二〇一九年・この日から恋人

 靴和の手にブリーフ一枚残して横たえられ、繰り返し繰り返し唇を重ねている間に、夕一郎の膨らみは遠慮がちな指先になぞられた。やがて文字通り愛着のある下着の生地の上から指の長さを感じさせる手のひらに包まれ、同時に唇が貧弱なものでしかない胸に当てられるうちに、夕一郎の肉に通っていた緊張の針金は熔けていく。靴和の唇がウエストゴムの際まで降りたとき、強張りは白い下着の内側にだけ集っていた。

 靴和は慎重だった。呼吸が時おり腹部に這い、熱っぽさと湿っぽさで夕一郎をくすぐったがらせる。彼の興奮は、まだベルトを緩めてもいないジーンズの中を含めて身体のあちこちに顕れているのに、それを押し止めて、あらゆる意味で初めての男に愛撫で奉仕することを決めているらしい。

「……いい?」

 夕一郎はもう、彼の顔を見て頷くことは出来なかった。靴和はとても礼儀正しく、両手でブリーフの窓を割り開いた。彼の手によって、何も誇れるところなどないのにこの時間の悦びを帯びて虚勢を張り脈打つものが丁寧に取り出されたとき、夕一郎はこの男に「いま」だけではなくて、この先のあらゆる時間を委ねてしまってもいいような気持ちになった。

 夕一郎が好んで穿くそうした下着には、丹念な構造の窓が備わっている。夕一郎はその仕事をかけがえのないものだと思っていた。ブランドものであれ街中の衣料品店で売られているものであれ、幼い男児の穿くものであれ、縫い合わせて縁を整えて重ねて開くよう仕上げて、かといって必要のないときに中のものが零れ出すこともない機構が備わっている。そこには作り手の思いやりが感じられる……。

 そんなことを言ったら、ボクサーブリーフにだって窓は備わっているのだけれど。

 でも、違うのだ、違うったら違う。すべからくフェティシズムに合理的な説明が出来るはずもないのだ。ただ、感覚の問題。重要なのは、その構造を尊重して、丁寧な指先で取り扱う男が、夕一郎と同じ感覚を有しているという事実である。

「めっちゃエロい……、夕くん、すっげー……、ピクピクしてる。そっかぁ……」

 ベッドから降りた靴和は、右手で夕一郎のぺニスを緩い力で握り支えて、左手の指先では夕一郎の足の付け根をなぞっている。

 夕一郎と靴和の下着の違いと言えば足の付け根の露出加減である。実質的にはそれしか差がないと言うことも出来るのに、夕一郎はブリーフに執着する。靴和は自身の身に着けたボクサーブリーフと夕一郎のブリーフとの違いを、心からいとおしんでいた。

「……夕くんのこと、このままいかせちゃっていい? 上手く出来るかわかんないけど、でも、頑張る、頑張ります、あと、……知りたい」

 何を。

 問うための時間は設けられなかった。触れられたときには堪えられていた声が、

「う……あぁ……っ」

 ここで溢れた。

 柔らかく濡れた靴和の口中に自分の焼けた砲身が納められた。どれぐらい……、想像して、きっとこれぐらい……、と量ってきたものよりも遥かに強い幸福に、驚き、戸惑い、あっけないほど容易く焦る。人間の舌というものの柔らかさと温かさ、自分の指で触れるときとはまるで違う、絡み付く悦び。

 舌は、夕一郎にもある。そして靴和からの悦びを受け取るペニスも、男同士なのだから当然。

 この大きさの悦びを、夕一郎もまた、靴和に齎すことが出来るということだ。

 まだシャワーを浴びていないということを、靴和は一切気にしていない様子だった。

「まっ……、靴和く、ん、待って……っ」

 聞く耳を持ってくれないだろうと想像してはいた。逆に、「待つ」と顔を上げられたらどうするつもりだったのか。もう一度同じことをして、こんどは僕が何を言ってもやめないで、なんて……、言えるほど厚顔無恥な自分でもないことは解っているのだから、夕一郎の声に靴和が一層勢い付いてくれたことは却ってよかったとさえ言える。

 夕一郎の身体は極めて勝手な欲を催した。この幸福が夢であったとしても悔いはないと思ったことは確かであるが、強烈な快感、……後頭部がベッドに重く沈み込みそうな眠気、端部に熱と強張りが集まるがゆえの涼やかな倦怠感を模したもの……、などが立て続けに身体に圧し掛かる。

 思考のキャパシティはとうにオーバーしていた。いとおしい肌触りの、安定感のある穿き心地の中に息を潜め、誰かに共感してもらえることへの期待はとうの昔に捨てて久しかったナイーヴさを靴和の舌が愛玩する。

 この子に、嫌われませんように。

 好き、なんて言葉を自分にくれたこの子に、これから先ずっと、嫌われることなんてありませんように。

 ただそのことばかりを願いながら、舌に導かれ夕一郎は達した。収まらぬ呼吸に、いよいよ襲ってきた本物の倦怠感に、膝から上を全てシーツに委ねた身体を動かすことも出来ない。ゆっくりと靴和が口から夕一郎を抜いた。それから枕元にボックスティッシュを見つけて、そうっと夕一郎を拭う。恐るおそる彼に視線を向けると、彼は少し照れたような笑みを浮かべて見せた。

「知りたかったんだ、……俺がさ、気持ちよくしてあげられたら、どんな顔見せてくれんだろうって……。嬉しいって思ってくれんのかな、幸せだって思ってくれんのかなって」

 優しい表情だと思った。同時に、とても謙虚な表情だと。

「だってさ、ほら、そしたら、俺のこと欲しいって思ってもらえるかもしれないじゃん。夕くんが気持ちよくなりたいなーって思ったときに、……独りでするんじゃなくて、俺呼んでもらえるかもしれないじゃん?」

 胸を圧されたように溜め息が零れた。

 もう、独りではいたくない。こういう時間を、この子と一緒に、数えるのも馬鹿らしくなるぐらいたくさん、たくさん、重ねて行きたい。

 明日は暇、なのだ。だから、明日も一緒にいられるのだ、上手くすればあさっても。普段の土日よりも、遥かに早いスピードで過ぎ去ってしまうに違いないけれど、光は何より速く駆け抜けるものである。この子と一緒にいて、キラキラ眩しい時間を一緒に過ごしていたら、僕はあっという間に歳をとってしまうんじゃないか……。

 幸せな時間はあっという間に過ぎる。不幸な時間が永遠かと思うほどに長いことを夕一郎は知っていたから、まだ幸せの入り口に立ったばかりであっても、この先の生の短いことにも、同じほど詳しいつもりだった。

「靴和くん」

 声が掠れて濡れた。咳払いで誤魔化して、身を起こす。

「靴和くんのも……、見せて」

 勇気なんて、ささやかなものしか備えていない。それでも、思い切り振り絞って、夕一郎は言った。

「……えー……、うん」

 立ち上がった彼が漆黒のボクサーブリーフの中から取り出した熱の硬さと大きさに、夕一郎は再び言葉を失った。この子はタチということでいいのだろうな、だとしたら、僕はいつか自分の身体でこれを受け容れなければいけないのだ。

 僕のこの姿に、硬く熱くなってくれる、この子を。

 まだ夕一郎は、自分の指だって自分の身体に挿入したことはなかった。未来を忌避したいと思ったのではない。責任の重さにたじろいだだけだ。

 いや、もう少し正確に言うならば、……そのサイズに。

「お、俺のさ、その……、無駄にでかいんだ。ガキの頃からわりと、からかわれたりして……」

 彼にとってはこれがコンプレックスだったらしい。夕一郎はベッドから降りて、雄々しさを通り越して神々しくすら映るそれの前にひざまずいた。

 どうしよう、と思った瞬間があったことを、夕一郎は認める。同性の性器を口に含む、舌で舐める、ということを、……いざそういうシーンに身を置いたとして、僕に出来るだろうか? 嫌だと思わないだろうか、吐き気を催したり、恐怖を思い起こして心が身体が、到底セックスなど出来る状況ではなくなってしまったりしないだろうか……?

 夕一郎はずっとそうした不安を抱いてきた。自らがゲイであることに疑いを抱いたことはなかったが、自分の下着への執着が根拠となっているもので、臭いであるとか味であるとかには人より敏感だという自覚もあった。幸いにしてこれまで、靴和の纏うそれらに嫌悪感を覚える瞬間はなかったどころか、どれも、夕一郎には好ましく思うものばかりであったが。

 強い緊張を催しながら、顔を寄せた。

 この子と、明日も一緒にいたい、出来ればあさっても、しあさって……、は月曜だからさすがに無理だろうけど、次の金曜を待ち遠しく思って木曜日までを過ごすのだろう。どんな食べものが好きなの? 休みの日は何をして過ごしてる? 仕事は何をしてるの? 早口言葉みたいな君の地元はどんな街だったんだろう、君はどんな十代を過ごしてきたんだろう。

 これから君は、どんなふうになっていくんだろう?

「ゆっ……、くん……」

 喉に宿る過去が抗った。

 それを未来で押し潰すつもりで、深く、苦しいほど奥へと導いて、靴和を包む。

 苦しいのは、あくまで物理的な話。夕一郎が口中に収める前から既に先端を濡らしていたそれに伴うものは、夕一郎の苦しみの原因には少しもならなかった。

「夕くん……、や、ばいって、そんなしたら、苦しいでしょ……」

 夕一郎はもう、一つしか歳の違わない靴和が可愛くて可愛くて仕方がなくなってしまった。この子をいいなと思うのは、顔の形ではない、大いに誇るべきその男の性の屈強さでもない、ただ自分を好きになってくれたことだ、自分に好かれたいと願ってくれたことだ。

「……平気だよ。ちっとも苦しくない」

 ゆっくりと顔を上げて笑って見せるとき、目尻に涙が潰れた。

 きっと全ての恋人たちが思うようなことを、いま思っている。であるならば、夕一郎と靴和は、もう立派に凡百な恋人同士である。

「上手く出来るか、あんまり自信ないけど、でも、頑張ってみる」

 嫌われたくない、ではなくて、もっと好きだと思ってもらえるように。この人なしじゃ生きていけないというぐらい、いつでも欲しがってもらえるように。

「僕は、……僕も、……靴和くんが好きだ。今日、君に会えてよかった」

 恥ずかしいことを口走ってしまった。これ以上口を自由にしていたら、いったい何を言い出すか判ったものではない。

「ゆ」

 だから、もう、溢れないように塞いでしまうに限る。

「……ぅくん、……やっべえ……、なに、もう……、何で、可愛すぎんだろ……!」

 上手だったはずもない。せいぜい、歯を立てないように気を遣うのが精一杯、口の中に滲んでいた潮の量が増えても嫌と思うどころか、もはやこれだっていとおしい反応だと呑み込むことが出来た。あっという間に尽き果ててしまう人生の時間を、夕一郎は靴和に全部塗り潰してもらいたく思った。

 過去を消すことが出来ないのならば、せめて未来は。

 低く控えめな呻きが耳に届いた。裏腹に、弾けるような脈動が舌と上顎を叩いた。三度目までは数えていたけれど、そこから先は無理だった。自分が靴和の口で達したときにも大概な無造作な解き放ち方だったという自覚があって、反省もしているのだが、夕一郎の喉奥へ注がれるものの量の多さ、密度……。

 ちっとも嫌なものではなかった。

 当たり前のことだとすぐに思う。

 この子はもう、僕の恋人だからだ。

「……夕くん……」

 申し訳なさそうな声が降りてきた。誰だって自分の精液を「きれいなもの」だなんて思わない。けれど、夕一郎は喜んでもらいたいと思った、嬉しがってもらいたいと、そして、……出来れば褒めてもらいたいとも。だってほら、僕は全部飲み込むことが出来た。男の腺液を、男の精液を、この喉に受け止めて、こんなに平気な顔をしている。

「……やべえ……、夕くん、やっべえ、すっげー……、ああ、どうしよう俺、なんかばかな言葉しか出てこなくなってる、夕くんほんとに初めてなん……? こんな気持ちいいなんて思わなかった、こんな嬉しいなんて……、ありがとう……、ありがとう、ありがとう、めっちゃ気持ちよかった……」

 膝とか腰とかあちこち軋む音を立てて座った靴和に抱き締められたから、夕一郎は彼がいま言ったことを否定、もしくは訂正することは出来なかった。どうしようか、迷っている間に、靴和の精液を身体に注がれたことによって萎える暇もなく再び硬く、次の解放を願っている場所を握り込まれて、言葉は眠りに就く。

「夕くんは……、ここも可愛い感じだよね、俺と比べたら、ずっと。……あ、怒った……?」

 首を振ることで安易なぐらいに安堵する男と、恋人の時間が始まった。

「ん、よかった……。めちゃめちゃ可愛い、ブリーフの、窓からさ、びんびんになって、濡れてんの、超可愛くって、好き……」

 ひょっとしたらこの日、夕一郎は自分のフェティシズムを伝染させてしまったかもしれない。夕一郎が毎週金曜日に新しいブリーフを穿いて会うようになったことを、靴和はとてもとても喜んでくれたし、ときには彼が「プレゼント」と称して買ってくることもあった。だから、「変なの好きにならせちゃってごめんね」なんて謝る必要は、たぶんないのだろう。

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