第2話
「佐々木」
我に返る。ついさっきまで僕がへたり込んでいた埃っぽい裏路地は、扉だけがぽつんと設置された殺風景な舞台へと戻っていた。周りを取り囲む群衆も、その冷たい眼の数々も。往来の騒ぎ声も消え失せていた。日陰の暗さではなく、暗幕で包み込まれた闇。ただその中に横たわる男の姿と、鼻の奥にこびりついたきな臭さはしぶとく残っている。いつの間にか幕は下りていた。厚いカーテン越しのまばらな拍手。声のした方に目を向けると、座長が舞台袖から手招いていた。舞台の上で転がったままの川田を起こそうと肩をたたくが動かない。依然眼を見開いた状態で固まっている。もう幕は下りているというのに、少々やりすぎではないだろうか。
「川田さん?」
「佐々木!」
座長がもう一度呼び掛けるので、後ろ髪を引かれながらも川田を残して舞台袖へ引っ込む。袖で振り返っても、川田ははち切れそうな腹を仰向けに、アザラシのように転がっていた。
「座長、川田さんは」
呼ばなくていいのかと、指さしながら問う。座長は何を言っているんだという風に目を丸くした後、呆れ顔で溜息を吐いた。丸めた台本で顎をとんとんとたたきながら、丸眼鏡の奥でどこか遠くを見つめる。
「冷静にやってると思ってたが、お前、気づいてないのか」
もったいつけるように問われても、何のことだかわからないから訊いているというのに。座長はこういった回りくどい会話を好む。そして僕らはそれに付き合わされる。仕方のないことだ。彼の立場のほうが上なのだから。
「何がです」
しかし今はそんなやり取りが面倒に感じられて素直に訊き返すと、レンズ越しにすがめられた眼が、僕の頭頂部のあたりからすうっと天井まで、もしかしたらその先へまで、ゆっくり滑っていく。それを目で追っていると、座長は首と、台本を同時に振り下ろした。風圧で前髪が飛ぶ。
「川田は死んでるよ」
至極淡々と、機械的に動く唇からは、半歩遅れて悲哀のこもったー少なくとも僕にはそう聞こえた。願望からかもしれないー声が耳に届く。眼鏡の奥の瞳を見つめているといつの間にか視界が裏返って、自分を見つめているような気になり、そしてまた裏返ってそれを繰り返して、頭が割れそうだ。やっとのことで下手な返しを絞り出す。まだ状況を理解しきれていないみたいだ。
「演技じゃないんですか」
「演技だったら今頃ここにいるだろ」
自分が立つ足元を指さしながら言う。確かにそうだ。幕が下りたら、舞台袖へはけるのが普通だ。つまり川田は普通でない状況に置かれている。そしてそれが、死だということ。まだぼうっと上の空で、情報が脳天を通過していく。把握の度合いまで落ちてこない。座長は台本を左右に振って僕の思念を断ち切る。ずり落ちた眼鏡を乱暴に持ち上げ、今度は台本を上下してひとことひとこと区切りながら言った。
「とにかく、佐々木はひとりで挨拶してこい。その後のことは追って指示する」
ひとりで。ひとりでというのは、またどうして。今日の演者は、だって、僕と川田と、村松もいるはずじゃないか。あいつは物語の進行を僕に丸投げしてどこかへ行ってしまった。おかげで僕は劇中で散々な目にあって、終わってからも散々な目にあいそうになっているじゃないか。一番散々な目にあっているのは川田だが、彼は物言わぬ屍となってしまったのだ。僕から何かひとこと言ってやりたい気持ちもある。何を、と言われたらそれは、それは本人に会ってみたら自然と出てくると思う。
「待ってください、村松さんは」
行け行けと座長に背中を押されながら、首だけ回して問う。もう足が半分出かかっている。座長からすればもうひと押し、僕からすればもうひと踏ん張り。足の裏にぎゅっと体重をかけながら抗う。座長はまたもや呆れ顔で、もはやこれが座長の通常営業のように思えてくる。
「村松が川田を殺したんだろうが。出せるわけないだろ」
もちろん知っている。目の前で見ていたから。結局虚構の中で僕は村松をどうこうすることができなかった。止めることも、捕まえることも、問いただすことも。きっと現実だとわかっていたとてそうだっただろう。
「じゃあ今日の舞台は」
「お前だけが役者やってたってことだよ」
舞台の上でも、僕は知らずひとりぼっちだったということだ。それに気づかなかったことを果たして、憐れむべきか蔑むべきか。はたまた怒るべきか。僕はたまたま舞台の上に居合わせて、目撃して、いわば巻き込まれただけだった。舞台の上にいながら、事件に関しては観客と同じ立ち位置にいた。現実の中ではー主役なんて初めからいやしないともいえるがー主役ではなかった。
「……そう、ですか」
「ほら、さっさと行け。観客に怪しまれる」
「はい」
ひとりだけで立つカーテンコールは初めてだった。この時間が一番苦痛だ。手が震える。役者としては優秀なほうだと思っていた。現に今日だって、即興劇とはいえそれなりの役をもらった。役があれば、役さえあれば割合に何でもできた。役という名の仮面をかぶって、衣装という名の鎧をまとって。役で武装していたら何も怖くはなかった。
「ありがとうございました」
今日の舞台の上で、起きていたことが。もしも舞台の上でなかったら? まだ頭がふわふわしている。照明が眼の奥にまで刺さるように降り注ぐ。どくどくと、血管の波打つ音が聞こえる。死んだのは僕であったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。役者の、役者としての、村松と川田は、今日の舞台にはいなかった。村松は自ら役者であることをやめ、川田は村松によって物言わぬ亡骸にされた。死体の役ではなくて、本当の死体に。僕は、僕は。それに初めから終わりまで気が付かなかった。ふたりとも現状を演じているのだと思い込んでいた。
「今日は本当に、ありがとうございました」
乾いた拍手を浴びる。佐々木としての僕、そのままを舞台袖から放り出されて。先程まではまるで苦にならなかったのに、衆目が痛い。もういいだろう、耐えられない。ただでさえ混乱しているというのに、視線を分散させるべきほかの役者がいない。僕ひとりだ。舞台の上でもひとりだったというのに。どうしようもなく心細い。骸でもいいから目に見える範囲に、誰かいればよかったのに。最後にひとつ深い礼をして舞台を後にする。ギラギラした、すべてを見透かすあの眼のような、照明から逃れることが今は救いだった。
「お疲れさん」
逃げるように袖へ引っ込むと、座長が形ばかりの労いを投げかけてくる。台本はすっかり湾曲して癖がついてしまっていた。
「村松さんに会えますか」
座長は文句ありげに口を尖らせながらも、しぶしぶ頷いた。
「通報は客が全員出た後にするから、それまでなら。縄解くなよ」
ぴっと立てた親指で後方の扉を指す。緑色の非常灯だけが照らす薄暗い空間は、しかし暗幕の中よりは安心感があった。
「わかってます」
細い通路を抜けて楽屋のほうへ歩を進める。いくつか並んだドアのうちのひとつの前に、パイプ椅子に腰かけた人影がふたつあった。
「お疲れ様、佐々木くん」
右側から聞こえる。たぶん、脚本家だと思う。確証は持てない。
「はい」
「村松に用?」
今度は左側から聞こえる。サラウンドチャンネルみたいだ。
「用……ってほどでもないですけど」
「まぁ入りなよ。あいつ、縛る前から大人しくしてたから」
薄暗い廊下で左右から交互に話しかけられてどちらを向けばいいか悩みながら、結論としてはどうせよく見えていないだろうしどちらも向かなくたっていいかと思った。促されるままに室内へ足を踏み入れる。中は電灯が点いていてまぶしかった。村松は畳敷きの部屋の隅に膝を立てて座っている。靴を脱いで上がり、ひとり分くらいの空間をあけて彼の前に座り込んだ。緩慢な動作で顔を上げた彼の眼は、舞台上とは打って変わって重い瞼にほとんど覆われいる。彼の作る表情には、とんと騙されてしまう。
「村松さん」
「……佐々木」
逆むけをむしったら、思いの外深くまでめくれてしまって痛みにしかめたときの顔、という形容が浮かぶ。彼の作る表情は情景がピンポイントで見えてくるのだけど、場面に全然関係がなかったりもして、それはそれで面白い。などと面と向かっては言えないが。
「僕、村松さんのこと尊敬してましたよ」
「それは、どうも」
棒読みに近い返事がか細く耳に届く。世辞ととったのか照れ隠しなのか。この頼りない男が、大勢の観客の前でひとを殺したとはにわかに信じられないでいた。
「川田さんのことも嫌いではなかったです」
「そうか」
いわゆる苦虫を噛み潰したような顔。村松と川田は別段表立って仲が悪いという雰囲気ではなかったが、村松はかなり溜め込むタイプだったのだろう。
「でもおふたりとも、今日同時に役者やめてしまうなんて残念です」
「そうだな、もう」
その先は言いたくないのだろう、たとえ変えようのない事実だったとしても。僕がもしも同じ立場に立ったとしても、言いたくはないと思う。
「村松さん、いつも言ってましたよね。役者が素顔を見せていいのは、」
「カーテンコールの時だけ」
わざと切った意図を察してか、村松が後を継ぐ。その響きを懐かしむように舌の上で転がして。うっすらと笑みの浮かぶ口元は、彼自身の表情なのだろうと、そう思いたい。役者をやめた彼にとっては、作っても作っても、彼の表情としか言いようがないのだから。
彼の縛られた手首が何かを探すようにしばらく虚空を漂って、膝に着地する。
「佐々木」
「なんです」
耳鳴りが聞こえる。沈黙の音だ。それが破られるのを待つ。呼んだからには何か、話したいことがあるのだろう。たっぷり一分ほど間をおいて、ようやく口を開く。
「やりたい役はあるか」
どう考えても唐突だった。
「どういう意味ですか」
質問の真意が汲み切れず、質問で返す。彼はしばし瞑目し、器用に指を組んで顎を支える。それからぽつりぽつりと話し始めた。
「俺は、ある、あった。たくさんあった。腐るほどあった」
組んだままで指折り数える。しかし動きに意味はないのだろう、行ったり来たりしてしまいにはやめてしまった。
「全部、川田に奪われた」
名前を口に出すのすら嫌なようで吐き捨てる。
「……好みが似てたんですね」
外見はあんなにも違うのに、と冗談めかして言う。ほかに何を言ったらいいかわからなかった。気を悪くしただろうかと顔色をうかがってみるが、あまり気にしていないようでほっと胸をなでおろす。彼は組んだままの指をもてあそびながら、少しだけ前髪の位置を直した。しかしすぐに元に戻って、狭い額を覆い隠す。
「やりたい役はあるか」
諦めたのかそれ以上直すことはしないで、もう一度、同じ問いを繰り返す。今度は意味がわかっただろうと。彼の期待した答えではないだろうが、僕は僕の答えを。息を吸って、吐いて。鼻の奥の焦げ臭さはもう、だいぶ薄まってきていた。
「ないです」
彼は信じられないとばかりに眼を見開いて、その視線が僕のつむじから肩口までを繰り返しなぞる。
「役者のくせにか」
「僕は、それが役であるならなんだっていいんです」
僕にとっては役であること自体が重要なのであって、役柄は問うべき事項ではない。
「やっぱりお前は変だよ」
弱弱しく、息が漏れるだけの笑い声を立てて彼は眼を細めた。僕には何がそんなにおかしいのかさっぱりわからなくて、間抜けな返答をしてしまう。
「そうですか?」
「ああ」
どこか遠くでサイレンが鳴っているような気がした。ばたばたと駆ける足音も、冷たい金属音も。遠巻きに囲い込むそんなものすべてに捕らえられてしまうのは惜しい気もして。初めて見た彼の枯れた笑顔も、これが虚構であったらいいのにという甘い希望も。きっと僕はまだ、今日の殺人を現実だとはまだ理解できずにいる。明日になれば、明後日になれば、あるいはもっとずっと先のことであっても、確かな実感をもって現実だったと思えたなら、彼と暢気に話していたことにも薄ら寒いものを感じるであろうし。川田がいなくなったことも、穴の開いた何かとして存在し続けるのであろうし。果たして今幕が、上がっているのか下りているのか。僕自身も僕という役であったなら、何も悩むことなどないだろうに。
うまく開け 硝水 @yata3desu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます