青く光る
猫屋ちゃき
青く光る
もうこんな世界には片時もいたくなくて、小鈴は海へ来ていた。
金持ちたちが暮らすお屋敷街から延々歩き、長屋の並ぶ通りを抜け、漁師たちが船を繋いでいる港からも外れた、寂しい場所。
子供のときに一度、母に連れられてきたことがある。浜辺というより磯に近い、砂利と岩ばかりの険しい足場の海だ。
そこで母はまだ幼い小鈴の手を握って、灰色の海を見つめていた。何時間も、ただ黙って。
あのときは尋常ではない母の様子しかわからなかったが、今なら気持ちがよくわかる。
おそらく母は、あのとき死にたかったのだ。
小鈴も今、同じ気持ちだ。
この海の先に待つのが地獄だとしても、きっとここよりましなはずだから。
小鈴はある名家の跡継ぎと妾の間に生まれた。というよりも母は半ば無理やり囲われて、その末にできた子が小鈴だった。
小鈴の母はお屋敷街の娘たちを相手に琴や三味線を教えることを生業としており、そのときに小鈴の父親である男に見初められてしまったのだ。
「……どうせそのうち飽きる。だから生き延びて、大きくおなり」
囲われる生活が性分に合わず、小鈴を生んでから病に伏していた母の最期の言葉は、こんな悲しいものだった。
飽きれば手元に置くのをやめて自由になれるから、そのときまで生き延びなさい――母はそう言いたかったらしい。きっとそれは、母の願いだったのだ。
それはいつしか小鈴にとっての願いにもなっていたが、どうあってもこの世界は小鈴たち親子の願いを叶えてくれる気はないようだ。
「この身を穢されるくらいなら、いっそ海の藻屑となったほうがいいわ……」
海へと続く小石の多い道を歩きながら、小鈴は呟いた。
潮騒が聞こえる。波が岩にぶつかって砕ける音が。もうすぐ、母が見つめていた灰色の海にたどり着く。
小鈴は近いうちに、嫁ぐことになった。隣の村に住む、父親よりもさらに年上の男のもとへだ。
小鈴の家は名家といってもほとんど名ばかりで、もはや傾きかけた斜陽の一族である。だから、それを立て直すために小鈴は金持ちの爺さんのところへ嫁ぐことになったのだ。
その爺は、偶然見かけて小鈴を見初めたらしい。どこかで聞いたような話だ。
幸か不幸か、小鈴は美しいといわれた母に生き写しのようによく似ている。だから、母と同じような道を辿る運命にあったのだろう。
話が来たときは、小鈴はそれでもいいと思っていた。爺でも何でも、自分を欲しいといってくれる人間のそばにいるほうが今より幸せだと。大事にしてくれるかもしれないと。
だが、そんな期待もすぐに打ち砕かれた。
「あの爺、女の苦悶に歪む顔が好きだそうだよ。よかったねぇ。たっぷり可愛がってもらうために、お前はせいぜい長持ちするんだよ」
縁談を知らされた数日後、義母が小鈴に嬉しそうに言った。その手には、竹でできた孫の手が握られている。様々なものを使って、これが一番よくしなって痛いのだが、傷痕が長く残らないため義母のお気に入りの道具となっている。
「前の嫁はお前よりもさらに美しかったというが、そう長くは保たなかったそうだ。苛烈で好色な爺のもとへ嫁ぐなんて、お前もついていないな」
義母の隣で、義兄も下卑た視線を向けてきた。小鈴がどんなふうに苛まれるのか考えているのだろうか。その目に正面から見つめられ、小鈴は背中に怖気が走った。
「できるだけ長く可愛がってもらえるよう、俺が男の喜ばせ方を仕込んでやろうか?」
舐めるような視線を向けながら義兄が言う。幼い頃からこの男のまとわりつくような目つきに嫌気がさしていたから、小鈴はそっと目をそらした。
「手を出すんじゃないよ。生娘だから高値がついたんだ。……それに、母親に似て男を誑かすのはうまいんだから、仕込むまでもないよ。あばずれの血筋なんだもの」
見下すように言ってから、義母はコロコロと笑った。この女は小鈴の母を侮辱するのが好きだ。外で女を囲った夫のことは責めず、悪いのはすべて小鈴の母ということにしている。だから義母の中で小鈴の母は家庭のある男を誑かして子までなしたあばずれなのだ。
「つまんねぇな。……でも、生娘のままなら何してもいいんだよな。せいぜい嫁ぐまで楽しませてもらわねぇとな」
「ええ。しつけをしていないと我が家の恥ですもの」
義兄と義母が意地の悪い笑みを浮かべてからは、いつもの流れだ。小鈴は散々背中を打たれ、ボロボロにされた。だが、二人は加減を知っているため骨も折れず、傷痕も数日すれば消えてしまう。ただただ、打たれた直後は体が軋み、肌着が皮膚に擦れるのも痛かった。
「あ……」
痛みと悲しみを抱えて海に辿り着くと、岩場に先客がいた。このあたりの海は人間を攫う化け物がいると言われていて、人を見かけることはないはずなのに。
だが、近づいてみると人間ではないことに気がついた。
「……人間だ。死にに来たの? それならよそへ行けよ。ここ、俺のお気に入りなんだ」
「え……」
小鈴に気がつくや否や、岩に腰掛けていた人ではないものは、そんなことを言った。
人間によく似ているが、うっすら青みがかった肌や青光りする黒髪、口元の鋭い歯が人ではないことを示している。何より、それの下半身は鱗に覆われた魚のようだった。
つまり、目の前のこの生き物は人魚だ。
これがまさに噂に聞く人を襲う化け物なのだとわかったとき、小鈴の身は竦んだ。死にに来たくせに、危険が目の前にあると恐れるなんて滑稽だと自分で思いながら。
「ここにいるだけならいいよ」
「……ありがとう、ございます」
小鈴が動けずにいると、人ではない生き物はそう言って自分の隣を示した。相手は化け物なのにその声は優しくて、誰かに優しい声をかけられたのが久しぶりの小鈴は、ふらふらと吸い寄せられるように人魚のそばへ行った。
断るのも悪いと思ったし、何よりその生き物の美しさに心惹かれていた。
「うっ……!」
岩の上に腰を下ろそうとしたところ、体に激痛が走って小鈴は顔をしかめた。
「どっか怪我してるの? 治してやろうか?」
小鈴を見て、人魚の青年は心配そうな顔をした。青みがかった不思議な色をした目に覗き込まれ、小鈴の心臓は跳ねた。だが、怪我をした箇所を見られたくなくて、心持ち距離を取る。
「……痕は残らないからいいよ」
「痛いんだろ? 痕が残るとか残らないとか関係なくない?」
人魚は不思議そうに小鈴を見る。痛いのは確かだ。痛みの有無は痕が残るかどうかに関係ないというのも、理解している。
「背中か?」
「……うん」
「見せてみろ」
あっと思ったときには、ぐいっと着物の襟に手をかけられ、ずり下ろされていた。肩が抜けてからはあっという間で、すぐに背中が露わになる。風が傷口に当たり、痛みに体を縮こまらせた。
「じっとしてろ。すぐに終わる」
「ひっ……」
背中にざらりと、冷たい感触がした。舐められているのだとわかったときは鳥肌が立ったが、すぐに痛みが引いたことに気がついた。肌が持っていた熱と疼きが、ひと舐めされただけですっかりなくなっている。
驚いて振り返ると、ニヤリとする人魚と目が合った。
「人魚の肉を食っても不老不死にはならないけど、治癒力はある」
「そう、なんだ……ありがとう」
背中にそっと手をやってみると、傷がなくなっていた。本当にきれいさっぱり治癒している。自分で見ることはできないが、元通りの白い肌となっているのだろう。
放っておいても数日で消える傷とはいえ、それが立ちどころに消え去ったのはとてもありがたかった。
それに、これまでどれだけ痛みに耐えていようとも、こんなふうに誰かに声をかけられることも、手当てしてもらうこともなかったから、久しぶりに他者から向けられた善意があたたかかった。
人間より、人魚のほうが親切なんて――ほんのり嬉しくなると同時に、小鈴は悲しくなった。
死ぬこともできず、かといってここを立ち去って家に戻るのも嫌で、小鈴はしばらく人魚の隣で灰色の海を見ていた。人魚は何も言わなかった。
ひとつも言葉を交わすことはなく、ただ並んで海を見ているだけ。それだけなのに、小鈴は少しだけ気力を取り戻してた。
何かが好転したわけではない。相変わらずこの世は地獄のままだ。それでも、ここへ来る道中に感じていた死にたい気持ちは薄れている。
もう少し、生きてもいいかと思えている。
「あの……何かお礼をしたいんだけど」
岩場から立ち上がり、小鈴はそう申し出てみた。
懐には札入れについた象牙の根付があるし、簪も帯留めも、それなりに高価なものだ。外に出して恥にならないよう、着るものには気をかけられているから、それらの装飾品を差し出せばお礼になるだろうかと考える。
しかし、人魚の青年にはお礼なんてものはピンと来ないようだ。
「別に、物は欲しくないからな。……それなら、名前を教えて。あと、また会いに来てよ」
少し考えた様子を見せ、人魚は言った。鋭いがきれいな並びの歯を見せて笑っている。屈託ないその笑顔を見て、小鈴の胸はまた鳴った。
「小鈴。……成瀬小鈴」
成瀬家の姓を名乗るのは、正直嫌だった。だが、それよりほかに素性を明かす名を持たないから、仕方なく名乗った。それに、人魚には人間の家柄なんてきっとどうでもいいだろうし。
「こすず……こすずか。俺はセド」
「セド……セドね」
小鈴という名の響きに人魚――セドは首を傾げた。きっと鈴を知らないのだろう。小鈴だって、セドの名前の響きは耳慣れない。
「小鈴、また来て」
立ち去ろうとする小鈴に、セドは少し切なそうにする。だから、小鈴は頷いてから歩きだした。帰るなら、急がなければ暗くなってしまう。
「でも、人間は嘘つきだからな」
背中で聞いたセドの声に何となくひやりとしたが、振り返る余裕はなかった。
小鈴は、義母たちからずっと嘘つき呼ばわりされてきた。小鈴に嘘をつかなければならない理由などないが、彼女たちにとっては小鈴は嘘つきでなければならなかった。だから、常々嘘つきだと吹聴され、そういう立ち位置に置かれていた。誰も小鈴の言葉に耳を傾けないように。
そのため、それがたとえ人魚相手にでも嘘つき呼ばわりは嫌で、小鈴はまた海辺へとやってきていた。美しいセドにもう一度会いたかったのもあるが。
「……小鈴は、嘘つきじゃなかった」
小鈴の姿を見て、セドはひどく嬉しそうにした。きっと小鈴が来るまでの数日間、この海で待っていたのだろう。それがわかって、来てよかったと思った。
それから小鈴は、見せるために持ってきていた小さな鈴を差し出し、自分の話をポツポツした。
母の名前が鈴子だから、小鈴と名づけられたということ。小さな鈴と書くということ。鈴を初めて見たらしいセドは、何度も振って音を鳴らしながら、小鈴の話を聞いていた。
とりとめもない話をしながら気がついたことだが、セドは人間の言葉は通じるのに、知らない単語がやけに多かった。
思えば、人魚がこれだけ人間の言葉を器用に話すのも不思議なことだ。
その疑問をぶつけると、人魚は漁師の船のすぐそばでじっと身を潜めて言葉を覚えると教えてくれた。だから知っている言葉にも偏りがあるのだと。
「俺は人間に言葉を教えてもらったから、他の人魚より人間の言葉がうまいけどな」
「人魚の国に、人間がいるの?」
俄然興味が湧いて尋ねると、セドは静かに首を振る。その顔は、どこか寂しそうだ。
「……今はいない。俺の母さんは用があって人間の国に少し帰るって言って戻ってこなかった。だから人間は嘘つきで嫌い」
「そう、だったの」
聞いてはいけないことを聞いて傷つけてしまったかと思ったが、セドはそれから自分のことを少し話してくれた。
母親が人間で、そのため他の人魚よりも人間に姿が近いこと。いじめられてはいないが、人間を憎む人魚もいるため、肩身が狭いこと。
寄る辺である母をなくし生きづらい思いをしている者同士、小鈴とセドは心を通わせていくようになる。
ただ並んで海を眺めているだけだが、それだけで何となく癒やされる心地がしたのだ。何より、海に来たときに小鈴が怪我をしていれば、セドが舐めて癒やしてくれた。
一番最初は、動物が自分の体を舐めるような、特に意味を持たないものだった。
だが、逢瀬の回数が増すうちにその行為は意味を持つようになり、どちらもそれを理解していた。
セドは、まるで慈しむように小鈴の肌を舐める。舐められるたびに小鈴は焦がれるような思いとどこか背徳感に似た感覚を味わう。
言語を超えてそうして不器用に結びついていくのかと小鈴は思っていたが、あるときセドが思いつめたように口を開いた。
「俺が人間になれたら、小鈴を連れて遠くへ逃げてやれるのにな」
立派な尾ひれに視線を落としながらセドは言う。宝石のように青く輝くセドの鱗が好きだから、小鈴は何だか悲しくなった。
それに、人間は嫌いだ。だから人間になんてならなくてもいいと思って首を振る。
「本当に愛してくれる人間が現れれば、人魚は人間になれるんだ。満月の夜に、儀式をしよう」
「儀式……?」
「そう。小鈴が俺を想ってくれてるなら、次の満月の夜に会いに来て」
このままでは、この幸せが長く続かないことはわかっていた。セドには伝えていないが、嫁ぐ日が近づいてきている。小鈴の不自由な身の上を理解しているから、彼もこんなことを言い出したのだろう。
それから、セドはそっと小鈴に口づけた。
鋭い歯が唇の内側の柔らかな部分に当たり、チクリと痛かった。だがそれ以上にセドの体温と皮膚の感触に、小鈴は目眩がした。
好きな人に触れられることが、こんなに気持ちがいいことだなんて――震えるような思いで家路を辿り、決意した。
これからは、セドと生きるのだと。だからきっと、満月の夜に儀式をするのだと。
だが、どこまでもどこまでも、運命は、世界は、小鈴に味方しない。
「いやだ! 出して! ここから出して!」
満月を迎える日の夕暮れ時。
家族の目が自分に向いていないのを確認して家を出ようとした小鈴は捕まり、蔵の中に放り込まれていた。
いつもなら、下女も同然の扱いの小鈴の存在は忘れ去られている。時々憂さ晴らしに義母や義兄に殴られるが、それも日のあるうちだけだ。
だから父の帰宅が近づく昼過ぎから夕暮れにつれて関心は薄れ、比較的自由に身動きが取れるはずだったのに。
「やっぱりね……ここ最近様子がおかしいと思ってたんだよ。どうせ男のところにでも行くつもりだったんだろ。あの女に似て、いやらしい娘だ」
分厚い扉の向こうから、義母の忌々しげな声が聞こえてくる。出かけようとしていた小鈴を見つけたとき、鬼のような顔をしていた。だからきっと今も、恐ろしい顔をしているに違いない。
「……こっそり抜け出して男をたらしこむようなことをさせないために、目でも足でも潰しておけばよかったね。あの爺さんは若い女を壊せるなら別段五体満足でなくともかまやしないんだから、さっさとやっておけばよかった」
こうして蔵に閉じ込めているというのに、義母はなおも憎々しげに言う。一体何が彼女をここまで駆り立てるのだろうかと、小鈴は苦しくなる。
どうして放っておいてくれないのだろうか。放っておいてくれさえすれば、目の前からいなくなってやったというのに。
「私を不幸にしたあの女の娘には、うんと不幸になってもらわないと気が済まないんだよ。本当は殺してしまいたかった。でも、それはできなかった。お前には利用価値があるからね。だから、幸せも知らず、きれいなものも気持ちがいいことも知らず、薄汚れてボロボロに穢されて、生まれたことを呪いながら死んでほしいって願ってたんだよ」
小鈴の疑問に答えるように、義母は揚々と語った。それから、嫁ぎ先の爺がどんなふうに女を穢し損壊させるのかを嬉しそうに聞かせた。そして、女たちがどのような最期を迎えたのかを。
「知らせを寄越したら、すぐに迎えに来るってさ。爺さん、張り切ってたよ。……朝が来るのが待ち遠しいねぇ」
「出して! ちゃんと朝までに帰ってくるから!」
「震えて眠るといいよ」
セドのもとに行かなければ、彼との約束を果たさなければ――そう思って扉を叩くが、閂がされていてビクともしない。嬉しそうな義母の高笑いも、分厚い扉に阻まれてすぐに聞こえなくなってしまった。
その後何度か体当たりを試みるも、当然扉は開かない。どこかほかに出られる場所はないかと探したものの、そのうち外が暗くなってきて、やがてほとんど何も見えなくなってしまった。
このままではセドとの約束が果たせないばかりか、二度と会えなくなってしまうというのに。
恐ろしい爺の玩具になって壊れるまで弄ばれるくらいなら、いっそあの日本当に死ねていたらよかったのに――真っ暗な絶望を見つめながら、小鈴は思った。海に身を投げるか、鮫にでも食われてしまえばよかった。それか、セドが優しい人魚ではなく、あの鋭い歯が似合う化け物だったらよかった。
そんなことを考えていたら、扉の向こうに気配を感じた。誰かが助けてくれることなど望めない状況で人の気配なんてと、小鈴は身構える。
「……小鈴、助けてほしいか?」
ねっとりとまとわりつくような男の声。それは義兄の声だった。義母の目を盗んで、小鈴の様子を見に来たのだろうか。
「『おにいさま、助けて』って言ってみろよ。そしたらここから出してやる。今出られたら、最後に恋人の顔くらい見られるんじゃないか」
扉越しでも、ニヤニヤしているのがわかる。どうせ碌なことは考えていない。それでも、望みを感じてしまう。
「……助けてくれるの? お義母様に怒られない?」
「怒られるかもなあ。だから、ただじゃないぞ」
「……なにが望み?」
聞くべきではないことはわかっていたのに、尋ねていた。傾いたこの家のために嫁ぐのだ。わずかでも情けをかけてはくれないものか、少しは恩に感じてくれないかと、浅はかにも考えてしまったのだ。
「お前を好きにさせてくれよ。どうせもう男を知っちまったあとだろ? なら、気にする必要はねえ。ケチケチせずに俺に体を差し出せば、愛しい男に会いに行く時間ぐらい稼いでやる」
碌なことを考えていないのはわかっていた。だが、実際に聞くと怖気が走る。
義兄は、この男はずっと、異母妹を辱めたくて仕方がなかったのだ。小鈴にとって今夜が最後の機会であるように、この男にとっても小鈴を穢す最後の機会ということだ。
妹だとは、家族だとは思われていないことは知っていたが、この期に及んで望むことがそんなものだなんて……狂っている。
「いやよ! 絶対にいや! あんたに触れられるくらいなら、ここで死んだほうがまし!」
一瞬、生き延びるためにはこの男の慰みものになるべきかと考えた。だが、すぐにセドの顔が浮かんで無理だった。
小鈴が男だと認めたのは、自分に触れてもいいと決めたのは、セドだけだ。彼に二度と会えず触れられず、薄汚い男たちに好きにされるくらいなら、ここで死んだほうがずっといいと思える。
「ああそうかよ! なら、望み通り死ね! 色狂いの爺にかかれば、どんな若い女も最後はボロボロになって死ぬらしいからな。……人間として死にたかったら、本当に今すぐ死んでおくことだな」
小鈴の抵抗に、義兄は悪態をついて去っていった。
本当に、これが最後の機会だったのだろう。言うことを聞くべきだったかと後悔して、小鈴は泣いた。
「セド……ごめんなさい」
人間の母親に捨てられ、人間を嫌っているセド。彼を傷つけたくて、彼の憎む嘘つきな人間になりたくなくて、約束を守りたかったのに。
灯り取りの窓から射し込んでくる月の光に、小鈴の涙は止まらなくなった。本当なら今頃、儀式を済ませてセドは人間になって、二人で一緒にいられたはずなのだ。
貧しくても、二人で身を寄せ合って生きていけたらそれでよかった。誰にも虐げられず、優しくしてくれる人と生きていきたいという、ささやかな願いを叶えたいだけだった。
「……なに?」
どのくらい絶望に涙していただろうか。夜の静寂の向こうから、何か聞こえてきた。
波の音に似た何かと、歌声のようなもの。
セドが恋しすぎての幻聴かと思ったが、確実に潮騒と歌声が近づいてくる。
これ以上は状況が悪化することはないだろうと、小鈴は半ば放心して次の展開を待った。
カリ、カリ、カリと、爪で扉をひっかく音がする。閂が引かれ、落とされる鈍い音も。
夜気とともに、湿った匂いが入り込んでくる。水場の、海の気配だ。それを感じて、小鈴は扉を開けた人物に確信を持つ。
「……セド?」
呼びかけると、扉が開いてその隙間からぬるりとした動きで人影が蔵の中に入ってきた。月明かりを背に立つその影絵のような姿は、紛れもなく人間だ。尾ひれではなく二本の脚が生えている。
「ああ……セド! 人間になれたのね!」
こんな展開は予想していなかったため、絶望から一気に好転した状況に、嬉しくなって小鈴は人影に抱きついた。
人影も、不器用な手つきで抱きしめ返してくる。ギリギリと、肌にその爪が食い込むほど。
「……うそつき……こすずはうそつき……うそつき」
「ごめんなさい。でも……助けに来てくれてよかった」
どうやって成瀬家の屋敷を知ったのか、どのようにここまでやって来たのか気になったが、そんなことはこの際どうでもよかった。感激する様子の小鈴に、セドはどこか戸惑っている。
「……俺が化け物だから、逃げようとしてたんだろ? こんなところに隠れて」
抱きしめる腕にさらに力を込めてセドは問う。
不安にさせて傷つけたから、こんなことを聞くのだろう。そう思うと、小鈴の胸は痛んだ。
「そんなわけないじゃない。セドは化け物じゃない……ううん。化け物だって、構いやしないの」
傷つけてしまったことを詫びるように、小鈴はセドの背中にギュッと手を回した。もう離れる気はないと、言葉ではなく体で伝えるために。
「そうか。……でも、もうどうでもいいな。すべて終わったから」
「うん」
セドはどこか安心したように言って、小鈴を抱えて歩きだした。蔵を出ると月は随分傾いていて、夜の終わりが近いことがわかる。
セドの足取りから、海に向かっていることを悟った。これから二人で海の底の人魚の国へ行くのだろうか。二人で生きられるならどこだってよかったから、あえて尋ねることはしなかった。
「……セド、その着物……」
月の光の下だと、仄暗くても周りが見えた。すると、セドがぐちゃぐちゃではあるが着物を身に着けているのがわかる。そしてその着物には見覚えがあったが……男物の着物なんてどれも似たようなものかもしれないと、気にしないことにした。
「セドが人間になれて、よかった。月がまだ出ているうちにこうして会えて、よかった」
「月は関係ない。俺は、いつでも人間になれた」
「え……」
満月に二人の真実の愛が届いたのだと、そう小鈴は思っていた。だが、セドの声は冷ややかだ。まるでそんなことどうでもいいと思っているような、そんな気配だ。
「……どういうこと?」
戸惑いながら問うと、セドが笑うのがわかった。鋭い歯に月光が当たって、恐ろしげに光るのが見える。
「人間は、嘘つきだからさ」
海辺に到着すると、ためらいなくセドは水の中へと入っていく。ズブズブと、着物が水を吸っていく。それがわかっているのに、小鈴はただセドの顔を見上げるしかできなかった。
「これからは、ずっと一緒だよ」
海の中に頭が沈む直前、セドがうっとり言って小鈴に口づけた。海水が目にしみるだろうかと、咄嗟に目を閉じる。
だから、小鈴が最後に陸で見たものは、セドの目だった。
青く光る、宝石のような目だ。
青く光る 猫屋ちゃき @neko_chaki
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