第8話 美しき薔薇の花には棘がある

 かちゃりとマサキが取っ手を回した次の瞬間、扉の隙間から甘い匂いが流れ出てきた。スポンジケーキかクッキーか、砂糖がこうばしく焼けた香りが鼻をくすぐる。

「ちょうどフール・セックが出来たところだよ。毎日何種類も作るからオーブンもかけっぱなしだ」

「今日はマドレーヌとフィナンシェ。クッキーは出来立てを売るからまだだけどね」

 マユミはエピィを戸口に残すとスタスタ厨房の奥まで歩いて行き、エピィには見たこともない大きな四角い鉄製の扉を開けた。するとさっきから漂っている甘い香りと共に、むわっとした熱気が室内に広がる。

「絶妙なタイミング。やっぱり僕らの勘は最高だね。オーブンを見なくたって加減がわかる」

「何言ってるんだマユミ、途中で開けたら萎むだろう」

「おっとそれはそうだった。どうだいお嬢ちゃん、美味しそうな色だろう」

 エピィは今まで見たこともない巨大で立派なオーブンにポカンと口を開けていたが、マユミに尋ねられたのと同時にお腹がぐぎゅうと鳴る。その音で我に返ると、ほっぺたから額、耳までもが熱くなっていく。

 咄嗟に俯いてしまったエピィの頭の上で、実に陽気な笑い声がした。

「お嬢ちゃん、見事な腹の虫だなぁ」

「もしかして昼飯、食べてないのかい」

 エピィはたまらず上着の裾を握りしめた。きっと自分の顔は真っ赤になって見れたものではないに違いない。

 ——だって朝ご飯、あんな美味しくないスムージーだけだったんだもの。

 栄養スムージーを飲んだってお腹は減るのだ。お腹が減っても飛べなくなったりしないだけで。

 だんまりになってしまったエピィを笑い声が取り囲む。しかし、エピィがじっと固まってしまったのに気が付くと、マサキがエピィの肩を軽く叩いた。

「ごめんごめん、笑いすぎたかな」

「ちょうどいいからお嬢ちゃん、マドレーヌを食べてみる? 今日のフレーバーも新作なんだよ。絶対、世界一美味しいから」

「新作なのに、味見をしなくてもどんな味かわかるの?」

 エピィの疑問に、マサキもマユミも「当たり前だろ」と怪訝な顔をする。そして口々に言い出した。

「初めてのお菓子だって完璧にできるに決まってるさ」

「道具の使い方も先生のをちょっと見ればできたしね」

 自分たちの実力を全く疑っていないらしい得意満面の笑顔である。きっと口金もこの調子で使ったに違いない。エピィがそう思ったら、双子は胸を張って声を揃える。

「「意外とうまくできちゃう僕らって天才かもしれないだろう。あの口金も使ったのは今日が初めてなのに」」

 ——そんな……失敗するとどうなっちゃうのか、きちんと考えたことがないんじゃないかしら。

 しかし鼻高々と言い放たれた言葉は、どこかエピィには聞き覚えがあった。

 どこでだったのか。胸の奥がちくりと痛んだ。なぜなのか、エピィは理由を探そうと、学校や家でのこと、読んだ物語、ひとつひとつ思い返す。そして古い記憶から早回しするように辿っていき、月の夜に辿り着く。

 ——あ。私……!

 エピィの体が今度は別の恥ずかしさで熱くなった。人のことなんて偉そうに言えない。それなのになんて様だろう。自分が困ったら今度は自分のことを棚に上げて人を批判するなんて。

「ほらほらお嬢ちゃん、早くしないと冷めちゃうよ」

「シナモンバニラと塩キャラメル、カシスショコラとベルガモット・オレンジが今日のラインナップ」

 オーブンに並んだ貝殻型の焼き菓子を見せながら、マサキがその一つをトングでつまみ上げた。黒光りする鉄板を背景に、蒸気が上がっているのがわかる。

 どれも初めて聞く味と、あまりに美味しそうな匂い。焦茶、飴色、ほのかな紅色に黄金色。マドレーヌの色は様々で、上には糖蜜がけのナッツや輪切りのオレンジ、砕いた砂糖の結晶やチョコレート・チップがトッピングされている。前までのエピィなら他のことなど忘れて誘いに乗ってしまうだろう。だが口を開きかけたところで、自分の使命を思い出す。

「そ、それよりあの、薔薇の花の口金は」

 さっと厨房を眺め回す。作業台の上、道具棚、あのケーキができたばかりだとしたら、きっとまだ外に出てると思ったのに、どこにも口金は見当たらない。

 きょろきょろとエピィは首を左右に振るが、マユミとマサルは焼きたてのマドレーヌの方ばかりに気を取られている。

「何を気にしてるのさ。洗い物なら後でやるからまず焼き立てを食べてみなよ」

「クリームや生地がくっついているからしばらく水に浸けておくんだよ。ほらどれにする?」

 ——お水に? もしかして……

 エピィは流し台を探した。厨房の奥、作業台の横だ。そこには使い終わった後だと思われる調理器具が洗い桶の中に重なっている。その中に、白い三角形——絞り出し袋。


 * * *


 カチャン……


 カップの底がソーサーに軽くぶつかる。隣の小さな壺が開けられて、真っ白な角砂糖がカップの中に静かに落とされた。

 薄暗い鏡をそっとひと撫ですると、光の粒子が浮かび上がり、見る間に鏡の面に像が浮かび上がってくる。ユーフェミアは像が明確な輪郭を取ったのを確かめて話しかけた。

「シュガー、シュガー。だめね。あの子、シュガーを置いて行っちゃっているじゃないの」

 ユーフェミアがカップを取り上げると、角砂糖がしゅわりと鳴って溶け消えた。

 魔法の鏡に映っているのは小さな鈴がかけられた木造の扉。菓子屋の看板が鈴の下に下げられている。探し物の口金がこの店の双子に持っていかれたのは間違いない。ユーフェミアは人差し指をくるりと回し、鏡の表面にそっと触れた。すると鏡の面に映った像が歪み、たちまち右往左往するぬいぐるみが映し出される。ぬいぐるみは短い腕を組んで(実際には短すぎて腕組みできず、胸の前で交差しているだけなのだが)、同じところをぐるぐる回っている。

《シュガー、聞こえる?》

『あっシュクレ』

 俯いていたぬいぐるみは、シュクレが呼びかけるなり顔を上げた。

「現金ねぇ。私があんなに呼んでも気づかなかったのに」

《当然よユーフェ。シュガーと私は対だもの》

「まぁいいけれど。シュガー、入れないんでしょう」

 ユーフェミア口を尖らして見せたものの、すぐに呆れの混じった笑みを浮かべる。

『僕の背丈じゃ取手が高すぎるんだよ。どうにかならないかな。口金で出した薔薇は成長が早いだろう。早くしないと部屋中、棘だらけの蔓で埋まっちゃうよ』

 シュガーはまだ平静を保っているが、澄んだガラス玉の瞳は焦りが浮かんでいる(ように見える)。しかしそんな相棒の様子とは逆に、シュクレは落ち着き払っていた。

《大丈夫よ、シュガー。すぐにそちらに助っ人が行くわ。土が剥き出しの地面を見ていて》

『地面?』

 くるりと鏡に顔を背け、ぬいぐるみは二頭身半の体を前傾して足元を見る。

「マンドラゴラの葉っぱよ。エピィが種を持っていたでしょう。あれは母さんのマンドラゴラだから、必ずそこに辿り着くはず」

《あの子の背とシュガーの背を足せば多分、足りるわ》

 シュクレが勇気づけるように言うと、シュクレとほぼ同じ顔でシュガーはこっくり頷く。ユーフェミアは二匹(二体?)の様子を微笑ましく思いながら、薔薇の紅茶を一口飲み込んだ。

「あと、マンドラゴラの力を上手く使うようにエピィに言ってね。こっちはそろそろまた鏡の魔力を充電しないといけないから」

『ユーフェの魔法もまだまだだよね。ママだったら一晩だって通信できるのに』

「はいはい、こちらも精進しますよ。とにかくエピィをお願いね。これが済まないとあの子……」

 最後まで言い終わらないうちに、また鏡の表面に波が立つ。流れ星が一筋、二筋通り過ぎて、ついにシュガーの顔が見えなくなってしまった。

 鏡が完全に流れ星で埋まると、ふう、とユーフェミアは吐息し、カップをソーサーに戻す。魔力を使うのは消耗する。椅子の背もたれに身を預け、虚空を仰いだ時だった。

「ユーフェミア、あまり手助けしないのよ」

 いつの間に部屋に入っていたのか、すぐ後ろにママが立ってユーフェミアを見下ろしていた。

「ママこそ。マンドラゴラの種をエピィの鞄に入れておいたのはママでしょう?」

「まったく、あなたって子はよく見てるわね。あぁでもそういえば、あなたが小さい時にもやったかしら」

 呆れ顔で言うが、娘へ向ける眼差しは優しかった。ユーフェミアは自分がエピィくらいの歳だった頃に記憶を馳せ、散々、ママに叱られた数々の事件を一つ一つ思い返す。

「それにしてもママも甘いわね。エピィに行かせたの、でしょう?」

 椅子の上でくるっと向きを変え、ユーフェミアはクスリと笑う。ママは一瞬だけ目を見開いたが、すぐにユーフェミアと同じく含みのある微笑を浮かべた。

「さすがお姉ちゃん、お見通しね」

「だって魔法道具をすぐに集めなきゃいけないってだけならママも絶対に一緒に行くじゃない。『人間界に干渉しない』って魔女の大前提。普段のママなら早急に防ぐはずでしょう。そうしないってことは、エピィが魔法を正しく使えるかどうかの試験かなって」

 ね、とユーフェミアはシュクレと頷き合った。自分達の厳しい母親ならば、人間に影響を及ぼす可能性が浮上した時点で自分から解決に向かうはずだ。それをわざわざ未熟なエピィ本人だけに行かせるなど、裏があるに決まっている。

 ユーフェミアの推理はどうやら当たりのようだ。ママは黙ったまま、先ほどの微笑を崩さずにユーフェミアが机の上に置いた鏡を見遣った。

《ユーフェの時の試験もそうとは言われずに行われたものね。エピィもここが頑張りどころね》

 今のシュガーと同じように、かつてユーフェミアに付き添った相棒は心配そうに眉尻を下げた(ように魔女には見える)。そんなシュクレの頭をそっと撫でて、見えなくなった妹の健闘を祈った。



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