二〇二一年・晩夏の木漏れ日をいっぱいに浴びて

 散歩と言っても「探検」だから、山に入ることになるのだろうと想像していた。それなのに夕一郎はTシャツにジーンズという、山を舐め切りTPOをわきまえていない格好である。靴和はベルトをあっさりと外し、背中に回ると「よいしょ」なんて楽しげに言いながら夕一郎のジーンズを膝下まで下ろしてしまった。汗ばんだ肌に吸い付く白いブリーフは木漏れ日に切り取られて、前衛的な柄になる。

「あれ……、ちっちゃくなってる?」

 肩越しに見下ろした靴和に指摘された通り。夕一郎は靴和がネットから拾ってくる情報によってあれこれと、肉体改造は言い過ぎにしても、出来るようになってしまったことが多い。それこそ、自分の身体に相手の熱を受け容れるということだって、もちろん容易ではなかったけれどこなせるようになってしまったし、靴和に欲しがられていると思った瞬間に火の点く心まで得てしまった。

 それでも、この状況で即座に反応が出来るほど仕上がってはいない。

「緊張してるの?」

「当たり前でしょ……!」

 屋外である。屋外なのに、ズボンを下ろして、ブリーフを丸出しにしているのである。いや、ボクサーブリーフであったとしても問題しかないのだが、ブリーフであるという時点で一層変態っぽく見えてしまうのではないか……。

「俺ぜんぜん平気だけど、……人それぞれだよね。夕くんは俺よりちょっとだけまともなんだ」

 靴和の手がシャツを捲った。去年と今年の夏に限ったことではないが、夏の終わりを白いままで迎えた腹が露わになる。ないはずもないが存在を見出すことの出来ない筋肉の代わりに薄いカーブを描き出す皮下脂肪さえ晒されて、頬ばかり熱く腫れていた。

「誰にも見せたくねーなぁ……、夕くん可愛いの、知ってんの俺だけでいい。でも、どっかでさ、誰かが、あの子可愛いねって、夕くんのこと話してたらいいなって思う」

 夕一郎は自分をあんまり可愛いとは思っていない(ちょっとぐらい思う自由は生まれながらにして誰もが有する数多い権利のうちの一つであるはずだ)が、ものずきな恋人がこの見た目を高く評価するのは勝手である。しかしわざわざこんな山林で公開し、そもそも誰も見たくなんてないはずの成人男性のブリーフを晒しておいて「可愛い」なんて言葉が貰えるはずがない。

 靴和はおかしなことを言っている。

「でも、言ってんの聴いたら聴いたで俺嫉妬すんだろうなぁ……、『俺の恋人だから』ってさ、勝手に見るなって」

 ものすごくおかしなことを言っている。自覚があるのかないのか、判然としない。

 それなのに、彼の言葉を髪の上から右耳に当てられて、夕一郎は呆気なく震えた。

 おかしな言葉は、夕一郎の胸底を閉じる鍵穴にぴったりと刺さってしまうのだ。靴和を歓迎する穴である。靴和というものずきが大好きな、同じぐらいものずきな穴である。

「これからもさ、いっぱい探険しようよ、おっさんになってもさ。あんま人多いとこ行くのは危ないだろうし、そもそも夕くん人ゴミあんま好きじゃないもんね」

 ああ、それは別に構わない。このこどもっぽい散歩は、単純に楽しい。まさしく童心に返ったように愉快である。いや、夕一郎はこどもの頃にこんな「探検」はしたことがなかったけれど、何事も遅すぎるということはないはずだし、大人なので探検の結果迷子になって泣くこともない。

 そして、靴和とこうやって遊ぶのも楽しいのだ。

 身に染みて楽しさを知ってしまったから、もう知らなかったころには戻れない。靴和が自分の愛撫で可愛らしく感じてくれることを、靴和の指や舌で原型を留めないほど蕩けてしまうことを、靴和が胎の底で熱を暴走させて、息を詰まらせて果てるときに得る満悦を、知らなかった頃、……つまり、もう少しまともだった頃にはもう。

 過去を切り捨てて何を悔やむものか。靴和勇一郎の、唯一のパートナーとして生きる未来に、生江夕一郎としての過去なんて必要ない。トカゲの尻尾のように切除出来るならばしてしまった方がずっといいとさえ思う夕一郎である。ただ靴和にだけフィットして、いついつまでも末永く愛着してもらえる自分でいられるならば、何を捨てることにだって惜しむ気持ちなんてあるはずもない。

「窮屈……?」

 靴和の腕が、ではない。穿いたブリーフの中身が、いつしか滾るほどの熱の塊となり、重なった生地の上にくっきりと輪郭が浮かび上がっていた。

 屋外でありながら、だ。自分の反応であると受け止めることは、俄には出来ない。なんて酷い、なんて淫らな在りようであることか。

 しかし、靴和は言うのだ。

「超エロいねー、夕くん、外なのにガチ勃起しちゃった。もう濡れてんのかなあ……、めっちゃ可愛い」

 夕一郎が自分で言うのではない、靴和がこう言うのだから、仕方がないではないか。

「……出してもいい? 外だけどさ、……きれーなブリーフ汚しちゃうのもったいねーし。っつーか夕くんのブリーフいっつも綺麗だよね、汚さんように穿いてんだなってわかるよ」

 相変わらず、色は、白が好き。靴和も夕一郎の好みを全面的に認めてくれている。穿いて脱ぐまで、能う限りその清浄さを保っていられるように努めていて、今だってほとんど汚れてなんかいないはずだ。

 風の髪先と西陽の吐息が夕一郎の下肢に絡んだ。

 靴和の手は、ブリーフの窓から夕一郎のペニスを取り出したところで一度離れた。それでもなお、興奮のあまりに脈打たせる様子を見て、彼は「夕くんがこれにハマっちゃったらどうしよう」なんて嘯く。

「独りでこんなことするようになっちゃったりして。……俺と家でするだけじゃ興奮しなくなっちゃったりしてね。こんなエロくて可愛いカッコしてさ、ブリーフの窓から出して、……先っぽ濡らすぐらい興奮してんの、ちょっとねえ、反則。俺の恋人はねぇ……、マジですっげーエロくて可愛くて、ブリーフめっちゃ似合うの」

 夕一郎を意地悪く褒めそやしながら、靴和は左手でシャツを捲り上げた。

 胸に陽が当たる。

 海遊び川遊びをするこどもの保護者になる可能性は皆無だから、靴和に日々溺愛されて、脂肪と筋肉で描かれる線が扁平な胸にあってはっきりとした存在感を有する夕一郎の乳首に、直射日光が当たることは滅多にない。昼日中の露天風呂にでも行けばその限りにあらずだが、まだ靴和の指に弄ばれてもいないのに赤らんでぷっくりと膨らんだピンクペッパーを人に見られるなんて耐えられない。もっと言えば、公衆浴場で十八歳未満の少年に見せてはいけない猥褻物だとさえ思う。

 自身のそうした場所を二つ、いや三つながら真っ向からの陽に晒しているという事実に呼吸が上がる、体温も更に。

「ねえ……、夕くんおしっこ出る?」

 声は、笑いのシロップを纏ってべたつく。それを不快に感じるはずの神経を、いつの間にか失って久しい。

「誰かに見られてもさ、おしっこしてるんだったらまだ納得してもらえると思うんだよね」

「どっ……」この世界にズボンを膝まで下ろしてこんな状態のものから立ちションするような、あとついでに乳首も曝け出してするような!

 しかし、この世界にいるのだ。困ったことに、蔓延る病によって人々の暮らしの蝕まれた世界、しかし靴和勇一郎の存在するただそれだけで居心地の良くなってしまう、このろくでもない世界には。

「練習だよ。またいろんなとこ探検しに行くんだ、世界が今より明るくなったら、俺と一緒に。行った先でさ、もし夕くんがおしっこしたくなって、でもトイレなかったら、俺も心配するし、夕くんもしんどい、お漏らししちゃうかもしれないじゃん。どこでもちゃっと出来たほうが便利でしょ、せっかく立ったままおしっこしやすい身体で生まれてきたんだもん」

 先日もトイレを見つけるに至るまで夕一郎自身もずいぶん心細い思いをしたが、ああいうとき、同行する人間のほうがより強い困惑を味わうものであるらしい。

 靴和にそんな負担を掛けるぐらいならば、さっさとそのへんで済ませて仕舞えば良かったのである。実際にそうするとき、夕一郎がブリーフの中に隠しているのは性器というより泌尿器であるし、露出している時間なんてトータル三十秒もない。

「……あーでも、お漏らししてる夕くんも可愛いんだろうなー」

 そんな扉、開かせてなるものか!

「んンっ……」

 手を添えることさえ忘れるほど焦って解き放った。それほど高まっていたつもりもなかったのに、緊張のせいかそれとも自覚出来ないレベルで悪質な興奮が高まっていたせいか。尿は思いのほかスムーズに腫れぼったい尿道を突き上げ粘液に塗れた鈴口を破り開いて、午後の海を目掛けるように噴き上がった。

 黄金色に澄んだそれは性潮のように勢いよく噴き出す。もちろん海に届くはずもなかったが、斜面の土に散って抉る。海水と同じぐらいの塩気であるそれを、陶然とした視線を海に向けながら放つとき、夕一郎は人間の身体の中には海があって、だから、あの海と同じイオンが存在するのだということを思う。

 呼吸に波打つ痩せた胸をいとおしげに撫ぜながら、

「おしっこ、出来たね」

 靴和は声を夕一郎の脳に染み込ませた。

「夕くん、最高だよ。こんなにカッコ良くって可愛いおしっこ見たことない。ブリーフの窓からさ、こんなギンギンでおしっこしてんの、すっげー……、すっげーエロい、めちゃめちゃ興奮する……」

 ほとんど夕一郎は達し切っていた。どう見たって尋常ではないやり方の放尿を、どう考えたって誰かに見られてしまうリスクのある場所で了えてしまったのに、靴和が悦んでいるという事実だけで胸がいっぱいになってしまう。まだまだ日中は三十度近くまで上がる陽気の中、夕一郎は自分の吐く息が白く淫らな湯気となって靴和に見られていると思った。

 靴和の腕が解かれても、もう夕一郎は自分の身体を空気から隠そうという気持ちは起こらなかった。

「こっち向いて」

 寧ろ、彼の手がないことですとんと落ちるシャツを捲り上げた直して、胸の粒状突起も、昨夜靴和に記された愛の跡も、いっそ誰かが見ていたらいいのにとさえ思う。

 振り返ったところで靴和も太陽を宿らせたような熱を下着から解き放っていた。彼の唇が夕一郎の唇を貪ると同時に、滴りに濡れたものを掴まれる。そのまま、彼の鈴口から滲んだものと夕一郎が滲ませたもの、そして靴和だけは神恵の聖水であると信じて疑いもしない尿とが、マドラーと呼ぶには夕一郎のものであっても太過ぎる二本のスティックの先端で混じり合う。

 夕一郎も靴和を握りはした。しかし、指先で、遅れて手のひらではっきりと彼の熱を捉えた瞬間にはもう、彼の舌に導かれるように、全く無遠慮そのままに、ブリーフの窓から露出させた分身から白濁を撒き散らし、……彼の左手に抱き支えてもらっていなければ転倒し途方もなくみっともない姿のまま斜面を転がり落ちる羽目になっていた。

「……すっごいね夕くん、外でいっちゃった。白ブリのお尻きゅうってさせて……、俺にいっぱい掛けて……」

 この季節、暑いなと思っても、歩いているうちは案外に平気なのだ。ところが信号待ちに立ち止まった途端に、ぶわっと汗が全身から噴き出す……、そんな経験は誰もがしたことがあるだろう。

 晒した痴態が遅効性の毒として全身に回って、汗が噴き出す代わりに急激な寒さを覚え、震えが走った。

 他方、靴和はまだ火を消していないどころか、夕一郎の白蜜でデコレートされたことに一層興奮を募らせている。……正直、羨ましいと思った。誰かに見られていたらどうしよう、……いいやもう、夕一郎は「誰かに見られていた」とほとんど信じ切って、この愛しい男共々、はてしなく間抜けな罪で収監されることまで見越して震戦を止めるすべも失っている。

「魔法に掛かったみたいだ。掛かってんの精液だけど」

 くだらない冗談を聴かせた靴和が、夕一郎の双丘を白い生地の上からやや乱暴に揉んだ。彼の、いつだって夕一郎に触れるときには実際より長いように感じさせる指先は夕一郎の尻を包む布の張った場所を抉り、深部の谷奥まで食い込んだ。

 不意の刺激に背中を反らして声を上げた夕一郎の唇は塞がれる。冷たくなった口中を彼の唾液で温められるうちに、積木状に幾つか積み上がっていた夕一郎の理性がまた音を立てて崩れた。

「もう、すっぼんぽんになっちゃおうね、夕くん」

 失いかけていた熱の芯を案外に優しく元通りに仕舞われた次には、思い切りずり下ろされる。刺激を与えられぬまま帯びていた尖りの収まらぬ右の乳首に唇が当てられて、強く吸われたときに一度、そして悪戯っぽく弱い力で噛まれたときにもう一度、夕一郎の括約筋が窄まった。海にいる誰かが双眼鏡で覗いていたかも知れないのに。

「夕くん、俺と出会ってくれてありがとうね。俺に会うまで、こんなエロい身体でいること隠しててくれてありがとうね」

 靴和の言葉に、夕一郎は喉にちくりと刺激を感じた。口をつぐんで飲み込むとき、古い傷が痛んだみたいに。

 けれど、無理にそれを飲み下したときには、夕一郎は火の点いた身体を靴和のシャツを背に敷いて横たわっていた。いや、横たわる、なんて言葉で説明出来るほど安らかなものではない。靴とジーンズの脱がされた下半身をぐいっと持ち上げられて、厚紙を畳むように身体を二つに曲げられて。木漏れ日を浴びた夕一郎の、靴和のためにだけ入口として在る場所を太陽から塞ぐのは靴和の頭と髪の輪郭だ。

 靴和はまるで火の玉だった。火に触れたなら、火傷するのが当然。しかし痛みを覚えることはなく、……夕一郎は自分の身体に火が回る実感があった。彼の熱い舌に舐められて、喘ぐ声が止まらなくなる、止めようという努力すら放棄する。しまいには、

「早く、……早くっ、靴和、早くっ」

 彼がまだ指を挿し入れたばかりなのに、自らの臀丘に指を食い込ませて開いて、強請る言葉さえ躊躇いなく口にしていた。

 火の海のような夏の山の底で、夕一郎は靴和という太陽に灼かれる。骨も筋肉も残らずとろとろに熔けた消し炭と化して、風が吹けばあとかたもなく消え去ってしまうはずだ。それなのに、この時間を大過なく終えたらその後には、みすぼらしく後悔する卑小な男の身体を、いずれ劣らず汗と土にまみれたブリーフとジーンズとTシャツに包んで嘆息することになる。どうしてあんなことしちゃったんだろう……、と。

 そこまで判っているのに、止まれない、止まりたくない。だって靴和が好きなんだもの、こどもみたいにどんなことだって、その感情が魔法のように全てを正当化すると信じてしまえる。いや、屋外で裸になっている夕一郎はほとんどこどものようなありさまかも知れない。

 そんな男に、靴和は言うのだ。

「結婚しようよ、俺たち」

 夕一郎の身体の中へ、体格に比して逞しい熱塊を収め切ったところで。

 突発的な言葉ではある。しかし、ずっと彼の中にあったに違いない言葉である。

「もっと、……俺はもっと、夕くんのこと幸せに出来る。ずっと、これから、夕くんと生きて行く。夕くんが、俺と一緒に生きる時間、全部、もう、誰にも指一本触らせないで、俺だけが、幸せにしていきたい」

 ……それって、今と何が変わるの?

 変わらない、変えさせないという約束に違いない。

 何も知らない者同士、行きずりの二人で出会っても、こんな具合にまともな恋愛が出来たのだ。セックスだけしてみたいと思っていただけなのに、あとはまあ、気が合うなら楽しくお喋り出来れば何も文句ないと思っていたばかりだったのに、いまや何処へ出しても恥ずかしいぐらいに熱い恋人同士になってしまった。

 こんなことが可能なのだ。

 であるならば、靴和が言ったことも決して夢では終わらない。超えなければいけない課題は山のようにあるけれど、叶えることは不可能ではない。

「ん」

 ごく小さく頷いた夕一郎の顔は半分、まだ膝に引っ掛かったブリーフに隠れていた。右足だけ靴和が抜いて、まだ少し自信なさげな目で夕一郎の目の奥を覗く。靴和はもう、その瞳に自分以外の誰かが映り、網膜に像を結ぶことにだって抵抗を感じてしまう男の目をしていた。

 だから、

「愛してる」

 掠れた声で夕一郎は言って、強いて微笑んで見せた。

「靴和、愛してる、……僕、靴和が大好きだ、……愛してる……」

 じわじわと靴和の両目に悦びが満ちて行くのを見た。それを最後まで、ゆっくりと観察していることは出来なかった。身体を穿ち貫く杭を、槌で幾度も幾度も奥へ打ち込まれて、腸が、膀胱が、肺が、心臓が、全部喉元までせり上がって来るようだ。声すら自由に出せないほどの衝撃は頭蓋骨の頂にまで至り、夕一郎のだらしなく伸びた髪先に振動となって土の上に伝う。

 どう考えても自分の身には不相応なほどに幸せなセックスを、夕一郎はこの日もまた、靴和とした。自分の顔にぶちまけるような格好になった射精は全体で通して見たときには半分をちょっと過ぎたぐらいの出来事。晩夏の太陽が二人の肌を隈なく存分に焼いて、服を着る習慣のない民族みたいな日焼けをしてひりつくのを持て余し、スマートフォンの灯りを頼りに暗い斜面を命からがら半ば滑り降りて帰ったことまで含めて、幸せな幸せな、三日前、二〇二一年九月末の、愛の記憶。

 しかし、しかし。

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