第14話 未来へ……

『第三章 実験結果』


 誰もいない研究室で、僕はパソコンにそう打ち込んだ。


 恩恵を受ける者の責務。それこそは、僕が気づかされたことだった。高度な教育を受け、高度な研究ができる設備を用意されている僕らは、その代償として、知り得たことを広く伝えなければならない。例えそれが、こちらの予想を裏切る結果であったとしても。

 受験で辛うじて引っかかったような人間だから他の玄海大学生と一緒にされては申し訳ないのだけれど、僕は曲がりなりにもこの大学に所属しているのだ。したがって研究成果についても、玄海大学生として求められる行動をしなければならない。

 僕の研究は無様にも上手く行かなかった。爆発さえなければ、などと言ってもその事実は変わらない。僕ができることは「xxxx系の高分子は向いていない」と世に示し、後世の人々が同じ轍を踏まないように手伝うことである。


 洲舟山すふねやまを切開いて造成した壱岐里いきさとキャンパス。中でも高さ際立つ十階建てのビルの中で、窓の外の市街地を眺めていた。学科最低クラスの成績を持つ僕は、もっと優秀な誰か、あの遠景の中にいるかもしれない誰かの足掛かりとなるべく、実験結果を文書として遺すことを決めた。

 これが、大学生としての僕の、最後の務めである。


 思い返すと、この四年間はすっとそうだった。開示された入試の順位は合格者百二十人中百十八位だったし、再試には必ず引っかかり、取れた単位はことごとく「可」が並んでいた。その挙げ句、総仕上げである卒業研究もかんばしいものとはならなかった。これでは、この一年間いや四年間何をやって来たんだと言われても仕方のない状況である。

 それでも、僕は書かねばならない。それが血税で高水準の教育を享受した者の責務だからだ。


 自分が残したデータを基に、第三章 実験結果をつまびらかに記し始めた。今日は他の学生は来ないはずだから、じっくり集中して進められそうだ。キャンパス最後の砦である生協コンビニも深夜まで開いているから、兵站へいたんにも問題ない。どこまででも書き進められる。何字でも、何時まででも……


 誰もいない学生部屋。その静かなことと言ったら、パソコンの冷却ファンの羽音さえ明瞭に知覚できる程だった。他に音を立てるものもなく、蛍光灯の光が満たされた室内では、時間の知覚すら覚束ない。たまに廊下へ出て、その度に行く先が暗くなってゆくことで、夕闇の気配をようやく感じられたのだった。けれどもその廊下には毎度誰一人見えず、この世に自分一人しかいないのではないかとさえ思われた。


 何度目かの休憩を終え、学生の友である魔剤の空き缶がデスク脇に乗り切らなくなってきた頃、肘に当たるアルミ缶の冷たさとともに、僕は確かな手応えを得た。それは言うまでもなく「卒論を書き上げた」という手応えであった。この学生部屋に独り籠って幾星霜──とまではいかないが一日を過ごし、少々ハイな気分になってはいたが、考察、結論、謝辞までを駆け抜けたのだ。


 この後連日の加筆修正は間違いないのだけれど、一応提出できる体裁のなにがしかの文書が、今ここに成立したのだ。一旦印刷して表紙を付けてしまおう。そう決意し、プリンタに印刷を命じた。


 今、無地の紙に黒点が落とされてゆく。一つ一つは何の用もなさないが、全てが束ねられた時、それは意味のあるものへと変貌するのだ。


 プリンタが全てを吐き出し終わったのを確認すると、僕は本棚から取り出した表紙でそれらを挟み込み、紐で綴じた。更に表紙にタイトルと所属、氏名を記入したので、どこからどう見ても卒論の体をなしている。


 これで一安心だ。もちろん発表資料も作らなければいけないけれど、それは今までのミーティングの資料とある程度共通化できるから、卒論本体に比べればまだ何とかなる。これで、最も大きな山を越えたのだ…………


 数時間ぶりに窓の外を見た。おぼろげながらも、山の向こうが白み始めていた。もうそんな時間になっていたのだ。

 ふと、夜風に当たりたくなった。生協コンビニも閉まっているので、手ぶらで外に出ることにした。


 真冬の未明とあって、外はさすがに寒かった。入学してすぐの頃は九州だから暖かいと思っていたのだけれど、日本海側にあるこの地はそう温暖でもないことがやがて分かった。

 食堂の屋上にあるテラスに出ると、遠く天神・博多の街が輝いていた。街を包む白や橙の暖かい光が、ここからはっきりと見えた。こんな時間でも、あの街たちは寝ていないのだ。


 深呼吸し、凍るような外気を吸い込むと、長丁場の作業で疲れた脳みそがにわかに目覚めた。乾燥した空気で傷んだ喉にも、冷気が刺さった。

「ちょっと頑張りすぎたかな。今日はゆっくり休もう」

 僕はそう独りごちた。

 これで、単位エネルギー獲得への道が強固なものになったのだ。そうして数週間後には玄海大学壱岐里キャンパスを脱出し、そこから大いなる未来が始まるのだ。そこまで思いを巡らした時、僕は体の中で熱い何かが湧き上がってくるのを感じた。


「よし……戻ろう」


 明瞭になった意識とは対照的にややふらつく体を制御しつつ、A棟とB棟の境目に、僕は向かっていった…………

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転位の刃 べてぃ @he_tasu_dakuten

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