二〇一九年・期待しつつも想定外

 ホームに降りて電車に乗って一駅。改札を出て高速道路下の街道を渡って、寝静まった住宅街に入るまで全く言葉を交わさずに来た。そこから先はヒソヒソ声で、「夕くんこういうの、いつも?」「まさか。初めてだよ……」「俺も初めて。……ああどうしようめちゃめちゃ緊張してきた……。あのさ、着いたらトイレ貸してもらってもいい?」「どうぞ」なんて、胸の中のむず痒さを言葉にして遣り取りし合う。鍵を開けるなり「うわあこの部屋臭いなあ!」なんて言われたら泣き出してしまうかもしれないなんて懸念もあったけれど、

「トイレそこ」

「お邪魔します!」

 靴和は黄色いスニーカーを脱ぐなり飛び込んで用を足し始めたから、余裕の有無は置くとしてそんなに臭くはなかったのだろう。

「はー……、トイレありがとう」

 人心地着いた彼が出てくるまでの短い時間で、カーテンレールに干しっぱなしだった下着を慌てて押し入れに隠し、部屋を見回す。フローリングの部屋には仕事に使うパソコンを置いたデスクとベッドと、朝と夜の食事を摂る卓袱台、……他、雑誌が何冊か転がっている。本棚は小説ばかりで、見られて困るものはさほどない。それほど広くはないのだが、独りで住んでいる分には困ることもない、という部屋。九万円程度が相場のこのあたりで、駅からやや遠い分だけ割引してもらっている、といった感じの七階建てマンションの四階である。

「あのね夕くん、……俺こういうの初めてなんだ。ああいうお店行くのも初めてだったし、カミングアウトも誰にもしたことない。だからこれまでその、そういう相手、いたことなくって」

 部屋の入り口に突っ立ったまま、弁解めいた口調で靴和は言った。夕一郎は床に座って長身の相手を見上げながら頷くので、ただ顎を一度上下させるような格好にしかならない。

「僕も、こういうのは初めてで、どうしたらいいかわからない……、でも、少なくとも暇ではない。こういう時って、どうしたらいいのかな、どうするのが本当なのかな……。あ、何か飲む? お茶か紅茶かコーヒーか」

「でもあんまお茶とか飲むと眠れなくなる……」

「寝るの」

 訊いてしまってから、真っ赤になった。そんな退屈なこと言わないでよ、という正直過ぎる思いが、うっかり顔を覗かせてしまったのだ。

 寝る場所といえばシングルベッドが一つあるぎりの部屋で、靴和は目を見開いたまましばし固まった。やがて深呼吸を一つしてから、ぎしぎしとあちこちの関節を鳴らしながらフローリングの上にジーンズの膝を付く。

「……あの。俺、もしそういう相手が出来たらしてみたいっていうか、出来たらいいなあって思ってたことがあって」

 かさついた声は、夕一郎にもより強い緊張を催させた。

「……あの、……あのね、夕くんちょうど、身体、俺よりちょっとちっちゃくて、だから、……ぴったり、かなって……。あの、ごめん、夕くん、……もしよかったら、俺と一緒に立って」

「はい、……立って」

「そんで……、えー、……抱き締めていい?」

「……いいよ」

 と言ったのに、まだ靴和は躊躇っていた。両手を開いて、恐る恐るの感じに夕一郎の身体の両脇を、……包む手前でまだ躊躇う。二人の胸と胸の間にある数センチがいつゼロになるのか待つ時間は、夕一郎にとって少しも退屈ではなかった。双方とも、常ならず高鳴っている鼓動、伴って増えている呼吸に膨らみ萎む胸が、シャツの生地が、いつ触れ合ってもおかしくないのに、じりじりとした時間を経て、

「あっ……」

 靴和が声を上げた。

「ダメだ、ごめんダメだこれ、俺、フツーにダメだ、俺めっちゃ汗臭い」

 こういう男なのだな、夕一郎は学んでいく。

 これから先も一分ごとに新しいことを知っていくし、この男に知られていく。……例えば夕一郎は「汗臭い」という靴和のシャツのにおいが、自分にとってちっとも嫌なものではないことを知ったし、これだけ近い距離でも一日の終わりに自分が纏うにおいを嫌がられてはいないのだということも知った。

「っあ、ゆっ、くっ……、マ……?」

 見た目より少し分厚く逞しく思える背中に両手を回したところで、靴和の両腕がしっかりと抱き締めて来た。

 夕一郎の心臓は彼の腹で鳴る。シャツの生地を二枚、易々と超えて、聴こえてしまう。けれの夕一郎は同じほどの強さで、速さで、響く靴和の鼓動を顔のすぐ近くで聴いていた。

「わ……、わあ……、やっべえ……!」

 こんなことを「したい」と思っていたのか。清純な子なんだな、可愛いこと考えるんだな……。けれど彼の願いを叶えてやるとき、夕一郎も願いの叶ったような気になる。

 お互いに、きっと夥しい量の秘密をまだ隠している。全部を披露し合うためにどれぐらい時間が掛かるだろう? そのプロセスでお互いに嫌気が差してしまわないとも限らない。

 けれど、いまぐらいは砂糖をまぶした時間をちょっと炙って、焦げたところをそっと舐めるぐらいのことはしてもいいのではないか。

 靴和の両腕に更なる力が籠った。夕一郎も夕一郎で初めてであるから、抱き締め返す力加減が判らない。自分の腕が喜んでいることだけは判った。だとしたら、……同じかそれ以上、靴和の腕を喜ばせることも出来ているかも知れない。

 ちょっとの暑苦しさを、新鮮だと思っていられたのはそれほど長い時間ではなかった。

 靴和は力が強い、ということも知った。

「きゅっ……、ちょ、ちょっと、ちょっと待って!」

 背中を手のひらでタップする。我に返った靴和が慌てて腕をほどいた。

「ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい、なんか、めちゃめちゃ嬉しくって……」

 言葉に嘘のない証拠か、声は震え、双眸は潤んでいた。

「いや……、だいじょぶ……、ちょっとこう、中身出そうになったけど……」

 言いながら、夕一郎は頬にくすぐったさを感じた。笑うとそれが解消する。初々しい靴和を評するとき、「可愛い」という言葉を選ぶことは間違っていないはずだ。こんな程度のことでも嬉しさを迸らせてしまう純情さはきっと貴重だと、夕一郎は信じることに決める。

「ごめんねえ……」

「大丈夫。嬉しかったしさ、……緊張したけど、僕もこういうの、したいってずっと思ってた。でも……」

「でも?」

「……靴和くんの、『こういうの』の相手が僕でいいのかなとは思う。……だって僕は、その……」

 ベッドに座った夕一郎の足元に、靴和はぺたんと正座した。

「第一印象から決めてました」

 キリッとした顔で靴和は言った。あんまりに真っ直ぐな目をしているものだから、夕一郎は舌に乗せていた言葉を押し留めざるをえなくなる。

「夕くんめちゃめちゃ好みで、……あの、ほんとはね、本当は、店入って、本読んでる夕くん見て、うおマジかって思って、だから、もう、あのね、ごめん俺、嘘ついてた。あの子可愛いって思って、もう、ぜってー声掛けないと後悔すると思って、でも踏ん切り付かんくて、めっちゃ迷って、迷ってる間に帰っちゃったらどうしようって思って、ビール飲んで、何回も深呼吸してさ、勢い付けて声掛けに行ったの!」

 靴和は靴和で自分の口にした言葉を今更にように恥じて「やべえ俺馬鹿みたいだ……」と独語しながら縮こまっている。そこまでがワンセットの、まだ未経験な男の正直な感情の吐露だった。

 夕一郎には靴和の言葉をすぐにきちんと飲み込むことが出来なかった。……僕のことが好み? 僕のことを「可愛い」って言った? 同性の言うそんな台詞を、素直にごっくんと呑み込める男なんているだろうか? 仮令いつか誰かにそう言われてみたいと、夢を見て過ごしていたとしても。

「……じゃあ、さっきの、ぎゅーってするの、もっとしたい……?」

 こく、と靴和が小さく、小さく、頷いた。

「ええと、つまり……、靴和くんはこれぐらいの身長で、こういう髪型の、あんまりしっかりしてない感じの……、が好きなのかな……」

 また微かに頷いてから、彼は首を振る。

「そうだった。そうだったっていうか、いまもそう……。なんだけど、でも、そうじゃなくなってくかも知れない」

 靴和は、ここでまた真っ直ぐに夕一郎を見上げた。目付きは鋭い、それでいて人に好かれそうな顔だなと思うようになっていた。可愛げがある、なんて言ったら、傷付けてしまうだろうか?

「もしも、……もしもね、夕くんが髪切ったり、ちょっとぽっちゃりしたりしても、俺は夕くんのことめちゃめちゃ好みのままでいると思うし、っていうか、いろんな感じの夕くんのこと見られたら、それもなんか嬉しいっていうか……」

 夕一郎の手元には、ちくたくちくたく、巨大なバルーンがあった。いつからだろう? ちくたくちくたく、よりによってハート型の、しかもピンク色の。ちくたくちくたく、この音は何だろう? どういう顔をしていればいいのか、夕一郎にはまだ判らなかった。

 ちくたくちくたく。

「だから、その、……つまり、……つまり……」

 ちくたくちくたく。

「マジで、夕くん俺と付き合ってくれたりとかしない……?」

 手の中で、バルーンが破裂した。

 渦を巻いたリボンであるとか、キラキラの紙吹雪であるとかが、部屋中に飛び散る。掃除が大変だ、なんて所帯染みた考えもいまは浮かばず、とびっきりのサプライズを前に、恥ずかしいやら困るやら、現実味を持って捉えられる感情はそういうものばかり。常軌を逸した膨大さで夕一郎を覆うのは、圧倒的な嬉しさだ。

 だって、信じられる? 先週も先々週もこの時間、次は何を読もう……、って読書家たちのブログを読み歩いていたのだ。そうして「来週はこれにしよう」と思った本が、もう何冊も溜まっている。でもまあ、週に一冊ペースで読んでいけばあっという間だよね、すぐにまた暇になっちゃうなあ……。

 夕一郎がそれらの本を読了する日はいつになるのか一瞬で判らなくなってしまった。

「まだ……」

 耳の下が腫れぼったく疼いている。

「まだ、何も知らない。僕のことを、……僕も靴和くんのこと知らない……」

「そういうのは、ちょっとずつ、知っていけばよくない? 少しずつ、……でも……、いや何が『でも』なのかわかんないんだけど、でも……、そしたら、俺もっと夕くんのこと好きになっちゃうかもしれない」

 さっきの、こころみのハグに感応した心を思えば、これからこの男のする何もかもに嬉しい気持ちになってしまうのではないかと考えるのは、ある程度妥当なことだ。

 生江夕一郎は靴和勇一郎にとって最上の男ではないかもしれない、……少なくとも、その可能性を否定することは出来ない。この世に星の数ほどいる人間の中で、たまたま出会っただけの相手に勢い込んで告白するなんて、あんまりにも安易で短絡的な行動だ。まだ見ぬ誰かとの幸せな出逢いを、長らく根気強く執念深く、しかし情けないほど消極的に願ってきた夕一郎にとっても、靴和が一目見て心惹かれて目が剥がれなくなるほどの美しさを備えているわけではなく、来週にはもっと魅力的な男に出逢うことだってあるかもしれない。

 本当に僕でいいのか、という問いは、本当にこいつでいいのかという自問と表裏一体のものだ。あらゆる可能性を全て切り捨てて、このたった一人に人生をベットしてしまっていいのか。

 しかし、夕一郎は転げ落ちる気になっていた。

 ずっとずっとジェットコースターの列に並んでいて、やっと順番が来たのだ。

 酷い目に遭うかもしれない。上げられて落とされて、ぐるんぐるん振り回されて怖い思いをして悲鳴を上げて、……もうやめてもう嫌だって叫んでも止めてもらえなくて、降りるときには「もうこりごりだ」って泣くことになるのかもしれなくとも。

 この夜のことを、いつか思い出す。この胸の中で蜂蜜が沸騰して、粘っこい泡が膨らんで弾けるたびにバニラの馨が鼻の奥にこびり付いて噎せ返るほどの、執拗なほどの多幸感を。

 自分が物語の主人公になったみたいな。自分の人生が、自分のものであったことを思い出した。中学二年ぐらいからなかったことだ。

「……夕くん、は、……俺、こうやって、呼んでくれたの、……そういう、の、するの、悪くないって思ってくれた……、から? ……そういう解釈で、合ってる……?」

 確かな情を湛えた靴和の視線の湿度が、肺に重く圧し掛かる。多少のプレッシャーも混じっているけれど。

 そういうつもりだった。靴和が初めてで、自分も実質初めてなのだから、手探りであっても恥ずかしくないだろうと。もし仮に、いつか違う相手とこうした時間を過ごす日が来たとしても「初めてじゃない」というのは精神的な余裕に繋がるはずで、お互いにとって、とてもいいだろう、と。

 一番気楽なのは、同じ相手と繰り返し時間を重ねていくことだ。まだ何も判らない者同士ならなおのこと、そういうのは嫌いだな、いまのは嬉しかった……、自分のことを相手のことを、判り合い思い遣り合いながら時間を重ねて行くことだって出来るだろう。

「……歯、磨いていい……? あ……、ええと、ごめん、来る途中コンビニあったよね、俺、歯ブラシ買ってくる」

「いい」

 立ち上がり掛けた靴和の前にベッドから滑り降りて、彼のシャツの裾を握った。

「僕の、買い置きがあるから。色同じやつだけど、輪ゴムかなんかで、それか、マジックとかで印付けておけばいい、……それを靴和くんの歯ブラシってことにすればいい」

 そして、来週も再来週も、その歯ブラシを使えばいい。

 毎日使う自分のものよりもずっと緩やかなスピードでだめになっていく歯ブラシを新しいものに替えるときには、やっぱり同じ色の同じ銘柄にするだろうか? それとも、判りやすくするために色を変えるだろうか? そんな未来のことを考えながらも、まるごと言葉に出来るほど勇敢な夕一郎ではなかった。しかし靴和は言葉にしなかったところまで勝手に読み取ってしまったのだろう。言葉にならない声を、奥歯にぎゅっと噛み締めるのが見えた。

「……やっべえ……」

 台所で並んで歯を磨きながら、そういう類の呟きは繰り返し靴和の口から漏れた。一度は、白い泡が零れそうになった。言葉に出すことをしているかしていないかという差だけで、どうしよう、やばい、……これはやばい、夕一郎もじっとその場に立っていることが難しくて、冷蔵庫と洗濯機と、洗剤柔軟剤やらトイレットペーパーの買い置きやらその他生活用品がしまわれたスチールラックのせいで狭い台所をうろうろしている。こちらも口から泡を溢しそうになった。

 嘘みたいに二本並んで歯磨きコップ代わりのマグカップに収まった同じメーカーの、同じ色の歯ブラシ。こんな景色が自分の部屋に存在することを、まだ夕一郎は信じられない。しかし、ほっぺたを抓る気にはならなかった。これが夢だとして、万が一にも醒めてしまっては困るから。

 しっかりと歯を磨いていたのに、口を濯ぎ終えても、こういうときに言うのに相応しい台詞は夕一郎の中に湧いてこなかった。どうやらそれは靴和も同じであるらしい。遠慮がちに視線の矛先を、何度か当てては逸らし、また当てて。

 どちらも頬がかたくなっている、それでも。

 すう、とどちらからともなく深呼吸をしたのを境に、呼吸の数を減らして、……さっきよりももっと熱くなった腕に抱き締められながら、遠慮がちに背伸びを試みた末に、自分たちだけは清純であると信じる権利を有したつもりで唇を重ねる。耳の下がまたずくんと脈打った。靴和の同じ場所が同じ音を立てるのを聴いた。これだけ近ければどんな音だって聴こえる。恐る恐る片目を開けたら、靴和の瞳にじっと見つめられていたことが判って、慌てて閉じる。微かに紅いような、色素の薄い瞳だった。

「……やっべえ……」

 語彙を喪ってしまったのか、靴和はさっきからそればっかり言っている。もっとも、言葉そのものとはぐれてしまった夕一郎にそれを嗤うことは出来ない。けれど、これは言っておいた方がいいのかもしれないと思った。……いや、もっと、本当は言っておかなければいけないことはたくさんあると思うのだけれど、どれ一つとして出てこないので、あまり相応しくないのかも知れなくとも、喫緊の情報提示義務。

「……あの、……靴和くんは僕の、……パンツとか見ても、笑わない……?」

 自分の心を守ることを優先しなければいけないと思った。

「パンツ?」

 靴和が声を跳ねさせる。

 家に靴和を、靴和でなくとも誰かを招くことを考えたとき、局地的には驚くほど具体的なプランを有していた夕一郎だった。すなわち、こういうのはまずシャワーを浴びてからだということで。仮に、「一緒に浴びよう」と言われたとしても、「先に入ってて。タオルとか支度するから」という口実を夕一郎は用意することが出来た。この男の見ている前でジーンズを脱ぐことは、それで避けられる。裸よりもセンシティヴな話をするのは、肌を重ねてからでもきっと間に合うはずだと思っていた。

 しかし所詮は机上の空論。こんなに余裕がないものだとは思っていなかった。

「なんか変わったの穿いてるとか……?」

 答えに窮する。答えることに臆していると言った方がいいか。

「……俺、いま思い出したんだけど、パンツ、穴開いてる。右のケツんとこ、……その、もう何年もずっと穿いてるやつで、でも、穿き心地よくって、……今日こんなことなるなんて思ってなかったし、どーせダメだろぐらいの気持ちで行ったから……」

 夕一郎も似たようなものだ。そもそも、どうせズボンを脱ぐような状況にはならないだろう……、と思って暢気に今日このときを迎えている。

「嗤わない……?」

「……えー……、たぶん……、うん……。夕くんなら女の子のパンツ穿いてたとしてもたぶん平気だよ」

 靴和はちょっと微笑んだ。

 その発想はなかった。そうか、そういうのもあるのか……。どちらがマシという話ではない。どんなベクトルに基づいてどんなパンツ穿こうが自由である。

「……靴和くんは、ボクサー?」

「うん、黒の、つまんないボクサー。タンスの中そういうのばっか。……あーでも、ビキニは持ってる。でもあれはもうちょっとガタイよくないとダメなんだなって思って、あんま穿かない。あと、……あの、ちょっと恥ずかしいんだけど、あと、まだ持ってないんだけど……、ブリーフちょっといいなって思ってる。エロいなって……」

 彼は腕の中で夕一郎の体温が上がったことに気付いただろうか?

「……うん」

「でも、俺にはあんま似合わないかなあって思って……、だからまだ買ってないんだけど、見るのは好きで、わりとこう、オカズいつもそれ……」

「うん……」

 靴和の視線が夕一郎の頬を、耳を、そこに浮かび上がった色をなぞった。彼は少し身を乗り出して、夕一郎の男としては比較的細い腰の線を辿って、ジーンズを少しばかり盛り上げる曲線を描いている臀部に至らしめた。

 輪郭を、彼の指先が把握する。

「……そうなの?」

 既にして羞恥心で熱くなっている肌の温度に、靴和の胸が追い付いた。

「え。……マジで? ほんとに? 夕くんそうなの?」

 これは、とてもくだらないこと、ではあるけれど。

 同世代の男が穿く下着に、うっすらとした興味を抱いている自分に気付いたのは、小学生の頃だった。

 当初それを、マイナス寄りの興味であると信じ込んでいた夕一郎だった。夕一郎は当時クラスで独りだけ、皆と違う形の下着を穿いていたのだ。からかわれるのが嫌で親にせがんで皆と同じボクサーブリーフを買ってもらったときには、馬鹿みたいに安心したし、それだけで収まる話だと思っていた。しかるに制服のようなボクサーブリーフを着用して中学になり、高校になり、自分の恋愛対象が男なのだと気付いた大学生の時分に、夕一郎は自分の性感情の原点とも呼べるものがどこにあるのか気付いた。

 もうずいぶん前から時代遅れで、しばしば戯画化され、それでもなお穿くことを選ぶのだとすればフェティシズムを充足させる目的であることを隠せない下着。

 男の裸が見たい、と夜遅くにインターネットを彷徨していたときに、ブリーフを着用したモデルの画像に行き当たった。夕一郎が見たのは下着通販サイトであり(いわゆるエロサイトに踏み込むのは、なんだかリスキーに思われて出来なかったのだ)そこで商品のモデルとしていわゆるスジ筋の外国人男性がブリーフを穿いている姿を目の当たりにして、それまでに感じたことのない興奮を覚えたのである。

 これだったのか、と目から鱗が落ちる気持ちだった。

 ブリーフが好きだな、と思う自分と、夕一郎は真剣に向き合うこととなった。何がいいのだろう、と理論で考えるよりもまず、「僕はブリーフが好き」という感情を、真っ直ぐに向き合うこと。具体的なことはそれから先、丹念にもう一人の自分と確認し合うばかりである。フォルムがいい、穿くことで男性らしい膨らみがボクサーブリーフ以上に、トランクスなんかとは比べ物にならないほど明瞭になるセクシーさがいい。後ろから見た時にも、臀部の肉付き、僅かな動きで生じる表情とでも呼ぶべきものは、なんとも魅力的ではないか。清潔感、……正確に言えば、清潔に保つための意識の高さもいい。夕一郎が憧れを抱いたのは生地に柄もない純白のブリーフであったが、あれを朝から穿いて少しの汚れも付けずに済ませるためには相当の努力を要するはずである。見た目にはそうは見えない色柄物のボクサーブリーフと比べれば遥かに高いレベルの衛生観念を持ち合わせる者でなかりせば、白ブリーフを身に着ける権利を有しない……、とまで原理主義的なことを言うつもりもなかったが、ブリーフの白さは潔癖さの表れと言うことも出来るだろう。

 かように鬱陶しい情熱を胸の裡に育てながらも、店頭で買う度胸はない夕一郎だった。ただの下着一枚どこでだって買えという話ではあるが、なんだか店員からフェティシズムを見透かされてしまいそうな気がして。インターネットが発達した時代に生まれて来てよかったとつくづく思ったが、まだインターネットがない頃には大人の男も皆ブリーフを穿いていたんだよな、と思い至ってすぐに考えを改めた。

 通販で買い求めるためにマウスをクリックするときの緊張、家に届いた段ボールを開けたときの高揚、……そしていよいよそれを穿いた夜に覚えた背徳と、幾度果てようとも消えない火の焦熱。

 ビキニやTバック、ワンショルダータイプのものや、褌、更にはペニスを収納する部分が筒状になっているものまで、世の中には男性向けのセクシュアルなランジェリーも数多くあるりしかしそのときの夕一郎は自分が極めて卑猥な下着を纏っていると信じて疑わなかった。

 引き出しの中の下着が全部その形のものに統一されるまで、一ヶ月と掛からなかった。今となってはボクサーブリーフを穿くことも思い付かない。

 しかし、やはり恥ずかしい。

 誰に嗤われたこともない。そもそも気付かれたこともないし、もちろん自白する意味もないことだから、パーソナルな領域の羞恥心を保持し続けた夕一郎である。自分以外に「いいなって思ってる」男はそう多くないと思っていたし、あの店に通うことで出会す期待を抱いていたわけでもなかった。一度宿木橋のイベントスペースでブリーフがドレスコードの催しが行われるという告知ポスターを目にしたことがあったが、もちろんそんな場に臨む度胸が備わっているはずもなく、心の中でじたばたしながら見なかった振りをした夕一郎だった。

 ジーンズ越しに秘めた心の輪郭を、靴和が愛しげになぞっている。

 背中を丸めた靴和の唇に、唇を吸われた。答える言葉も、彼に吸い上げられてしまった。

「……見てもいい……?」

 恥ずかしいから嫌だ、と言うべきなのか、それともただ首肯すればいいのか。判じかねているうちに、靴和はフローリングの上にひざまずいて、夕一郎のベルトに手を掛けていた。

 ここで彼は少し時間を使う。生まれてこのかた自分以外の誰かのベルトを外そうと試みるのは、夕一郎もまだしたことがないように、彼にとってもこれが初めてのことなのだ。制止するための時間はそれだけ設けられていたのに、結局何も言えず、自分のシャツの腹のあたりを握っているだけで過ぎてしまった。ボタンが外されたところでもう、靴和の目にはウエストゴムが見えたはずだ。シンボルカラーである紺と赤が上下に細く走っているのみならず、ゴシックの長体で「Philippe Deauville」とみっしり書き連ねられているので、ある程度ファッションに詳しい者ならばこれがそこらの衣料品店の紳士肌着コーナーで買ったものではないことには気付けるだろう。持っているものの中では一番高級な一枚を、偶然とはいえ今夜着用していたことは幸運だった。

 高級である、とはいえ、ブリーフである。アイデンティティという表現をしてもよかろう窓もきちんと設けられているし、フォルムもビキニタイプではない。あくまでブリーフとしての矩の中に収まったものである。

「わ……」

 夕一郎のジーンズを太腿まで下げたところで、靴和の唇から声が漏れた。汚れていただろうか、と反射的に、視線を下ろしたら、無邪気なこどもの煌めきか方をしている靴和の双眸とぶつかってしまった。

「夕くん……、めっちゃいい……、可愛いね、これ……、めっちゃエロい、似合ってる……、っつーか、ごめん、『可愛い』って、言っていい……? 嫌な気になんない……?」

 安易に頷いてしまってから、それだと僕が「可愛い」って言われたがっているみたいに思われるだろうか? ズボンの中に隠しておくべき自意識がまたちょっと顔を出し掛けた。

 靴和はたちまち安心した顔になって、

「可愛い!」

 そう言いたくて言いたくて仕方がなかったのだと、夕一郎に教えてくれた。

「夕くん、めっちゃ可愛いし……、あの、店でね、見たとき、思ったんだ、『わー何だあの可愛い生きもの』って……、俺わりと、可愛い……、前髪系って言うのか、そういう子のほうがいいなって思ってて……」

 運命、という幼稚な言葉こそ使わないよう努めているらしいけれど、靴和の目は明らかにそれを見ていた。

「あそこ……、あそこの店は、いかにもな人ばっかりじゃなくて、ノンジャンルっていうか、前髪系も結構来る。先週は、女装子もいたし、ボーイの、アルバイトなのかな、いつもいる子も可愛いよ。あそこは店のマスターが、どんな人でも、初心者でも大丈夫って感じにしてるって……」

「あー、うん、俺もネットでそれ読んで、ここなら行けるかなって思った。ボーイの子は……、どうだったかな、入ってから夕くんばっか見てたから覚えてないや」

 きっと、同じ情報サイトを見たのだろう。宿木橋においては独特な雰囲気ゆえに、初心者マークをつけたゲイも、あの店にはやって来る。夕一郎のように誰とも出会えなくともただちびちびと呑みながら本を読む場所と定義してしまう者もいるし、いつ行っても仲間がいると入り浸る者もいる。それぞれが、やや不本意なものではあろうとものんびり過ごせる場所として提供されているのだから、ありがたいことである。

「……そのボーイの子、二十歳って言ってたかな、すごく綺麗で可愛い顔してて、愛想もいい。……靴和くんが見たら、好きになるかもしれない……」

 別に、そんなつもりで言ったのではない。じゃあどんなつもりで言ったのかと問われたら、無から答えを捏ね出すのにだいぶ時間を掛けなければならなかったところだ。

「俺は夕くんが好き」

 自分の発した言葉を自分の耳で聴いたのだろう。靴和は立ち上がって、

「夕くんのこと、いまだいぶ好きだし、これからもっと好きになっていきそう。夕くんめっちゃ可愛いし、……ひょっとしたらね、もしかしたら、誰かが見たら夕くんより可愛いって思う子もいんのかもしれんけどさ、でも、俺は夕くんが可愛いなあ」

 と、句点のたびに髪に唇を当てて、言った。

 一緒に恋に落ちよう、と歳下の、同じ名前の響きの男は言うのだ。昼は汗ばむ陽気の一日ではあったけれど、靴和のTシャツはちっとも臭くない。謙遜するほど薄くはない胸に額を当てて、やや強い心音を聴く。この男の心臓が動くことをやめない限り、こういう時間が続くのだろうか? そうだとして、……そうだとして、そんな幸せなことって、この世にあっていいんだろうか?

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