだめよ。境界で落ちたら大変だわ。ユーフェも疲れてるから助けられないかも』

 魔法界と人間界の境は極めて幅が細いが、はまったら最後、時空の歪みに巻き込まれてしまう。シュガーを落とさないよう、エピィはぬいぐるみがしっかり鞄に入っているのを確認する。シュガーには悪いけれど、帰りは鞄の中で眠ってもらおう。

『ユーフェったら心配でずっと鏡を気にしてるんだもの。魔力使って消耗してるから』

「シュクレ、速度を上げるわよ。お喋りで舌噛んでも知らないから」

 言うが早いが、箒は風を切り、雁の群れを越え、月明かりの下に飛び出した。

「今日はご馳走よ。とろけるお野菜のパンケーキに、氷が弾けるラムネ、きっとデザートは妖精の花のクリームケーキだわ」

「ええっ!? 何かあったの?」

 妖精の花は魔法界でも高価で、その花の蜜を混ぜて作ったクリームのケーキは誕生日だって出てくるか分からない。ママは一体、どうしちゃったんだろうか。

「帰れば分かるわ。飛ばすわよー!」

 箒の尻尾から星屑が落ちる。きらめく粒が地上に溢れ、マンドラゴラが飛び上がった。


 エピィがびっくり仰天するのは、もう少しあとのお話。



 ☆☆☆おしまい☆☆☆




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