友よその御手で我を救い給え

八稜鏡

友よ、その御手で我を救い給え


 風が吹き抜ける中、一人の少年兵が飛行機に乗り込もうとしていた。

 彼の名前はゴーゴリ、周りにはそう呼ばれていた。

 ふと視界に入った人物が気になって眼を凝らす。軍服が良く似合う少年だ。

 己と同じ年頃に見える少年の夜のような瞳がとても印象的で、ジッと観察していた。




{**+**}




「こんにちは、良い天気ですね」

 或る昼下がりの事――ゴーゴリが羽を休めて基地の隅で休憩していると、突如柔らかな声が降り注ぐ。

 声のした方を見詰め、慌てて立ち上がり敬礼する。そこには幾日か前に見掛けた少年が、両手を後ろで組んで立って居た。

 ゴーゴリはぱちくりと瞬きをすると、その軍服の兵科色を見詰める。その色が特殊異能部隊所属を示していることと少年の胸に飾られていた勲章の意味を思い出し、ぞっとして咄嗟に目を逸らす。

――噂だと兵器のような特別な異能を持つ人しか入れないらしいけど、若く見えるのは……いや、余計な思考は危険だ。ボロが出ないうちに掻き消さないと。

「下げてください、そういう堅苦しいのには疲れました」

 幼げな無辜の笑みで少年はゴーゴリの手を下げさせる。そして何も気にする事無く、先程ゴーゴリが座って居た場所の隣にゆっくりと足を抱えて座った。どうぞ、と隣に座るように指し示す彼を遠慮がちに見詰めたが、意思を変える気はないらしく仕方無く少し距離を開けて行儀良く座る。

「ゴーゴリさん、ですよね?」

「はい、そうです。何か御用でしたか?」

「基地に居る方々が口を揃えて彼は道化のように明るく場を盛り上げ、様々なことを話してくれると云っていたので少し興味が沸いて」手を頬に当てる。「今は軍規とか気にしないで下さい。私が貴方と歳が近いのは良く解りますし、そうして恐縮されますとお喋りがしづらいです。今だけは基地の方々と同じように話していただけませんか?」

 少年のふんわりとした微笑みは歳相応の可愛らしさもあったが、何処か影が落ちているようにも見えた。

 ゴーゴリはぐるりと首を回しながら暫く考えて、一礼をすると姿勢を崩して普段通りに胡坐をかいて座る。それだけで少年は嬉しそうに目を細めて軍帽を脱いだ。

「私はドストエフスキーと云います」

「私はゴーゴリ。宜しくおね――宜しくね」

 ぎこちなすぎる言葉をゴーゴリは返し、へらりと作り笑う。流石に緊張してしまうのは仕方無いよね、と渇いた唾を飲み込むとゆっくりと深呼吸をする。何時も通り演じれば良い、と言葉と態度を仲間用に入れ替えてドストエフスキーと向き合う。

「でもどうして私になんだい? 他にも面白い話をする人は居るよ」

「私の所属している部隊に同じ歳の子はいないもので……」

「そうなんだ」

 にぱっと笑みを浮かべると、誰にも見られない角度で外套から小さな林檎を取り出した。

「食べる?」

「何処に隠していたんですか?」

「内緒」人差し指を唇に当てると、ウィンクする。「何のお話しよっかなぁ」

 ドストエフスキーが驚いてくれなかったことは残念だったが、気にせずに林檎を差し出す。

「あ、切ろっか?」

「いえ……私は余り食べない方なので今は要りません」

「それじゃあ……持ってったら怒られちゃうか」

「ええ、そうですね」

 ゴーゴリは詰まらなそうに足を伸ばすと、今度は内衣嚢ぽけっとに仕舞っているかのように見せかけて林檎を外套に仕舞う。

「もしかしてですけど内衣嚢ポケットに仕舞っているんですか?」

「あーあ、気付かれちゃった」

「林檎って内衣嚢ポケットに入るんですね……」

「あははっ、ちょっとだけコツがいるけどね。あとすこぉしだけ大きくしてある」

 耳打ちをするかのように手を頬に当てて云うと、ゴーゴリは口角をにっと上げる。けれどもドストエフスキーの仮面のような微笑みは歪まなかった。

 気軽に話しやすくなる雰囲気を作るのはゴーゴリの特技だった。けれども少しだけ失敗したかもしれないと鼻を掻く。他の人のように笑う素振りも驚く素振りも見せず、壁を作っているようなドストエフスキーの様子に膝を立てて頬杖をつく。

――ううん、もっと良い反応をしてくれると思ったのに。

「二つ質問しても良いですか?」

「うん、良いよ」

「先日貴方は詰まらなそうに飛行機に乗っていたのを見掛けたのですが、どうしてですか?」

 ゴーゴリはぱちくりと目を瞬かせて、それからドストエフスキーの澄んだ瞳を見詰めた。先程とは全く違うただ、純粋に知りたいと望む子供の顔に心が引き寄せられる。

「君は訓練を受けたことはあるかい?」

「いいえ、ありません」

「そうかい、それは随分恵まれているね。あれはね、とても退屈なんだよ。私はもっと自由に飛びたい」

 輝々とゴーゴリは瞳を輝せて空を見上げた。伸ばした手は小さく、雲を掴むことすら出来ない。

「何故そう思うのですか?」

「知りたい?」頷くドストエフスキーを見詰めると、人差し指を振った。「友達になってくれたら教えてあげるよ」

「あ、そういうの結構です」

「うわっバッサリ拒絶された。かぁなしぃなぁ」

 わざとらしく項垂うなだれてちらりと反応を伺い、ドストエフスキーの人形のような無表情を見詰めて頬を膨らませた。

「君、友達居ないでしょ」

「必要ないので」

「やっぱり。君みたいな子は皆んなこう云うんだ。早く戦果を挙げたいからじゃないの? ってだから教えない。慥かに国の為に生きなきゃ……そうしなければ生きられないからそう云うのは仕方無いけど、でも……」

「ぼくはそう思いませんよ」

 ゴーゴリは肩を竦めて立ち上がり、ドストエフスキーを見下ろした。一つの感情もないその顔を見ていると、どんなことでも話してしまいそうで目を逸らす。

「それじゃあさ、それ以外の答えなんて何処に有るんだい?」

「貴方の頭の中に有るのではないですか?」

 ゴーゴリはその解答に目を丸くして硬直し、くすくす、けらけらと終いには腹を抱えて笑った。そうしてドストエフスキーの瞳に広がるさらな夜空を覗き込む。

「君って変だよ、すっごく。でもその答え、大事にしてね。忘れないで、誰にも云わずに胸の中に隠しておいて。あっ、それから僕の答えも大人には内緒にしておいてほしいな」

「ええ、解りました」

 ドストエフスキーが頷いて立ち上がるのをじっと見詰めていた。彼の仕草一つ一つが洗練されていることが羨ましくて、ゴーゴリは溜息を吐く。

「二つ目の質問です」

「なんだい?」

「最近、目立った行動をしているものは居ませんでしたか?」

「うぅん……あっ、洗濯部隊の子かなぁ。女の子達が噂してたんだけど一晩帰って来なかった子が居たんだって」

 ドストエフスキーが軍帽を確り被り直すのを見詰めながら、ゴーゴリは首を傾げて記憶を掘り起こす。

「名前何だっけなぁ。あ、アルヴィナだ。皆んなにヴィーナって呼ばれている子、結構可愛いかった気がするから気に入られちゃったんじゃないかなぁ」

「そうですか。善い情報を有り難う御座います」

――嗚呼、最近密偵が居るかもしれないって噂が出回っているから探っているのかな。

「では、そろそろ失礼します」

「またね」

 頭を下げて去っていく背中をゴーゴリは両手を振って見送った。



 これは後に親友となる二人が最初に言葉を交わした日だった。




{**+**}




 ゴーゴリは何時いつも退屈していた。思考を放棄して戦場に向かうのを疑わぬ仲間達を褒め称え、時には鼓舞して周りの大人から気に入られても何も望まずにいた。

――それが一番楽だったから。退屈でも辛い事を忘れられたから。

 ドストエフスキーという存在が基地に滞在する事になり、ゴーゴリは面白い退屈凌ぎになりそうだと、少しだけわくわくした。

 同じ年頃の達観した少年、何時いつか良い友人か理解者かそのいずれかになってくれたなら……僅かに期待したのだ。

 そう……ゴーゴリは未だ子供だったのだ。




{**+**}




 ゴーゴリは基地に来た時から基地のあちこちを駆け回って、沢山の人の話を聞きながら知識や情報を身に付けていた。それ故に基地の中では誰もがゴーゴリの名と顔を知っていた。彼は優秀だが変な子供だと。

 鼻歌を歌いながら今日もまたゴーゴリは誰かの下へと向かう。勿論、行き先が決まっていないわけじゃない。そこに誰が居るのかが解っていないだけであった。

「おや、ゴーゴリだ」

「おお、ほんとだ。今日は訓練はどうしたんだ?」

 不意に年配の男二人組に声を掛けられ、ゴーゴリは立ち止まる。

「今日はお休みだよ」

「そうか、良かったな」

「何を話してたの?」

 年配の軍人達に囲まれてもゴーゴリはけろりと笑って溶け込む。

「この前の出撃の話をしていたんだ」

「こいつが変な事でずっと悩んでるからさ」

「変な事?」

「嗚呼……あの時、塹壕で撃ち殺した子が女の子だったんだ。若い子だった、俺の娘くらいだ」

「うん」

「何て云うんだろうな……此処に戻ってきて、生きているんだと実感した時にふと思い出したんだ」

 男は震えた両手で頭を抱える。それをもう一人が不思議そうに見ていた。

「ゴーゴリ、お前みたいな子供が沢山戦場には居たんだ。もう終いなんだ、何もかも。そう思ってしまってな」

 ゴーゴリよりも長い時間を生きているからこそ、増えてしまう雑念。薬だけでは忘れられない自我エゴ。それら全てを消せたならなんてゴーゴリは物思いに耽る。そんな異能があったらどれだけ楽だろう。

「それでも私達は闘うしかない、でしょ」

 吐き捨てるようにゴーゴリは告げて腕を組む。子供は殺したくないなんて大人の我儘だと。

「……ヴィーナって子を憶えているか?」

「洗濯部隊の子?」

「死んだよ」

 此処では珍しくない。ゴーゴリは大して驚きもせず、悲しげにしている二人を交互に見詰める。

「俺の娘なんだ。一週間前までは生きてて、動けない俺を必死に看病してくれた。昨日、動けるようになって会いに行った。死んでいると知ったのはその時さ。それからずっとヴィーナを撃ち殺す夢を見るんだ。薬を飲んでも消えないんだ」

――そっか……。あぁ、彼はもう何処にも行けないなぁ。

 おいおいと泣く彼の背を摩りながら、蒼い空を見詰めた。今日も晴天。焼き焦がすような太陽がどっかりと居座っている。




{**+**}




 ゴーゴリは五階建ての兵舎の屋根の上で足を組んで座り、林檎を齧っていた。

――あ、あの子出撃しちゃうんだ。仲良かったのになぁ。

 ぼんやりと周囲を見渡しながら鼻を掻く。

「そんなところで盗み食いですか」

「うわっ」

「しー、私です」

 ゴーゴリが驚いて恐る恐る振り向くと、背後にドストエフスキーが立っていて思わず二度見した。

「え、何で此処に」

「下から見えたので」

「目が良いんだね……」

「ええ、とても」

「どうやって登ったのさ」

「梯子を使いました。貴方はどうやって?」

 ゴーゴリは隣に座るドストエフスキーをじろじろと見詰め、誤魔化すように林檎を齧る。

「もしかして異能ですか?」

「んぐっ」

「食べ終わってからで良いですよ」

 ごくりと急いで林檎を飲み込むと、ドストエフスキーと目を合わせた。

「ねぇ、君はどんな命令で此処に来たの?」

「羽を伸ばすように、と」

 くすりとゴーゴリは微笑む。

「君は面白いね」

「面白いという定義には当て嵌まらないと思います」

「それが面白い、のさ」

「そうでしょうか」

 ゴーゴリはぱたぱたと足を揺らして体を伸ばす。

「今の人はね、面白さというものに飢えている。そうして薬で笑顔になって何時いつの間にか本当の面白さを忘れていくんだ。だから君みたいに真剣に冗談を云える人は面白いんだよ」

「冗談ではないのですが……」

 ゴーゴリはきょとりと首を傾げる。

「え、もしかして本当に羽を伸ばすように云われたの?」

「はい。子供の多いこの場所で子供らしさを学ぶように、と」

「へぇ、確かに君って子供らしくないもんね。そうも云われるかも」

「子供らしいって何でしょうか」

 物憂げに首を傾げるドストエフスキーの姿に、ゴーゴリは吹き出して笑う。

「子供はそんな事考えてないよ」

「貴方は子供らしくいられるんですか?」

「私は道化師だからそんな必要ないのさ!」

 バサリと外套を広げて格好付けるが、ドストエフスキーは笑いもしなかった。

「笑ってよぉ〜」

 不意に鳴り響く鐘の音にゴーゴリは勢い良く立ち上がる。

「時間だ。長居し過ぎちゃった。またね!」

 ゴーゴリはぴょんっと屋根の上を駆けて行き、何の躊躇ためらいもなく飛び降りる。

「道化師というよりは猫なのでは?」

 ドストエフスキーのその呟きは暗い雲にのまれて消えた。




{**+**}




 ドストエフスキーは普段とは違う航空服を纏ったゴーゴリを見掛け思わず声を掛けた。

「おや、ゴーゴリさん。出撃するんですか?」

「ううん、訓練だよ」

「成程」

 相も変わらず焼け焦げた跡の残る大きな軍外套を羽織っているゴーゴリの姿に首を傾げた。

「どうして貴方は何時いつもその外套を羽織っているのですか?」

「ん……内緒」

「そうですか」

「問い詰めないんだ」

「着丈には合っていませんが軍規には反してないので」

 けらけらとゴーゴリは笑い、形だけの敬礼をする。

「それじゃ、遅刻しちゃうからもう行くね。またね」

 ひらひらと手を振る姿にドストエフスキーは未だ手を振り返す事は出来なかった。




{**+**}



 ゴーゴリは訓練を終えてのんびりと基地を歩いていた。

「おや」

「あ、ドストエフスキー君」

 不意に見付けたドストエフスキーの下へ駆けていく。

「何してたの?」

「色々としてました。貴方は?」

「散歩」

 ドストエフスキーの隣に立って、ゴーゴリはくふぁりと欠伸をした。

「寝不足ですか?」

「うん。夜中に上官に叩き起こされた」

「それは大変でしたね」

「……すっごくどうでもいい事話しても良い?」

「ええ、どうぞ」

「私達って戦場を飛び交う鉛玉の一つでしかないんだなぁって思ってちょっとだけ落ち込んでる」

「何故?」

「だってたった一つでは敵軍は崩せないし、威嚇にもならないでしょ。でも飛んでいかなきゃいけない事もある。それがどんなに無意味だとしても。その事をありありと見せられてしんどくなっちゃった」

 ゴーゴリはけらりと笑う。

 それをじっと黙ってドストエフスキーは見詰めていた。

「こんな話をいきなりしてごめんね。君は答えを持ってるかなぁっていう楽観的な……なにか」

「答え……ですか。これが答えになるかは解りませんが、ドミノ倒しの如く一点を崩せる場合も時としてあるのではないでしょうか? その期待を込めて飛ぶのは無意味だとは思いません」

「成程……有難う。なんか楽になった」

 ゴーゴリの笑みが緩やかになるのを見て、ドストエフスキーは薄く微笑んだ。

「こういう問答をするのも悪くはないですね」

「あはは、君が望むなら幾らでも問題を持ってこよう」

「果たして私が楽しめる問題は有るのでしょうか?」

「それは難しいなぁ。実に難しい問題だ」

 普段通りのゴーゴリの笑い声が響き、風が爽やかに吹いていった。

——もしも学校があったら、君と一緒のクラスが良いなぁ。

 ゴーゴリの細やかで淡い夢は空気の中に溶けていった。




{**+**}




 ドストエフスキーが基地の屋根の上で風を浴びていると、遠くの方から誰かが呼ぶ声が聞こえた。

 面倒そうに振り返ると、遠くの屋根の上に身体に似合わぬ軍外套を羽織った白髪の少年――ゴーゴリが立っていた。

 ゴーゴリは滑るように屋根伝いに駆け寄って、ドストエフスキーの隣に立つとにかりと笑う。

「ご用件は」

「特になぁし!」

「……では何故声を掛けたのですか?」

「君と友達になりたいから」

「嘘ですね」

「うん、そうだね。今はそれが答えって事にしておいて」

 ゴーゴリはどかりと胡座をかいて座る。そうして星空を見上げた。

「私もね、遂に出撃が決まったよ。しかも明日。いきなり作戦が変わるんだから驚いたよ」

 ドストエフスキーはじっと黙ってゴーゴリを見詰めていた。

 本来なら祝福すべきなのかもしれないが、どうもこの子供にはそれが合わない気がしたのだ。

「あのね、私達はある場所を消しに行く。沢山人を殺すんだ」

「そうですか」

 ドストエフスキーは不思議そうにゴーゴリを見下ろす。

 彼は何故このような話を己にするのか、見透かしたくて見詰めていたら目が合った。

 濁った子供の瞳。

 何処にでも居る現実を知り過ぎてしまった者だけが持つ瞳。

 ドストエフスキーは彼の内情を殆ど知らない。それでも知りたいと思うようなそんな瞳だった。

「君は神様を信じるかい?」

「ええ」

「僕の髪の毛はね、或る事で白くなってしまった。僕はその時から神様を恨んでいる」

 ドストエフスキーは恐らく産まれて初めて呆然とした。それくらいに衝撃的な発言だった。今迄神様を信じる人しか出会った事が無かったからこそ、心の底から驚いていた。

「あは、君の驚いた顔……綺麗だね。君は凄いよ、神様を信じて人を殺せるんだから」

 輝々としたゴーゴリの瞳がドストエフスキーの目に刺さる。

 夜空の月明かりを反射して白銀の雪のようになった髪が風に揺れた。

「ぼくは今、歓喜しています。こんなに驚いたのは人生で初めてかもしれません」

 二人は年相応に……否、少しばかり幼い笑みを浮かべて見詰め合う。

「ドストエフスキー君も動揺するんだねぇ」

「そうですね。ぼくにもこんな感情が有るなんて……」

 ゴーゴリの隣に座ると、ドストエフスキーは両手を握りしめた。

「でも何故、この話をするんですか。もしも誰かに聞かれていたら――」

「どうなるかなんて知っているよ。それでも君に話したかったんだ。君は信用出来ると判断したからね」

「理由を教えてください」

「僕の嘘を見抜いている事かな」

 ゴーゴリはぱちぱちぱちとわざとらしく拍手する。

「僕はこれから死にに行く。薬を飲むから怖くはないだろうね。心の底では出撃しない未来に期待していたんだ。でもそれもお終い」

「死ぬとは限りませんよ」

「ううん、死ぬよ。何となく、解るんだ。周りをよく見ているから解るんだ」

「そうですか」

「君の神様に会いたかったよ」

 ドストエフスキーは首を傾げたが、答えは得られなかった。

「君さ、前にどうしてこの外套を羽織っているか聞いたでしょ」

「はい」

「これはね、父さんの形見なんだ」

 ゴーゴリはにっかりと微笑んでドストエフスキーと見詰め合う。

「僕の異能は外套を利用すれば空間転送出来るんだ。それは何でも。爆風だけ飛ばす事も出来るし自分の体を別の場所へと転移させる事も出来るんだ」

「可能性に満ちた異能なんですね」

「そう……だね」

 ドストエフスキーは俯くゴーゴリの顔を覗き込もうとした。けれども、その顔を見てしまったら何かが壊れてしまう気がして思い止まる。

「ドストエフスキー君、僕がどうして神様を恨んでいるか知りたい?」

「はい、とても」

「これはね、在り来りで何処にでもある詰まらない家族が消えた話。とっても長くなるよ。それでも聞きたい?」

「ええ、聞いてみたいです」

 きょとり、とゴーゴリは首を傾げて諦めたように瞳を細めた。そうして暫くじっと黙り込んだ。

 ドストエフスキーは何も問い詰めずに答えをじっと待つ。何故だかそうしたくなった自分自身に首を傾げながら、美しい星空を眺める。

――彼はこの星空が最後のものだと考えているんでしょうね。

 そう思うと何故かこの沈黙も心地の良いものに思えてきて、ドストエフスキーは瞳を伏せた。

「……あの日は、父さんが戦地から帰ってきた日だったんだ」

 不意にゴーゴリは語り出し、外套を強く強く抱きしめた。

「楽しくて嬉しくて戦時中だって忘れるくらいに浮かれていた。そんな時――」

 ゴーゴリの声が掠れて滲む。

「空襲が僕の住んでいた村を襲った」

 体を丸くするゴーゴリの目から涙が零れ落ちる。

「小さな村だから警報なんて無くてさ」

 ゴーゴリは全身を震わせて嘔吐えずくように声を吐き出す。

「一瞬だった。全部が燃えたのも崩れたのも一瞬だった。その一瞬の中で父さんは、僕の力を知っていた父さんは自分の外套を僕に被せたんだ。そのお陰で僕は村から遠く離れた場所に飛ばされて……こうして生き残っている。もしも僕が手を掴んでいれば家族を救えたかもしれなかったのに……もっとこの力を使いこなせてたら家に戻ることが出来たのに……燃えていく村を見て、立ち竦んでしまって、何も出来なかった。僕はあの日、家族を見捨てたんだ」

 吐き出した吐息が白いもやとなって二人の間を彷徨う。

「でもそれを認めたくなくて僕は神様に縋った。神様を恨む事で生きている事を、生き残った事を肯定している」

 ドストエフスキーはじっと黙ってゴーゴリの話を聞いていた。じっと見詰めて心を理解しようとした。

「貴方が、辛くても生きる事を選択したのは何故ですか?」

「二人に生きろって云われたから……生きろなんて云われたって……」ぼろぼろと涙が溢れ出す。「こんな、こんな生よりも死に溢れた世界で、人を殺さなければ生きられない世界で……どう生きれば良いんだ」

 ぐしゃぐしゃに泣きじゃくるゴーゴリの姿を見て、ドストエフスキーはどうする事も出来ずに硬直する。

「ごめんね、泣かないようにする積もりだったのに……ごめんね」

 必死に謝りながらも泣き続けるゴーゴリの姿は細くか弱い子供そのものだった。どれだけ訓練を積んだとしても彼は子供の侭だった。ドストエフスキーはそれを漸く理解して、同時に切なく羨ましいと爪を噛んだ。

「ぼくは……どう足掻あがいても子供になれません。だから……だから貴方が苦しそうに泣く意味もぼくに謝罪する意味も理解出来ないんです。ごめんなさい。貴方の辛さを人間として分かち合う事が出来なくて……」

 ドストエフスキーは姿形は子供のようだとしても脳も心も子供ではない。そうではなくなってしまった。それを伝えるべきかどうすべきか悩んでいたら、手を握られた。

 触れられる事を避け、警戒し、距離を取っていた筈なのに、何故かゴーゴリはドストエフスキーの手を握る事が出来た。その事実に驚いて手を見詰め、そうして漸く彼の異能なのだと気付く。

「どうして……」

「こういう時は手を握り返してくれるだけで良いんだよ。……僕の家族はそうだった」

――嗚呼、彼はぼくを人間として見ているんですね。

 冷たいゴーゴリの手を握り返し、ドストエフスキーは空を見上げた。

 暫くずっとそうしていた。

 お互いに何も云わず手を握っていた。

――この時間が永遠ならば……。

「この時間が永遠だと良いのにね」

 ゴーゴリの一言に目を丸くし、ドストエフスキーは静かに頷く。

「本当にそうですね」

「そろそろ寝ないと。明日、ちゃんと異能を使えなくなるから……」

「はい、また会いましょう」

「うん……さようなら」

 ぱっとゴーゴリは手を離し、異能で何処かへと消えて行った。

 これが最後だとドストエフスキーは熱い目元を手で覆う。

 生まれて初めての感情に戸惑いながら唇を噛んだ。




{**+**}




「よっと」

 ゴーゴリは異能を使って静かに寝台ベッドに戻ってきた。

 そうしてまた異能を使い、或る本を隠し場所から取り出す。

 それは聖書だった。戦争中に書き換えられたものでは無い古くから有る物だった。

 ゴーゴリは父に与えられた本物の聖書を抱きしめて、目を閉じる。

――もう何も恐れない。

 今や国の為に戦う事は栄誉で有り、至上の幸福とされている。

 それを信じる子供達を率いて、真実を忘れた大人は死地へ飛び込む。

――お終い……ねぇ。

 在る筈の無い勝利を盲信する大人が零した愚痴が、妙に喉に引っ掛かっていた。聖書を誰にも見付からない場所に隠し、距離を計算する。

 何時いつだってゴーゴリは使い勝手の良い子供で居続けた。

 今回も変わらない。

「漸く、空を自由に飛べる」

 そう思い込んで涙を飲み込んだ。




{**+**}




 ゴーゴリは爆撃機の後方に待機していた。そこから異能を使い敵操縦士を撃ち殺す為に。

 渡鳥の如く隊列する爆撃機や戦闘機達を見詰め、からからに乾く喉を抑える。

 作戦は恐ろしい程に順調で、拮抗していた前線を焼け野原にしていく。

「ゴーゴリ、敵だ!」

 不意に何の予兆もなく敵機が姿を現した。異能の可能性が高いと即座に判断したのか、戦闘機達が隊列を崩さぬように敵機に立ち向かう。

 バリバリバリ

 機関銃の音が耳に張り付く。

 ゴーゴリは外套を使って、敵機の操縦士の元へ拳銃の先だけを転送して、弾丸を額に届ける。

 視界に降下していく敵機を捉え、また新たな標的を探す。

 幾つ落としても敵は減らず、幾つ殺しても実感が訪れない。そればかりか恐怖が殺意へと、殺意が快感へと変わっていく。

 この手で殺している訳ではないからマシなのだろう。

 この目で敵兵が見えていないからマシなのだろう。

 ゴーゴリはまた手を動かす。

 一瞬の思考が命取りになる事を彼はよく知っていた。

 全ての思考を葬り、空に溶け込む。

 また一機、赤に染まって堕ちていく。

 また一機、繰り返す。


 空は何処までも広く蒼かった。


 大地は何処までも赤く燃え上がっていた。


 戦況は殆ど互角だった。

 隊列も徐々に崩れる程に攻守入り乱れた状況になっていた。

 無線機の向こう側から同志の悲鳴が聞こえる。

 不意にゴーゴリの脳裏に幻聴が聞こえてきた。


広大なる土地を突き抜ける

夢物語を現実とすべく 我らは生まれた


 それは基地で高らかに歌いあったあの日の声だった。


英知は我らが腕に鋼の翼を

胸に熱きエンジンを与えた


 脳裏に響く声に全身が鼓舞される。

 気が狂っているのだろう、そう思える程に鮮明に声が聞こえるのだ。


常に上を、上を、上を

我等が翼は目指す


 全てがおかしくなってしまったかのようだった。

 断絶された世界で一人ぼっちになったかのようだった。


プロペラ一枚一枚の下で

国境に平穏が息づく


 死を覚悟していた。

『国の為』『家族の為』

 そう話し合ったあの日々が走馬灯の如く脳裏を駆け巡る。

 何時いつ死んでもおかしくないだろう。

 警報機が鳴り響き、機体が大きく悲鳴を上げる。

——けれども僕らは情けなくても良いから生きて帰りたかった。

 せめてこの一撃が終焉の一手になるように、その願いが弾丸に込められる。

「ねぇ……母さん、父さん。僕は貴方達の誇りになれましたか」

 突如——ズガンと爆音が耳を貫く。

「エンジンがやられた!」

 その声にゴーゴリは遠のいていた意識を取り戻す。

——あとはもう……。

 不意に馬鹿げた考えがゴーゴリの脳を駆け抜けた。

 とんでもなく馬鹿げた考えだ。

 戦場から逃げ出してしまいたい馬鹿正直な気持ちが生み出した恐ろしい考えだ。

 けれどもそれを実行に移したくて、ゴーゴリはエンジン部分に向かう。

 火が付いたエンジンは酷い匂いを発していた。

 ゴーゴリは何の躊躇いもなくエンジンに外套をかける。

 ドン

「うっあ……」

 外套の向こうでエンジンが爆発した。

 転送が不十分だったのか、ゴーゴリの顔に破片が突き刺さる。けれども此処で立ち止まる事は出来ない。

 急降下していく機体の中、耳が痛み音が遠のくのを感じた。

 ゴーゴリは急いで機体の先頭部に転送し、外套を機体に被せる。

「うっぐ……」

 全身が潰れそうになりながらも、機体を死に物狂いで転送させる。

——嗚呼、死ぬのかな。

 ふらふらと意識は蒼穹おおぞらに向かう。

 倒れいく中、遠い向こうに白い鳥が飛んでいた。

 伸ばした手は何も掴めなかった。

——最後に母さんの作ったピロシキが食べたかったなぁ。

 淡い幻想を抱き、ゴーゴリの意識はそこで途切れた。




{**+**}




 目を覚まして異臭に顔を顰めた。

「げほっごほっ」

 声を吐き出そうとして、喉が痛む。次いで顔の痛みがじわじわと全身を強張らせていった。

——生きて……る?

 動かない体の代わりに首を動かそうとして、ゴーゴリは痛みに唸った。

 そうしてぼんやりとした視界に違和感を抱く。

「起きたか、ゴーゴリ」

 不意に声を掛けられ、乗組員の一人の声だと気付き、目を見開いた。

 胸には安堵が支配していた。

 たった一人でも救えたというゴーゴリの確かな実感が、目に涙となって浮かぶ。

 彼に抱え起こされて、漸く周囲を見渡せた。

 そしてその異様さにゾッとした。

 床にごろごろと寝転がっているのは病人だけでなく死体も含まれている。何度か死体を見た事の有るゴーゴリは驚きはしなかったが、その内の一体になるところだったかもしれないと考えて、ゾッと背筋を震わせた。

「水だ。少し不味いが飲んでおけ」

 差し出された缶を受け取り、確かに不味い水を飲み干す。

「味方の前哨基地の近くに不時着したみたいで、今のところ乗っていた奴は生きてはいるよ」

「良かった……」

「お前のお陰だな」

「私は何もしてないよ」

「異能を使ってくれたんだろ」

 がしがしと無骨な手に頭を撫でられて、ゴーゴリは俯く。

 他の部隊はどうなっただろうか、今後どうなるのか、不安と恐怖が這ってきていた。

 そして視界の違和感を解決しようと目を擦る。どうやら包帯が有るらしい。

「あんまり触るなゴーゴリ。傷が開く」

「そんなに酷いんですか?」

「嗚呼、もしかしたら見えなくなるかもしれないと云ってたぞ」

「そうですか……」

 隣に座る彼を見詰め、喉を抑える。

 顔半分を覆う血だらけの包帯。見るからに酷さが解り、嘔吐きそうになった。

「弾が当たっちまってな」

「……今後どうなると思いますか?」

「さぁな。切羽詰まっているし、直ぐに前線復帰だろうよ」

「私達は少しでも何かをなし得たのでしょうか」

「さぁな……」




{**+**}




 ゴーゴリは復帰前にある廃教会に訪れていた。

 空襲に崩れ焦げた教会にゆっくりと頭を下げて入る。

 そしてそこに居た人物に驚いて声を上げた。

「ドストエフスキー君!」

 瓦礫に腰掛けていたドストエフスキーはゆっくりとゴーゴリの方を見詰める。

「生きて……いたんですね」

 つうと一筋の涙がドストエフスキーの頬を伝う。ゴーゴリはそれを見詰めてわんわん泣き出した。

「怖かったよぉ、しんどかった。顔痛いし、手も痛いし、もうやだぁ」

「……本当に生きていて良かったです」

 ゴーゴリはゆっくりと隣に座り、手を握ろうとして避けられた。

「どうしたの?」

「いえ、少し恐ろしかっただけです」

「どうして?」

「それは……少しぼくの話をしても良いですか?」

「うん、好きなだけ話してよ」

 ゴーゴリは涙を拭いながら、微笑んでドストエフスキーを見詰める。

「ぼくは大人の為の道具でしかない。だから貴方と友人になる事が酷く恐ろしいのです」

「そんなのこの時代に生まれた子供は誰だってそうだろう?」

「いいえ、違います。ぼくはね、異能兵器なのです」

 にこりとドストエフスキーは笑う。

 その手は震えていた。

「フョードル・ドストエフスキーという個体は幾つも居るんです。偶然ぼくが成功したから失敗作達と違って地位を与えられた。もしもまた失敗すれば、ぼくは破棄されて別の個体になるだけ。それが怖いんです。酷く怖い」

「感情が有るなら君は未だ人間だよ」

「そう作られていたら? そういう風に感じるように計算されていたら?」

「それで善いじゃないか。例えそうだとしても君は僕という友人の居る唯一無二の存在だ。代わりは何処にも居ない」

 ゴーゴリはにっかりと笑う。そうしてドストエフスキーの手に自分の手を重ねようとして、やはり避けられた。

「ぼくの異能は触れた者を死に至らせるものです。それでも貴方は触れるのですか?」

「僕は一回死を見てきている。もしも次の死が友達に殺されるという結末だとしても何も恐ろしくはない。寧ろ道化師らしい死に方だ」

 眩しいその笑顔に笑い返してドストエフスキーは恐る恐る手を握った。

「馬鹿ですね、貴方は」

「馬鹿だから君の友達になれると思うよ」

「ではそんな馬鹿な貴方に、もっと馬鹿な提案をしても良いですか?」

 ゴーゴリはきょとりと首を傾げる。

「異能のない平和な世を作りたいのです。ぼくはその為に一人で行動していました。今回此処に来ているのもその計画の内の一つです」

 ドストエフスキーは今迄で一番輝いた瞳でゴーゴリを見詰める。

「貴方の異能が有れば、一時的停戦を持ち込む事が出来るかもしれません。そしてその一時平和の中で完全に異能を無くす方法を探すのです」

「それは……素晴らしい考えだ」

「ええ、ですが国を裏切る事になります。いずれ全てが敵対するでしょう。いずれぼくらより小さい子供を痛めつけるようになるでしょう。それ程に残酷で残虐な作戦です。それでも貴方は立ち止まらずに進む事が出来ますか?」

 ゴーゴリはこくりと頷いてドストエフスキーの顔を覗き込む。

「勿論出来るよ。二人で成し遂げよう!」

「それが大きな悲しみを抱えるとしても?」

「悲しみは海ではないから飲み干せるよ」

「それがどれだけ遠い道則でも?」

「ウリータは行く。何時かは着くだろう」

「……永遠に辿り着けない夢だとしても?」

「もう! 良いかい? 僕達は未だ人生のちょっとしか生きていない。ずっと続ければ良い。歳を取ったとしても、体を失っても。出来る事をやり続ければ出来ない事にも辿り着ける」

 ゴーゴリはくるりと踊るように立ち上がり、ドストエフスキーに手を差し伸べる。

 きらきらと輝く光が差し込み、崩れた世界を彩る。

 ドストエフスキーはじっと黙ってゴーゴリを見詰めていた。

 音も何もないその場所で、二人は見詰め合う。

 これからどれだけ長い苦痛が待ち受けようとも構わない、そういうものが二人の間にあった。

 ドストエフスキーはゴーゴリの手に額を付けて跪いた。

「嗚呼、友よ。どうかその御手でぼくの夢を救ってください」

 その日、二人は生涯で最も掛け替えのない親友になった。





 その後の二人が「七人の裏切り者」として世界に名を馳せるのはまた別の機会に話すとしよう。

 to be continue…….

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友よその御手で我を救い給え 八稜鏡 @sasarindou_kouyounoga

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