悪夢
ハイカンコウ
悪夢
ベットの上で目を開くと、男が横に立っていた。
大柄の男は、帽子を目深に被っている。はち切れそうなシャツのボタンは傷口から見える膿のような濁った黄色をしている。
私は純白の病院服を着ている。手足はベットに固定され、身動きがとれない。
部屋は四方をカーテンで覆われており外の様子は見えないが、何やら得体の知れない熱気と、酢のような酸性の刺激臭が部屋中を充満していて気持ちが悪い。
「目が覚めたようだな」
男が口を開いた。ねっとりとした低い声色で紫色の唇はうっすらと笑っている。
「お前はもうすぐ死ぬ。お前は犯罪者だ。末期のがんを宣告されてこの世界に未練がなくなったお前はその手で何人もの人間を殺した。女も子供も殺した。惨いやり方で。」
何から何まで初耳だった。自分が不治の病にかかっていることも、この手で人を殺めたことも。だが、そのように言われるとたしかにそんなことをした気もしてくる。そうすると、今横にたっているこの男が刑事のように見えてきた。そうだ、自分は罪人なのだ。「お前には極刑が決まっている。死ぬことで罪を償うんだ。そして、刑はもう始まっている。」
男がゆっくりと手を上げ私の寝ているベットの向かい側を指さした。そこには、無数のボタンが並んだ機械があった。ボタンには左上から右下に向かって一から順番に番号がふられており、最後は五十である。
「このベットは車輪がついていて、下にはレールが敷いてある。このカーテンの先には五種類の液体が溜まったタンクがあって、それぞれに対し、レールが分岐している。お前は今から好きにボタンを押して、そのうち五つの「当たり」のボタンを押せば、どれかのタンクに沈められ、そこで死ぬ。五種類のタンクの内容物は、真水、海水、濃硫酸、人間の糞尿、触れたら即死の毒である。」
熱気と異臭の正体が分かった。嫌な汗が顔面から吹き出すのを感じた。
自分が死ぬという事実が、その苦しみの想像を通して私の中に具象化した。苦痛への恐怖に頭は占められ、私は動物のように咆哮した。そして、半狂乱で機械に設置されたボタンを押し出した。私は自殺志願者であった。
どのボタンが「当たり」であったのかは分からない。適当に押したうちのどれかが作動したようだ。ベットがガタンッと一段沈み、ゆっくりと前方に動き出した。ゴトゴトと音を立てて私を乗せたベットが進んでゆく。
病室のカーテンをひらりと抜けると視界が一気に開けた。そこは裁判所のような空間だった。私のいるフロアを囲むように少し小高い場所に傍聴席があり、無数の人間がこちらを見ている。その顔にはどれも表情がなく、亡霊のようであった。レールは中央で人間の手の骨のように五つに分岐し、そのうちのどれかに向かってベットはゆっくりと進んでいる。男の説明の通りであった。
私が選択したのは毒のタンクであった。分岐でベットが右に逸れ、ふつふつと煮える濃い緑色に向かっていくのを、頭を起こして私は見ていた。男は口元に薄ら笑いを浮かべて、私がでてきた病室から運ばれる私を見ていた。
毒液が近づく。死が近づく。ベットの裾が毒液に触れ、シューッと音を立ててどす黒く変色した。そのまま私の皮膚に触れる直前で、私はベットから弾き出てしまった。本能的な恐怖が私に力を与えたようで、拘束が外れてしまったのである。
私は絶望した。罪を犯した子供が父親を見るような、すがるような目で男を見た。
男の顔からは先程までの笑みが消えていた。そこには何も無かった。空虚な目だけが私を見つめていた。
男が私の元に近づいてくる。
「お前は自ら選んだ死に方すら拒絶した。もう安楽はない。お前にはクソだめがお似合いだ。」
放心する私の首根っこを掴み、糞尿の詰まったタンクへと運ぼうとする。
「嫌だ!ごめんなさい!毒で頑張ります!嫌だ!」
私は泣き叫んだ。最も苦しい死を想像した。陸にあげられた魚のように体をのけぞらせて必死に抵抗する。男は背後に隠し持っていた鉈を取り出した。その目は、明確な殺意に満ちている。食いしばった口の端に見える歯はシャツのボタンと同じ黄色だった。
男が私の左足のふくらはぎを鉈でひいた。横にすっと赤い線が入り、動脈が破裂したように一瞬大きく膨らんだ後、血飛沫を上げた。私は絶叫した。そのまま首に向かって振り下ろされた鉈を両の手のひらで受け止めた。刃は骨に食い込んで止まった。
男はこの世のものとは思えない力をかけて、私を殺そうとする。私は感覚のなくなった手で鉈の刃先をグッと掴み、男を睨んだ。男もまた鬼の形相で私を睨んでいた。
いつのまにか、傍聴席にいた人々がこちらに向かって野次を飛ばしていた。
「殺せ!」
「殺せ!」
「殺せ!」
無数の声の標的は私ではなく、男に向いているようである。
私はどこに眠っていたのか分からない不思議な力で両手に食い込んだ鉈の刃先を掴むと、それを奪い取った。そしてそのまま刃先を反転させ、男に向かって力いっぱい振り下ろした。
ぷつんと、男の肥大した腹から音がして、ヌルヌルとした温かい血がバケツをひっくり返したように大量に飛び出してきた。私の目からは露出したピンク色の臓器が脈打つ様子が鮮明に見えた。血は私の病院服を真っ赤に染め上げ、伝わってくる体温から私はまるで男に抱擁されているように感じた。
手にはまだ男の腹の柔らかい皮膚の感覚が残っていた。なぜだか私は、とても優しい気持ちになった。
悪夢 ハイカンコウ @haikankou
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