二〇二一年・甘く甘く熟した果実

 ……というような一夜から始まった生江夕一郎と靴和勇一郎は、法令上の意味ではなく感覚的な意味で同性の「パートナー」となってから、夕一郎が想像していた以上にこの二年はびゅんびゅん過ぎてしまった。とはいえ、それはなにも二人で過ごした時間が光のごとき幸福に照らされていたからというだけではない。

 金曜夜に限らず、いつでも雑踏していた富緑駅東口広場からも、人影が消えた。

 お陰で下着を穿かされた天使の全容は明らかになって、穿かされた白い下着がちょっとブリーフに見えるということまでも、多くの人々が知るところとなった。天使にとってはまったくもって大きなお世話、という余談であるが、ひとけのない東口広場、彼の右手で待ち合わせをする者の姿ももちろんなくて、その横顔は少し寂しげであった。

 人間たちが目に見えぬ脅威に果てぬ恐怖を味わうようになった日々。

 おおむね人というものは、環境が落ち着かないとき、時間の経過に鈍感になってしまうものなのだ。知っているつもりではあったけれど、夕一郎は実際に体感してみて、やはり少々しんどさを覚える。

 夕一郎が靴和とあのバーで出会ったのは二〇一九年の五月、そしていまは、二〇二一年の九月下旬。

 あくまで二人の個人的な変化に限って言えば、夕一郎は毎日オフィスに行く必要がなくなり、自宅パソコンの前での作業で給与を得ることになった。二〇二〇年のまだ寒い頃までは、毎週金曜日にどちらかの家に行って心置きなく遊ぶという習慣があったが、以降あまり大っぴらにそういうことがしがたい空気になってしまったので、付き合って一年足らずという時期に同棲を始めた。靴和はずっと靴屋で働いていて(「面接行ったら『靴を売るための名字だね』ってすぐ採用してくれたんだ」とのこと)さすがに自宅仕事に切り替えることは出来なかったが、去年から任されるようになった横浜の店は大きく動揺した世の中に在りながらも健闘している。そういう事情もあって、現在は湘南の海と江ノ島が見える街の、最寄駅からバスで十五分掛かるという立地ではあるけれど、そこそこの広さのマンションを借りて二人で暮らしている。

 慌ただしく不安定な世の中に対して申し訳なさを抱きそうになるぐらい、幸せな恋人同士としてのプロセスを踏んだ二人である。

 金曜の夜は幸せの夜明けで、夕一郎は日曜の夕方に幕を引くときには毎週悲しくて泣きそうになった。湘南の海に沈む夕陽は痛切な美しさだった。双方とも両親が健在で、しかもどちらも一人息子とあって、まだ法令上の「パートナー」になる話を現実的に進めることは出来ていないが、だからといって不足はない。ゲイバーで偶然知り合っただけ、あの夜限りだったかもしれない二人は、熟して甘味を増したカップルとなって暮らしている。世界を覆ったタンパク質の刺はなかなか全て抜け切ることはなさそうで、どうやら顔をしかめながらも同居していかなければならないようだし、そもそも世界というものはだいぶろくでもないものであるようだけれど、少なくとも夕一郎は靴和と一緒ならば幸せでいられる。

 二人のマンションが建っているのは、市名だけ聴くとリゾート地であるが、二人が住んでいるのはバス通りから一本逸れると夏の夜にはやかましいぐらいに虫の声がするばかりという谷戸で、マンションは斜面に寄り掛かるように建っている。夏には「夕くん! クワガタ! でかいクワガタいた!」「家の中に持ってこないで!」なんてやり取りもした、要するに田舎である。靴和の職場が横浜でドア・ツー・ドアで一時間かからないからここにしたのであって、都心であったらどれほど環境が魅力的であっても躊躇っていたところだ。

 とはいえ、志布志に生まれ志布志に育ち、大学は鹿児島市内にアパートを借りて通っていた靴和にとって、山と海が近く、おあつらえ向きに江ノ島が、噴煙こそ吐かないにせよ内海にぽっかり盛り上がっている光景は、とても好もしく見えるに違いない。

 先週末、買い物や所用以外の目的では久しぶりに二人で連れ立って出掛けた。

 よく晴れてまだまだ暑い日曜の午後に、水筒を持った靴和に「あっち探険してみようよ」と誘われたのだ。

 探検。

 靴和にはこういうこどもっぽいところがある。付き合ってすぐに判ったことであるが、散歩に「探険」という名前を付けて、思い赴くまま歩き回るのが彼は大好きなのだ。

 互いの家を行き来していた頃から、夕一郎は何度もそれに付き合った。都市の街中を縫うように流れる川が暗渠になって見えなくなるところまで辿ったこともある、その日は二十キロ近く歩いた。また、彼の家から徒歩で羽田空港に行ったこともある。車はびゅんびゅん通るのに歩行者は全く現れない心細いトンネルで、靴和の顔はまさしく童心に返ったように煌めいていた。あるいは、都心から一時間のメジャーな観光名所である草森山に登りに行こうと出掛けていったのに、草森山ではなく全然違う山に分け入って道に迷い、最終的には名も知らぬダム湖を二人で見るに至ったときにも、靴和は本当に本当に楽しそうだった。恋人と一緒にあちこち彷徨うことは、いつしか夕一郎にとってもセックスと並ぶぐらい楽しいことになっていた。

 この日は近場が目的地である。自分たちの谷戸の一番奥を目指して歩き始めた。三十分も歩かないうちに道がなくなってしまったが、「この先に湧き水があるっぽい」とスマートフォンの地図を拡大して靴和は言った。どうせ彼の足を止めることは出来ないのだと、夕一郎は覚悟を決めて彼と一緒に道なき道を歩いて雑木林に分け入り、ときに斜面をよじ登って、最終的に辿り着いた「湧き水」はとうの昔に枯れていた。つまるところそこは、何ともわびしい森中の一隅、しかももう少し上って行ったところに神社があって、そこを抜ければ公道に出られた。わざわざ危なっかしいところを抜けて来なくたってよかったのである。

 探検して、迷子になった結果がこれだ。

 しかし、これもまた夕一郎には楽しくて仕方のないことなのだった。だって、靴和がこんなに楽しそうなのだ。趣味は何ですかと問われて、一昨年までらなら「読書(とブリーフ)」と答えていたけれど、いまは「探検(というよりは迷子、とブリーフ)」と答えるだろう。誰に訊かれることもあるまいが……。

 一銭もかけていないのにこんなに楽しい思いが出来ることって、そうそうないのではなかろうか。

「夕くんって、すげーよなあ……。こんなのに付き合ってくれてんだもん……」

 靴和はしみじみと言った。帰りもこっちからになるんだろうな、という予想の通り、神社から枯れた湧き水まで戻ってきてレジャーシートを広げた上に並んで座り、木立の隙間からまだ存分に明るく青い海を眺めながら水筒の麦茶をシェアしているときに。

「そう……?」

 汗だくで、人間としての輪郭さえ失いそうでいたところ、冷たい麦茶で人心地ついて、夕一郎は笑った。

「靴和の方がすごいよ。僕は全然すごくない」

 同じ響きの名前であるもので、靴和はずっと夕一郎を「夕くん」と呼び、夕一郎はもう敬称略で「靴和」と呼ぶようになって久しい。

「んなことないよ。俺はさあ、めちゃめちゃガキだと思うもん……。普通だったらこんなの付き合ってくれないと思う。一回か二回で『やってられっか』って捨てられちゃっててもおかしくないよ」

「そうかなぁ……、捨てる理由になる?」

 二人は将来的にはもちろん「パートナー」になることを夢見ているけれど、法整備が本格的に進んでなお、「姓を統一すること」なんて余計なことまでほざきやがったらどうしよう、と夕一郎は思っている。自分の姓の面倒くささを靴和に背負わせたくはないので、出来上がるのは「クツワユウイチロウ」という同じ名前の男が二人。

 同様のケースは男女間のカップルにおいても起こりうる。例えば「カオル」「アキラ」「レン」……男女で同じ響き、下手をすると同じ文字の名前同士で結ばれてしまうことだってあるだろう。不便さは、そして周囲からの視線の煩わしさは想像に難くない。「牧真紀さん」とか「真弓真由美さん」とか「祭田茉莉さん」とか、幸せなはずの結婚に、しなくてもいい類の苦労が付き纏う。

「普通はね。普通だったら休みの日のデートっていうのはさ、なんか……、なんかこう、あるんだよ」

「あるのか」

「まあ……、俺もそんなのやったことないから多分なんだけど……、ほら、映画観たり遊園地行ったり、景色のいいレストランでごはん食べたり」

「ああ……、そういうのね……」

「俺がやってんのって、ガキみたいなことじゃん? でも俺はそれが楽しくてさ、それにこんなにいっぱい付き合ってくれんのは、夕くんだけだと思うから。だから夕くんはすげーなって」

「じゃあ、靴和も『すごいガキ』ってことだね。ただのガキだったら、ちゃんとお店やってられないだろうし」

 夕一郎の言葉に、靴和は照れた。

 夕一郎はそもそも、靴和のことを「ガキ」だなんてこれっぽっちも思っていないのだ。

 彼と恋人となって以降の時間、大半は世界と社会のヘルタースケルターが共にあった。はじめのうち夕一郎は不安で仕方なくて、特にテレワークが始まったばかりのころは、未来を思うたび暗澹たる気持ちになって、パソコンの前で気付けば何分もフリーズしているということも珍しくなかった。

 靴和は怖くないの、と彼が家にいるときに訊いたら、きょとんとした顔になって、少し考え込んで、「あんま怖くないなあ」と応じた。それからすぐに、「もちろんそれは、あれが『ない』とか『弱い』とか思ってるからってわけじゃなくて」と首を振った。

 全く怖くないかって言ったらそんなことない。まだまだ人いっぱい死ぬだろうし、会社とかもたくさん潰れるかも知れない。こういうときこそさ、助け合って生きなきゃいけないと思うのに、なんかみんな変にバラバラになっちゃってるし、偉い人たちは偉ぶってるだけで頼りになんないしさ。毎日「あー人間って弱いんだなあ」って思ってる。

 でも、俺はわりと平気。

 人間ってさ、たぶん、手の届く範囲のことしか出来ないんだ。俺がどんなに頑張ったってこの世からあの病気をなくすことは出来ない。

 でも、夕くんを守ることはなんとか出来ると思うんだよね。

 うちは夕くんが早いとこテレワークになってくれたから。少なくとも俺は、俺がちゃんと、罹んないように気ぃ付けてれば夕くんが感染する心配はほとんどしなくていいわけじゃん、夕くん自身はあんま家から出ないし、めちゃめちゃ気を付けてるし。俺が怖いのは夕くんが具合悪くなることだけだからさ。だから、俺は怖いウイルス、……今回のだけじゃなくて、普通の風邪とかインフルとか、他の、うつる系の病気とか含めてね、もらってこないように気を付けてればいい、それが夕くん守ることに繋がってる。夕くんとの未来を守ることにもなる。

 でもね。

 俺も夕くんもいつかは死ぬんだよ。俺も夕くんも、簡単に死んじゃうんだよ。

 俺は夕くんといるの幸せだからさ、すぐには死なないための努力は幾らだってしてみせるよ。最後に死ぬ時に、楽しかったなあって思えるように、夕くんといっぱいいっぱい思い出を作って行きたいし、そのための努力は惜しまないつもり。

 だから、大丈夫、大丈夫、大丈夫……。

 靴和の腕に抱かれてそう言われたとき、呆気ないほどに安心した夕一郎だった。

 あんなことを言える「ガキ」はそうそういないはずだ。透き通った目でぼんやりと海を眺めている靴和を見て、大人にならなければいけないのは、寧ろ歳上の僕の方だと夕一郎は思う。

 靴和はこんな男と出会ってくれた。夕一郎自身が厄介で手に負えないと思っているフェティシズムさえ、どうってことないと笑う彼は、少しずつ自分も同じように変態だと認めるようになった。いいや、誰だってみんな同じぐらいに変態なんだから、これはちっとも恥じることではないと。

 麦茶で潤いを取り戻した舌が、夕一郎の唇を舐めた。

「……靴和……?」

 問い返す声は、どう響いただろう。

 驚き、だったとして、プラスの、それともマイナスの?

 キスは毎日している。一日に最低四回、すなわち、おはよう、いってらっしゃい、おかえり、おやすみ。しかしそれらは唇を重ねるだけのものである。毎回熱を篭めてしていては、二人はいつまでもベッドから出られない、仕事にも行けない……、たちまち暮らしが立ち行かなくなってしまうことは想像に難くない。

 だから、靴和が舐めて来たことに驚く。彼は本来、TPOをわきまえた男であるから。

 ……この恋人の働いている靴屋というのは若者向けのスニーカーとしてはちょっと高級なものを取り揃えた店だ。夕一郎はスニーカーというものは普段着として履くものだと思い込んでいたのだが、最近はビジネスシーンで履くケースも珍しくないのだという。靴和の店にもビジネスパーソン向けスニーカーが取り揃えられていて、つまり、TPOをわきまえた店で店長をやっているのが、TPOをわきまえた男であるところの靴和勇一郎なのである。

「本気……?」

「……ダメ? ガキだからさぁ、『したい』って思っちゃうと我慢効かないんだよね」

 勝手なことを言っているという自覚はあるのだろうし、怒られたならスッと退こうと思っているに違いない。しかし、訊いてみるだけなら自由である。

 靴和と付き合うまで、自分がこんなに淫らであったことに夕一郎は気付いていなかった。彼から「しよう」とはっきり言葉にされなくても、指先や、抱擁の仕方、いまのように舌の誘い一つで、胸の鍋底に青い火が点くのを感じるようになって久しい。

 こういう夕一郎であることを、靴和はとっくに知っている。ほんの小さな悪戯のひと舐めだけでも、夕一郎の理性の基盤を溶かせるに違いないと踏んだからこそ、彼はそうすることを選んだのだろう。

 心のビー玉は既に傾斜の前、夕一郎の小指の先ほどの理性で押さえられているばかりだ。

「ここ、誰も来ないと思うんだよね。あっちの神社の道も結構草ボウボウだったじゃん?」

 靴和がスマートフォンを操作して、

「ほら、人いないわけだわ。さっきの道、林道だって。神社のすぐ先で行き止まり」

 地図を拡大して見せてくれた。林道というのが正式にどんなものを指すのか夕一郎は詳しくなかったが、あちこち探険してきた経験のある靴和はおおよそを把握しているらしい。

「俺、東京来てからも何度か林道入ったよ。……そうだ、この間の、夕くんと行ったダムも最後のとこは林道だった。人なんて滅多に通らないし、フツーに俺、そういうところでしちゃうよ」

「しちゃうって何を」

「……ほら、この間は夕くん『人来たら嫌だから我慢する』って言ってたけど、立ちション」

 そうだ。この子は平気で道端でおしっこしちゃえるんだな……、と驚かされたのだ。誰かに見られたらどうするんだ、なんて思いながらその背中を見ていた夕一郎は、その道を抜けた先にお世辞にも綺麗とは言えなかったけれど一応は屋根の付いた公衆トイレを見付けて駆け込んだ。あと十分我慢出来たかどうか判然としないぐらい切羽詰まった状況だったから、正直に言うと、彼の度胸が羨ましかった。

「だからね、……道には人来ない、神社にも来ない。もし仮にさ、来る人がいたとしても、俺たちがいまいる場所まで降りてくるようなことはしない。そんなことすんのは、俺たちみたいなものずきぐらいだよ」

「靴和は自分のこと『ものずき』って認めるんだ……」

「夕くんもだいぶものずきだよ。俺と付き合ってくれてんだもん」

 そうなのだろうか……。

「俺、したい。夕くん見るのいつでもどこでも嬉しいけどさ、こういうとこで、お日さまの下で見たらどんだけ興奮すんだろって」

 夕一郎の小指が震える。

 こんなことを言い出す男の、いったいどこがいいと思うのか。いいと思えてしまう自分が「ものずき」であることは、どうやら否定出来ないようだ。

「夕くん、大好き。めっちゃ好きだよ、ありがとうね」

 彼の手に導かれて、戸惑いと躊躇いに、必要以上にきょろきょろと周囲を見回しながら立ち上がった夕一郎には、ご褒美のキスが与えられた。口の中に残る麦茶のひんやりとした余韻と理性的な考えが靴和の舌に拭われてしまう。歯列の裏を上顎を舐める、小憎らしい恋人の望むままの自分になっていく。

 小指に押さえていたはずのビー玉の感覚がない。

 あっと思ったそのときには、もう坂道をどこまでもどこまでも転がって行ってしまった後だ。

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