うまく開け

硝水

第1話

 闇が晴れる。薄暗い室内からいきなり白昼の大通りへ出れば、軽く眩暈を起こしそうになった。

「行ってきます」

「はいよ」

至極適当に、しかしいつも通り返す上官はいたって暢気なもので、ぎいぎい軋む安っぽい椅子を揺らしながら新聞を読んでいる。僕が配属されてからはずっと彼が駐在所の番をしていて、腹の肉が目立ってきたと近隣住民が噂していた。あの上官に肉の無い時期があったとはにわかに信じがたい。僕は日に焼けた腕をさすりながら、制帽をかぶり直して通りへ歩を進めた。繁華街、とは言いたくはないが他に表しようのない規模の街で、年中ガヤガヤと喧しい。そして僕は巡査という役職柄、ほとんど毎日をこのかしましい市中の巡回に割いていた。同じ道とはいえ日により時間により、通るものの顔触れは少しずつ変わる。一見無秩序に思える騒ぎにもそれぞれテリトリーとメンバーの別はあって、知らず知らず互いの領域を侵さぬよう牽制しあっている。僕はそんな無数のシマの間を縫うように歩いていく。一歩ごとに腰にぶら下がってガチャガチャと鳴るサーベルに、誰もが一度は目を留めるが、すぐに興味をなくしたように自身の属する喧噪へと向き直る。僕はこの、誰にも見られていない状態が存外に好きだったりした。見られていないというのは何も僕が透明人間だからというわけではなく、今こうして詰襟を着てサーベルを下げて制帽をかぶった僕は、巡査という役職の人間というだけに過ぎないということだ。この喧騒の中のどこにも属さず、属さないからこそ気に留めておく必要もない。誰も僕の私生活だとか、性格だとかそういったことは気にしない。巡査という記号には求められない情報だからだ。制服がある仕事は、そういう意味で好きなのだった。

「ただ」

 辻口で足を止める。ここは右に曲がるのが決められた巡回ルートだ。勿論今日だって右に曲がる。いつもそうしている。いつも通り、そう、いつも通り少し躊躇いながら足を進める。何事にも例外というものがあって、そういう例からあぶれたやつらというのはやはり何かしら引き合うような要素を持っているようで。高い陽に焼き付けられた短い影は、一歩踏み出せばたちまち闇に混ざって溶けていく。自我を保っているための鎧がグズグズに剥がれ、未練がましく足首にまとわりついてはぼたぼたと振り落とされていく。

「裏路地にいるような奴らは」

 建物の陰に入って一瞬間に視界が真っ暗になる。同時に別の世界へ迷い込んだように、感覚器官へ流れ込む情報が一新される。処理しきれないとわかっていてもそのひとつひとつに注意を払いたくなる。淀んだ空気が渦巻く場所では、こんな風に鋭敏になってしまう自分が恨めしい。目が慣れるまではゆっくり歩きながら、深く溜息を吐いた。

「僕をただの巡査としては見てくれない」

 遠慮などかなぐり捨てたような大声が飛び交う路地は表より一層ワアワアと煩い。それでいて耳ざとい此処の住人は、異質なサーベルか靴音かを聞き分けてじろじろと不躾な視線を注いでくる。土足で上がり込んで好き勝手見聞するような下世話な目にはいっそ吐き気すら覚える。彼らからすれば明らかに煽っているのであって、こういった類は相手にしないのが最善なのだが、冷静に状況を分析するだけの落ち着きはあるはずなのに沸き立つ血の気は抑えることができず。不快感を滲ませながらひと睨みすれば、おお怖いと大げさにのたまい寄り合ってクスクス笑う。そのわざとらしい反応にさらに苛立ちを募らせながら、さっさと抜けてしまおうと思った。あまり長くいるとこちらまでおかしくなってしまいそうだ。

「あと数十歩」

 今日も何も起こらず終わってくれ。思わずサーベルを握りしめる。手のひらに滲んだ汗が滑って安定性を欠く。するりするりとすり抜けていく柄を焦りとともに掴み直しながら、両足の回転速度を上げる。いつもだって何も起こらない。なら今日も何も起こらないはずだ。根拠もなく言い聞かせる。お願いだからこれ以上神経をすり減らさないでほしい。僕は何も多くは望んでいない。だとするならば叶ったってかまわないだろう。ガチガチと合わない歯の根を無理やり噛み締めて、足の裏から響く硬い地面の感触に脳を震わす。そして特別そう願った時というのは、たいてい何かが起こる予兆なのだ。そしてそれは今回もご多分に漏れなかったようで。目の前の景色に何か強烈な違和感を覚えてつんのめるように立ち止まる。

「何だ」

 違和感の正体にしばらく気が付かず、間違い探しでもするように目玉を忙しなく動かす。カフェーの前だ。路地に張り出した窓からは店内の様子が窺え、恰幅のいい中年男を数人の女給が相手していた。男は茶の背広をまとい、そのボタン周りはかわいそうなほどに突っ張っている。茶の男は席を立つのか襟元を正して、隣に置いてあったのだろう、同じく茶色の山高帽を手に取った。彼のそばにいた女給たちは椅子を引いてやったり、鞄を持ってやったりしているけれど、まるで仕事だから仕方なくという風で心底では彼が帰るのにせいせいしているような笑顔であった。何もおかしなところはない。ごく当たり前のカフェーの店内だった。

「っと」

 思わず窓枠にかけそうになった手を離す。桟の掃除はあまり行き届いているとはいえず、土埃が目に見えるほどには積もっていた。触れてはいないがなんとなく両手を合わせて払う。そろそろ立ち退くかと思い、振り返ろうとしたところで唐突に、今まで見えていなかったのが嘘のように、静かな存在感を放つその男に気づく。カフェーの出入り口を挟んで向こう側の窓のそばに立っている黒い男だ。背丈は僕より頭半分ほどは高いだろうか。鳶コートを着ているが、ハンガーにかけたままなのかと思うほど肩の骨が張り出している。下駄をつっかけた足首は枝きれのようで、学生帽を抱えた手の甲には無数の血管が浮き出している。黒の男は僕がさっきしようとしたのと同じに窓枠に手をかけ、一心に中の様子を覗いていた。窓硝子に鼻と額がぴったりと触れそうなほど近くで、長い前髪の隙間からわずかにのぞく、皿という形容がしっくりくるほどに見開いた眼はここからでも血走っているのがわかる。年の頃は……どのくらいだろう。見当もつかない。若いと言われればそうなのかもしれないし、老いているといえばそうとも思える。彼は僕が再三凝視していることは気にも留めていないのか気づいていないのか、おそらく後者だろうがこちらを見ようともしない。そのおかげで僕としては遠慮の必要なく観察できるわけだが。

「あ」

 間抜けな声が口をついて、慌ててふさぐ。幸いにも彼には聞こえていないようで、ほっと息を吐きながらゆっくり手をおろした。黒の男は僕が口を押えている間にすっかり帽子を目深にかぶり、窓を背にして立っている。つばで顔の半分以上が隠れてしまい、長い前髪も相まってあれで前が見えるのだろうかといらぬ心配をしてしまう。ただ僕が声を上げたのは帽子のためではなくて、言うなれば彼の新しい一面のためだった。先程は体の影になって見えなかったが、彼は右手で妙な杖を突いていた。真っ黒でいやに短く、持ち手の部分に何やらごちゃごちゃと装飾のようなものがついている。

「やあ、ではまた。ご馳走様」

 集中の外からの刺激にわかりやすく肩が跳ねる。会計に手間取っていたのか名残でも惜しんでいたのか、考えてみれば席を立ってから随分と経っていたのに、今更のように茶の男が店を出ようとしていた。店先まで見送りに出ている女給たちの、前髪に隠れた額にー茶の男には見えていないのだろうが、僕にはー青筋が見える。茶の男は女給のひとりから鞄を受け取り、上機嫌で手を振っている。女給も微笑みながら手を振り返してはいるが、口端がひくひくと引きつっていた。たっぷり玄関でも時間を使って、ようやっと茶の男が扉の隙間へ体をねじ込む。

「は」

 と、黒の男が、茶の男の、背後へ回り、茶の男はそれに気づいていないようで、黒の男は、振り上げた珍妙な杖を、茶の男の、脂汗が浮かぶ首へ振り下ろした。

「おい」

 青白い稲光が茶の男の首元で弾け、茶の男は目玉が零れ落ちそうなほどに瞼を引き開けて、僕の鼻腔を肉が焦げる臭いがかすめていく。

「おい!」

 黒の男はついでとばかりに茶の男を蹴倒し、杖をコートの内へ隠しながら速足で駆けていく。茶の男は糸の切れた人形のように倒れ伏し、受け身も取らずに顔面を容赦なく擦りおろす。予告のある事件などないに等しいのだが、不測の事態に僕の頼りない経験値は悲鳴を上げていた。黒の男を追うべきか、茶の男の介抱をするべきか、駐在所まで走って応援を呼ぶべきかで僕はあまりにも長い時間迷い、その間体は硬直したままただ外壁にもたれていることしかできなかった。

「おい……」

 結局のところ黒の男を追って、あるいは駐在所まで走れるような気力は僕には残されておらず、ふらふらとうつ伏したまま動かない茶の男に駆け寄るのが精いっぱいだった。茶の男は、僕がいくら呼び掛けても応えない。肩を叩いてみるが反応はない。近づくとより一層焦げた臭いがきつくて、軽く吐き気を催す。落ち着けようと深呼吸をして肺いっぱいにその焦げた空気を吸い込み、げほげほと勢いよく吐き出す。涙と唾液を路地に滴らせながら浅い呼吸を繰り返す。もう何もかも放り出して、狭い部屋に帰りたい。少なくともここよりはいくらもましだ。しかしなけなしの理性が足の裏を縫い留め、何とか踏みとどまる。袖で鼻をかんでから、恐る恐る焦げた襟をめくり、脈を診る。指の腹に不快にまとわりつくべたべたした汗が、まだもしかしたら、茶の男が生きているんじゃないかと、そう僕に希望を抱かせる程度にはまだ温かった。

「……」

 心臓が、煩いくらいに早鐘を打って、拍動のままに心室を食い破りそうで、僕までこのまま死んでしまうんじゃないかとさえ思われる。死んでる。念のため転がして口元に手を当ててみる。無残に傷ついた顔の皮膚からはまだじわりと血が滲みだしていた。そのところどころに砂が貼りついて見ているだけでも痛々しい。そうしてかすかな期待も裏切られ、息もしていないことを確認してしまった。

「誰か」

 嫌な予感と、黒の男と、茶の男と、人死にと。ひとりで抱えるには大きすぎて、あたりへ視線をめぐらす。いつの間にか僕と茶の男の死体を中心にぐるりと囲む人垣ができていた。人だかりの中のどの眼も、僕か、あるいは屍かを見ている。見られている。見ていないで。見ている余裕があったらどうにかしてくれ。

「誰か、ここから立ち去る、黒い男を見た者はないか」

 目が合う、すぐに逸らされる。隣とヒソヒソ話す声などもいやに大きく聞こえる。関わり合いにはなりたくない。でも何が起きているのかは気になる。この人の壁は野次馬根性の塊みたいなもので、僕は自分が今、掃いて捨てられるほどの話のタネにされていることにどうしようもない羞恥と、怒りを覚えていた。良心の欠片もないのか。いやあるはずがない。そんなことはわかっていた。

「背丈は僕より頭半分ほど大きくて、黒の鳶コートを着た、あと、下駄をつっかけて」

 それでもここで、僕が何かするのをやめてしまえば、それは自分で自分の首を絞めることになる。たとえ返事がなくとも効果がなくとも意味がなくとも、僕はここで声を張っているしかない。

「なら、駐在所へ行ってことを知らせてくれないか」

 僕は巡査だ。ただ今は、無力で、お笑い草の、小さき者だ。集団の、組織の威を借ることもままならぬひとりの若造だ。

 誰も何も言わない。

 誰も動かない。

 ただただ冷たい無数の眼が、眼が、眼が、見透かすように視線を刺し向ける。

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