忘却のいちご大福

権俵権助(ごんだわら ごんすけ)

忘却のいちご大福

「ねえカスミ、昨日彼氏と映画行ったんでしょ。おもしろかった?」


 休憩時間、お手洗いで一緒になったOL仲間のハルコと世間話。


「あー、結構よかったよ」


「誰が出てんだっけ?」


「ほら、あの『オータム・イン・ニューヨーク』に出てた……」


「誰?」


「あの銀髪の……ほら……えーと……」


「ちょ、昨日観てきたばっかりなんでしょ? ほらほら思い出して」


 ハルコがニヤけながら急かしてくる。


「ええ〜……ど忘れしちゃった」


「がんばれ~、二十代でボケるのは早すぎるよ~!」


 完全に馬鹿にされてる。むむむ……と頭を回転させるけれど、やっぱり思い出せない。


「ほら、この人でしょ」


 ハルコが見せてきたスマホの画面には「リチャード・ギア」の名前があった。私が悩んでいる間にちゃっかり検索していたらしい。


「あー、それだ!」


「スッキリした?」


「スッキリはしたけど、自分で思い出せなかったことはモヤモヤする……」


「最近そういうの多くない? ……そのうち私の名前も忘れたりして!」


「ちょっとやめてよ〜!」


※ ※ ※


 仕事を終えて外に出ると、夜空に真ん丸な月が浮かんでいた。はあ、とため息をつく。月曜の残業は体よりも心にダメージを負ってしまう。トボトボと家路につくと、駅前コンビニの灯りが見えた。


「……よし、回復しなきゃね」


 入店するや、吸い寄せられるようにスイーツコーナーへ。


「これこれ」


 私の大好物を手に取る。大福の中にいちごが入っている…………えーと…………。


「…………なんだっけ、これ」


 いちごが大福の中に入っている……ええと。大福の中にいちごが入ったこれは……たしか……。いちごと……大福で……うーん、名前が出てこない。


「……ど忘れ?」


 いや、そんなことある? だって、いちごが入った大福だよ? そんな複雑な名前のはずがない……思い出せ。思い出せなきゃヘンだ。


「…………ううっ」


 ダメだ。どうしても出てこない。もういい、商品名を確認すれば済むことだ。手にしたそれをひっくり返し、シールに書かれた名前を確認する。


"縺?■縺泌、ァ遖"


「……え?」


 何か書いてある。そこまでは分かる。けれどそれが意味するところがわからない。まるで異国の文字を見るような感覚。成分表やバーコードの数字は読める。意味もわかる。でも、その名前だけが理解できなかった。


「…………っ」


 混乱と恐怖から手放した"それ"が地面に落ちた。店員が不審がってこちらへ視線を送る。気まずくなり、それを棚に戻して店を出た。


※ ※ ※


「『ど忘れ』ではありませんね」


 翌日、怖くなって脳外科医を訪れた私に医者が言い放った。


「シナプスが正常に働かなくなっているせいで、外部からの情報を脳へ伝達できなくなっているのです」


「えっと……つまり、どういうことですか?」


「たとえばこれ」


 と、首にぶら下げた聴診器を指でつまんだ。


「あなた、今これが『聴診器』だと認識できたでしょう。その仕組みがわかりますか?」


 ふるふるとかぶりを振る。


「目にしただけでは、それが聴診器だとはわからない。その視覚情報が脳に伝達され、脳内に保存された『聴診器』の記憶と合致することで、初めてこれが何なのかを認識できるのです。……しかし、その伝達ができなくなったとしたら?」


「……聴診器を聴診器だと認識できない」


「そういうことです」


「あの……これ、治るんでしょうか?」


 私のか細い声に医者は大きく頷いた。


「あなたはラッキーですよ。既にこの病気には治療薬がある。時間はかかりますが必ず完治できますよ」


 その言葉を聞いて、私はようやく安堵の息をついた。


「ただし」


「……え?」


「この病気は進行が早い。薬が効くまでの間は悪化が続くでしょう」


「悪くなると……どうなるんですか?」


「認識できないものが増えていく。名前を思い出せなくなったら、次はそれが持つ意味が分からなくなる。目に見えるものだけじゃない。耳にする言葉や食べ物の味もだんだん認識できなくなっていくでしょう。とにかく完治するまでが大変な病気ですから、困ったことがあったらすぐに連絡してください」


※ ※ ※


 数日後。


 出社の身支度を整えた私は鏡の前に立ち、そこに映る見知らぬ人間の姿を眺めていた。これは私だ。理屈は分かるが認識できない。私と同じ動きをする他人としか思えなかった。


「靴は履くもの。扉は開くもの」


 ひとつひとつ声に出して指差し確認し、家を出て会社に向かう。


(はあ……こんな調子じゃ、そろそろ仕事するのも難しくなってきたなぁ……)


「あぶないっ!」


 どこか聞き覚えのある男性の声がした。と同時に後ろから襟首を掴まれ、すごい力で背中側に倒された。


「いったぁ……!」


 コンクリートに背中を打ち付けて悶絶する。直後、目の前の道路をトラックが横切っていった。見上げた信号機の色は赤だった。赤。……赤ってどういう意味だっけ。


「カスミ、何してんだ!」


 倒れた私を見下ろして男性が怒鳴った。声だけじゃない。見覚えも……たぶん、ある。起き上がり、お尻の泥を払って頭を下げる。


「危ないところをありがとうございました。ところで……どなたですか?」


「はあ?」


※ ※ ※


「事情はわかった。……けど自分の彼氏を忘れるなんて、ちーと薄情じゃね?」


 彼氏……らしいカイセイくんが、キッチンで料理をしながら言った。


「しょうがないでしょ、こういう病気なんだから」


 結局、こんな状態では外を出歩くのも危ないということで、そのまま彼の新築一軒家に連行されたのだ。


「あーあ、しばらく休職かあ。お金持つかな。うち、家賃わりと高いんだよね」


「……だったら、ここに住めばいいだろ」


「………………」


「………………」


 会話の隙間にできた沈黙に包丁の音だけが響いた。


「あのさ……今の一応プロポーズのつもりだったんだけど」


「いや、わかりにくい。それに……今は返事できないよ。色々わからなくなってるから」


「そりゃそうか。ちぇっ、せっかく勇気出したのにタイミング間違えたな。……ほい、野菜スープ。足りなかったら冷蔵庫のもん食っていいから。じゃ、仕事行って来るわ」


「うん、いってらっしゃい」


 扉が閉まり、居間にぽつんと残された。芳香剤が違うのか、私の部屋とは別の匂いがした。けれど、それがいい匂いなのかどうかがわからなかった。


※ ※ ※


 一週間が経った。


「隱ソ蟄舌←縺?シ」


 居間で繝?Ξ繝を見ていた私に仕事から帰ってきた彼が言った。言葉はわからないけれど、表情を見れば私を心配してくれているのはわかる。……まだ、今日のところは。


「今日は繧ォ繧ケ繝溘?縺比ク。隕ェ縺ォ莨壹▲縺ヲ谿コ縺励※縺阪◆繧薙□」


 彼はいつものように料理を作りながら、笑顔で何かを話していた。……彼。名前はもう思い出せない。


「どうぞ」


 彼は作ったものをテーブルに並べた。お皿の上に乗っているのだから、きっとこれは食べ物なのだろう。せっかく作ってくれたのに味の良し悪しがわからないのは申し訳なかった。文字通り無味乾燥な食事を終え、処方された錠剤を水で流し込む。医者によるとそろそろ効き目が出てくる頃らしい。ああ、早く効いてくれないと頭がおかしくなりそうだ。


※ ※ ※


 発病から二週間が経った。……らしい。というのは、ついさっき日付の概念を思い出したからだ。それまでは朝と夜が交互にやってくることすら忘却していた。思い返すだけで恐ろしい。でも、こうして薬が効くまで心が耐えられた。すべて彼の看病のおかげだ。あと少し。もう少しで本当の世界が取り戻せる……。


※ ※ ※


 窓から差し込む光の色。


 表で遊ぶ子どもたちの喧騒。


 自分が一体誰なのか。


 不意に理解した。


 発病から十七日目の夕刻。目の前にかかっていた霧が晴れた。ついに、ついに世界が戻ってきたのだ。


 カチャリと扉の鍵が開く音がした。タイミングよく帰ってきた彼と目が合った。


「ただいま」


 ああ、思い出した。


 彼はずっと私に……。


 ずっと私につきまとっていたストーカー。


 そしてここは私の本当の彼氏の家。この部屋のにおい。嗅覚と脳の記憶がリンクする。これは死臭だ。家のどこかに隠された、彼の肉体が腐った臭い。


「調子どうよ?」


「……うん、結構マシになった」


「おっ、会話できるようになってるじゃん。ほら、これ買ってきたぞ。一緒に食べ……」


 話し終わらないうちに全力で床を蹴り、奴の体を突き飛ばし、その勢いのまま家を飛び出した。


 逃げなきゃ。


 どこへ?


 わからない。


 でも、どこかへ。


 思いつかない。


 まだ頭がすべてクリアになったわけではないのか。不確かな記憶の中で憶えている数少ない場所……。


 医者。


 それぐらいしか思いつかなかったが、そう悪い選択ではないはずだ。まだ完治したかどうかわからない状態で外をウロウロするのは危険すぎるし、私の認識力が曖昧な以上、この病気を知っている人に代わりに警察へ通報してもらわなければならないのだから。


「はあ……はあ……!」


 奴が追ってこないか、何度も振り返りながら駆ける。陽はもうほとんど落ちていた。足に痛みが走る。靴を履いている余裕なんてなかったから、足の裏はきっと血まみれだ。でもそんなこと言ってられない。奴と会った交差点に差し掛かる。信号の色は青。


「青は……渡れる!」


 声に出し、色と記憶をリンクさせて横断歩道へと踏み出した瞬間、大きなクラクションが鳴った。驚いて踏みとどまると、またしてもトラックが横切っていった。こんな時に信号無視だなんて! いや、今はそれどころじゃない。……思い出した。確かこの先の雑木林を横切れば近道だ。低い柵を飛び越え、足裏に土の感触を覚えながら木々の間を走る。


 …………………………。


 街灯の無い薄暗い林の中で、何かが私の方を見た。


 足を踏み出す度にその視線は数を増していく。暗闇に目が慣れてやっと気付いた。私に集まった無数の視線の正体。木々の幹に埋め込まれた、私の顔ほどもある巨大な目玉がじっとこちらを見つめていた。


「ひっ……」


 悪夢だ。幻覚だ。とても現実的な光景じゃない。きっと薬の副作用だ。私は直視しないように視線を落とし、つまづきながら必死に走って林を抜けた。目的地は目の前にあった。


※ ※ ※


「ちょっと、どうしたの?」


 ボロボロの姿で来院した私に、医者が驚いた表情で言った。


「あっ、あの……ハァ……ハァ……」


 混乱と息切れで口がうまく回らない。


「ほら、とりあえず座って足見せなさい。怪我してるでしょ」


 言われて思い出したのか、じんじんと響くように足が痛みだした。椅子に腰掛けて両足を差し出すと、足の裏にはべっとりと青い血がついていた。


「え……」


 青い。


 なぜ青い。


「その様子だと薬が効いてきたみたいですね。うん、心配しなくていいですよ。認識が戻る時は大抵みんな混乱するものですから」


 違う。


 そういうことじゃない。


 血は赤だ。それは発病する以前からわかりきっていることだ。


「そうそう、先日の検査の結果が出ましてね。あなた、先天性の認識の歪みがあることがわかったんですよ」


「せ、先天性……?」


「生まれつき、外部からの情報が脳へ正しく伝わっていなかったということです。それも今回の治療で是正されますからご安心ください。まあ、しばらくは混乱するでしょうが」


 つまり……赤だと思っていた色が本当は青だった? 今まで私が見ていた世界は、元々本来の姿ではなかった?


「じゃ、じゃあ……あの生きている木は……」


「ん? 植物が生きているのは当たり前でしょう?」


 一体、どこまでが私が信じていた世界なんだ。何も、何もわからない。この医者は……いや、そもそも医者は私が認識している医者なのか? 医者が病気を治す職業だとなぜ言い切れる? それすら私の脳がでっち上げた偽の情報かもしれないのに。


「どこへ?」


 ふらふらと立ち上がった私に、医者のようなモノが声をかけた。


「わかりません」


 足を引きずって外へ出ると、奴が扉の前で待ち構えていた。


「おい、急にどうしたんだよ。ほら、うちに帰って一緒にこれ食おうぜ。お前の大好物だろ」


 そう言って、奴は手に持った大福をふたつに割ってみせた。ぎっしりと詰まったあんこの中に、大きくて真っ青な果実が埋めこまれていた。その表面についた無数の種が一斉にめくれ上がり、現れた黒目がギロリとこちらを睨んだ。


 そうだ。


 いちご大福だ。


 ……ああ、思い出さなきゃよかったなあ。


-おわり-

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