魔力

次の日。恒成は産まれたばかりの赤ん坊の鳴き声のように止まない、全身の違和感を頑張って振り落とそうとしながら割り切って朝ごはんの納豆をかき込んでグラウンドに出た。

夏休み2日目。夏休みは40日あり、お盆の1週間の休暇と3つの日曜日以外、30日間は全て部活だった。一学期は5月の大型連休に2日間休みがあったのと、6月はじめの休みが追加されたのみで残りは全て野球に充てていた。

もう2週間で久しぶりの休みかあ、そんなことを思いながら恒成は颯馬を捕まえてキャッチボールを始めた。

近い距離のキャッチボールはいつも通り上手くいく。心の中では昨日のことを引きづってる様な感覚がしたが、恒成は予想よりちゃんと投げれるので少し安堵した。

「色々あったみたいやけど、大丈夫なんか?」

「うーん、まぁ大丈夫でしょ」

「うし、んじゃあどんどん遠く離れていくで〜」

どんどん投げていくうちに颯馬の身体が小さくなっていく。やがて、マウンドから見たキャッチャーと同じ位置に近づいていく。

(…!?)

恒成は変な記憶がフラッシュバックしたかのように、突然マウンドからバッターボックスまでの距離と同じくらいになった瞬間ボールを強く地面に投げ、高くバウンドさせた。

「ん?どうしたんや」

「なんか突然、投げられなくなった」

「もう1回投げてみ?」

土の空かした音が恒成の目の前で響く。さっきと同じように。

恒成の脳内では何故か、急にあの声が聞こえた。自分の自信を全く踏みにじられたあの笑い声が。

「颯馬…ごめん…今日は朝練休むわ」

「大丈夫か?体調悪いんか?」

「いや、そうじゃないんだけど…」

颯馬も恒成も戸惑う。今までイップスの人間を見てこなかったし、ましてや自分がイップスになるなんて分からなかった2人にとってイップスという言葉自体の意味すらよく分かっていなかったし、聞いたことこそあったが縁のないものだと思っていた。というか、この時点でイップスだということはわからず、何者かに取りつかれたような不思議な感覚がただそこにあるだけだった。


本練習でもやはり、球を投げられない。見ていた監督は言う。

「どうした?恒成。」

「監督、分からないんです…」

「うーん…ひとまず今日は休んどきなさい」

「わかりました」

監督は恒成を寮に帰らせた後、投手出身の中山コーチに相談をした。

「中山くん、ちょっとこっちに来てくれるかい…」

「はい、岡島監督、どうかしましたか?」

「田中恒成の話なんだが…」

「自分も見てました」

「…どう思う?」率直な感想を聞きたいと、中山コーチはに迫る。

中山コーチは妙な顔で喋った。「恐らく…イップス…」

「やはりか…」 予想はしてた、というような雰囲気で答える。

着実に1年の中で成長を続けていた恒成はエース蒲島康太の後釜としてもリストアップされていた。

「彼こそは康太を継ぐエースの器があると考えている、どうにかイップス克服の鍵はないかね?」

「自分の周りにもイップスを経験した事のある人というものが少なくて、自分もどうしようか非常に悩みます…」

「…やっぱそうだよな。」頷きながら、残念そうな顔で天井を見る。

「少し考えてみるよ、中山くんも考えておいてくれ」

「わかりました」

ポスト蒲島というだけの器はあると期待されている矢先でのイップス。原因不明の致命傷に、コーチも監督も答えが一向にわからずつい天を仰いだ。

イップス。別名、送球恐怖症とも呼ばれる一種のスランプである。

何らかのトラウマや大きなショックにより制球が大きく乱れたり送球が大きくそれたりなどすることが多く、恒成は横島に言われたあの大きい笑い声がトラウマとなり、自信を喪失しイップスに陥ったのである。

恒成は、食堂で寮母の笹岡道子と話しながら窓から練習する部員の姿を眺めていた。

「道子さん、どうすればいいですかね…」

「そうね…今まで同じように心が折れた子の相談には沢山乗ったけど球がショックで投げられなくなるというのはあまり聞いたことないわね…」

道子はもうここが新築された後に寮母として来て8年目を迎える。

部員全員に分け隔てなく優しく接する姿はまさに寮の中での母のような存在で、部員から慕われてきた存在である。

当然心が萎えたりする生徒の相談にも沢山乗ってきたような存在で、監督からの信頼も厚くメンタル面のケアにおいて大きな役割を担っていた。8年間寮母として信頼を築いてきた道子ですら、こういった投げられなくなるということは経験がなかったのである。

「とりあえず、今日は他の子のことは気にせず休みなさい」

「ありがとうございます…他の子と比べての焦りとかはないんですけど、投げられなくなるのが本当に怖いんです」

「怪我じゃないんだから治るわよ、きっと…」

「はい…」 出してくれた、旨味がぎっしり効いたコンソメスープを飲み干すと、恒成は自室に向かった。

颯馬も相談に乗ってくれて、口は尖るが優しく恒成を包み込んでくれた。

後日、1週間ストレッチと走り込みの練習のみをすることを命じられ、いつか投げれるようになった時はみんなを必死で追いついてやるという一心で恒成は走り続けた。

しかし、投げることを考えると嫌なことが頭を過り嫌悪感を抱く。溜まっていくモヤモヤは、棚の上に積もる埃のようだった。

恒成は、あの駿太の金属バットのホームランの音を思い出した。

「あいつ、多分強豪校で頑張ってるんだろうな…絶対レギュラーだよ」

駿太を思い描き、青い気分になりながらただ、ただ走るばかりであった。


◇◇◇


「恒成!」

颯馬と話している途中にドアを叩きすらせず開けた。聞き覚えのある声だ。受験を控えながら家から登校し、野球部寮を退寮して野球の練習は家とバッセンで行っているという康太だった。

「イップスで投げられてないって聞いたから、飛んできたよ」

「すいません心配おかけして…」

「いいんだよ、心配でもなんでもかけろ」

随分連絡を受けてから慌てていたようだ。監督からお前の跡を継ぐべき後輩がイップスを発症したと連絡を受けて飛んできた。

「とりあえず投げてみろ」

「はい…ってえっ!?いきなりですか!」

「何言ってんだ、投げねぇと無理だろ」

「え、でも監督には…」

「監督には許可もらった、早く行くぞ」

「えっ、えっ」

恒成はグローブを持ち慌てて外に出た。何故かその場にいた颯馬もついてきた。

「1回、投げてみろ」

マウンドからバッターボックスくらいと同じ距離でグローブを構える。キャッチャーミットではない。

恒成は戸惑いながらも、その目に逆らうことは出来ないと悟り、戸惑いを隠しきれていない颯馬の表情を見ながらフォームにつく。

恒成は大きく振りかぶって腕を振る。無理やり投げたこともあってか、投げる瞬間にトラウマが空を斬り、恒成を襲う。

ボールは地面を強く叩き、高くバウンドする。今までの投球が嘘だったかのように、魔力に取り憑かれたように遠のいていく。

「あっ…やっぱね」

恒成がそう言った瞬間、穏やかな康太の顔が能面のように怖くなった。


「お前もう、野球辞めちまえよ!!」


恒成はその言葉を聞いて、驚いた。


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サブマリンと神主打法 はこはま @hakohama

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