6
コース中央で、岩に当たり吹き上がった風をお腹で受けとめた。機体が持ち上がる感覚。カーブを曲がりきったわたしたちの追い風になる。
ついに三十六番の横に並んだ。だけど横なんて見ていられない。ゴールでなびく赤い旗に向かって一直線に飛ぶ。
不思議。砂浜にはたくさんの観客がいるはずなのに、視界の隅にはなにも映らない。いつの間にか、眩しさも感じない。エンジンの音も聞こえない。ただ、自分の心臓が脈打つ音がする。熱い血が指の先にまで巡るのが分かる。
別の世界に来たみたい。空と海の青、コチちゃんの白と赤。交わりようもないくらいはっきりとした色が目に焼き付く。刻み込まれていく。
世界って、あざやかだな。
空を飛ぶのって楽しいな。
もっと、ずっと自由でいたいな。
コチちゃんと一緒にいろんな色の空を飛び回りたい。風に流されたり、逆らったりしてさ。おじいちゃんが見てきたものを追いかけるように、いろんなものが見たい。
こんな時に考えることじゃないよね。おかしくて笑っちゃう。
――楽しかったなぁ。
おかしなことに、ゴールを過ぎた瞬間、あれほど追い求めていた勝敗の結果が頭からすっぽ抜けてしまった。
横並びだったグレーの機体と、ゆるやかに減速しながら離れていく。ふわふわした頭で誘導に従って着陸し、ハッチを開けた瞬間、歓声の中に放り出された。
色だけの世界に物の輪郭と音が戻ってきて、同時に手足のしびれを感じた。ふらふらでコチちゃんから降りるわたしに、聞き覚えのある声が突き刺さる。
「カフカーッ!!」
立ち入り禁止ラインから身を乗り出す、茶色い毛の女の子。その目はたっぷりの涙で潤んでいた。
「あ、クレオ」
砂に足を取られながら駆け寄って、ロープ越しにぎゅーっと抱き合った。なぜか周りから拍手が巻き起こる。
「す、す、すごかったにゃ! コチちゃんがどんどん追い越すの、ここからでも分かったもん! 実況も観客も大盛り上がりだったの! ロジャーさんなんか号泣してヘンになってた!」
「へへ……クレオが応援してくれたから」
「……見えてたの?」
「もちろん」
ちょっと恥ずかしそうに口を尖らせてる。うふふ。
「おーい!」
観客席から人をかき分けてチルさんとヘルガさんが降りると、砂をけちらしながら走ってきた。
「カフカ! あなたって本当に……」
「ヘルガさーん! えへへ、頑張ったよ」
「……もう。無理しないでって言ったのに。すごいわ」
目の端に涙を浮かべながら、ちょっと困り顔で嬉しそうに笑う。わたしも嬉しい。
「カフカぁ! あんたサイコー!」
「わぁ、お酒くさい……」
チルさんはいつもの感じ。
三位以降の選手が続々と戻ってきて、ゴールラインを越えるたびに観客が沸く。あ、イヤミー機だ。おやおや十六位ですか。ずいぶん落ちましたねぇオホホ。
「一位、写真で判定するんだって。今現像中だと思う」
クレオに言われて、なんのことかと首をひねった。……はっ、そういえばまだ順位出てなかったの?
「ほぼ同時だったから写真判定になったのよ。気にならなかったの?」
「うん、ゴールしてからはぼーっとしちゃって、なにも考えてなかった」
「なによそれ! あんなに頑張ったんだからちゃんと気にしなさいよ!」
本当だよね。さっきまでは一位になることしか考えてなかったのに、我ながら変なの。
「ヴッ、オオウッ……オウッ」
ぎょっとするような低い声を響かせて、大きな体がのそっと観客の隙間から現れる。ロジャーさん、ほんとに号泣してた。
「最高だ……ありがとう、ありがとう……」
「コチ306が現代の空で平和に無双している姿に感極まっちゃったんだって」
クレオが翻訳してくれた。よかったね。
「ど、けぇえええ! 」
場違いな叫び声にぎょっとして振り向くと、腕を掴もうとするスタッフさんを振りほどいてこっちに向かってくるイヤミーの姿があった。ロジャーさんが急に泣き止んでロープを上に引っ張り上げ、わたしを観客席側に引き込んで、イヤミーからかばうように立つ。イヤミーはロジャーさんの大きな体に一瞬ひるんだけど、後には引けないのか、すぐに牙を剥く。
「そこのクソガキを出せ。人を舐めくさりやがって。八つ裂きにしてやる」
「何のことだ。うちにそんな無礼な子はいない」
ろ、ロジャーさーん! なんて頼もしい背中!
「とぼけるなよ。いいからガキを出せ!」
「うちの従業員を侮辱しないで。抗議があるなら運営に言いなさい」
さりげなくクレオを下がらせてから、ヘルガさんが横から淡々と言った。イヤミーはロジャーさんに対したときよりも威勢よく食ってかかる。
「ああそうか、局長が牝ギツネだもんな。そりゃ手下どもも汚い真似ぐらい平気でするよなぁ!」
「消えなさい。あなたと話すことなんて何も無い」
「こっちにはあるって言ってんだ。そのでけー耳は飾りもんか? 裏返してやろうか!?」
聞いてて気分が悪くなるくらいひどい口調。周囲の人たちがざわつく中、ヘルガさんは顔色一つ変えずに小さく鼻先を動かした。
「チル」
ヒュンッ。ヘルガさんが声を発した直後、茶色の小さな何かがイヤミーの上半身を巻き込んで通過した。イヤミーは呆然としたまま仰向けで倒れていて、その上にチルさんが馬乗りになっている。
「図体がでかいだけの子猫ちゃん! いたいけなリスさん相手に指一本出せないなんて情けないねぇ」
「てめ、このっ……はなせっゴラァ!!」
ふしぎ。腕を押さえられているだけなのに、イヤミーは上半身を全く動かせなくなってる。チルさんってイヤミーよりずっと小さいのに。
「誓いなさい。実力で負けた惨めなボクは二度とココット村の皆さんに手出しませんって」
「誰が言うか!」
「もうやめてくださぁい!」
今度はだれ? 『十六位』の小さな旗が先端に付いた長い棒を持った女の子が走ってきて、チルさんの肩を引っ張った。なんか見たことあるな……あ、ララニ中央の受付さん? この子も選手だったんだ。そしてイヤミーは隙ありと脱出。
「イヤムさん恥ずかしいですよぉもうやめましょうよぉ」
「うるせぇお前のせいでもあるんだぞ。もっと上手く当ててたらコイツなんかに負けてなかった!」
「えぇー!?『オレが全員抜かしてやるからお前は乗ってるだけでいいよ』ってスカしてたのに今更そんなこと言うんですか!? ダサ!」
「てめっ……しばくぞ! 黙ってろ!」
「しばく!? しばかれる!? ギャーッコワイ!」
拳を振り上げるフリをするイヤミー(最低だね)に、受付さん(仮名)が絶叫。我を忘れて手に持った旗を振り回し始めた。
「正当防衛! 正当防衛! アァーッ!」
ごんっ。がむしゃらに振り回した棒の底がイヤミーのアゴを綺麗にすくい、首がぐりんと九十度回って砂浜に倒れ込む。真っ青な顔で震える受付さん。担架で運ばれていく、ピクリとも動かないイヤミー。
「もう戻ってくんなよ〜」
呑気な声は、いつの間にか生ビールを片手に持ったチルさんのもの。めでたしめでたし……
「はっ。そういえばハヤテは!?」
全然めでたくなかった! 慌てて人と飛行機の隙間を縫って波打ち際に駆け寄り海を見ると、運営のバイクに繋がれたロープに捕まり、波をかき分けてこっちに向かってくる三角耳を発見。
「ハヤテーッ!」
手を振ると振り返してくれた。足がつくあたりでロープを手放し、波にもまれながら砂浜へ上陸。ぶるぶると体をふるわせると、しょっぱい水飛沫が乾いた砂に散った。びしょ濡れで毛がぺったんこ。いつもより一回り小さく見える。
「大丈夫? 怪我してない?」
「ああ。ちょっと海水飲んだくらいだよ」
「よかったぁ。いきなり飛び降りるんだもん」
「でもそのおかげで軽くなったろ? 順位は?」
「まだこれから。もうそろそろ……」
ぴんぽんぱんぽーん。タイミングよく放送が始まって、わたしたちは二人して息を呑む。
「写真判定の結果が出ました。 一位は……」
「…………」
「………………!」
「……………………!!」
溜めすぎでしょ! 逆に力が抜けちゃうよ! ほらぁみんな固唾を呑んで発表を待っていたのに、今じゃ腰に手を当てて呆れ顔して
「三十七番、ココット村配送局です!」
えっ
「う」
うそ。ぽかーんと口を開けて、聞こえた言葉を頭の中で繰り返す。今の聞き間違いじゃない? ね、これ本当の本当の本当? 本当に一位?
ぱらりとだれかが手を鳴らした音を皮切りに、拍手の波が広がっていく。おめでとー、すごかったよ、どこで操縦習ったの……選手の人たちに次々に話しかけられて、照れるような嬉しいような。もじもじしながら横を見たら、ハヤテと目が合った。
「やったな」
「う……ハヤテーっ!」
「うおっ」
やったー! 肩に飛びついて帽子をぽいっと投げ捨て、ハヤテの頭をなでくり回した。わぁっと歓声があがる。ハヤテは満面の笑みでわたしの帽子を奪い取って高く掲げた。
「うちのエースだからな! どこにも引き抜かせねーぞ!」
歓声が一層大きくあがる。顔が熱い。恥ずかしいけど、やっぱり嬉しくて嬉しくてたまらないの!
「カフカー! すごい! ほんとにすごいのにゃ!」
「クレオ! やったよー!」
ハヤテの肩から降りて、クレオと抱き合ってぴょんぴょん飛び跳ねた。ふかふかの茶色い毛がほっぺに触れてくすぐったい。
ふと、グレーの機体のそばで立ち尽くす男の子が目に入った。三十六番の子だ。
沸き立つひとたちの中、一人だけ俯いてる。わたしはクレオに断ってその男の子のところに行き、ちょっと迷ってから手を差し出した。
「あの、ありがとう。速いんだね」
「…………っ」
差し出したわたしの手を振り払い、男の子は背を向けて走って行っちゃった。
「なによ。感じ悪」
クレオがそう呟いたけど、感じが悪かったのはむしろわたしのほうだったかも。余計なことしなきゃよかった。
「お年頃だねぇ〜」
「あ、チルさん。みんな」
「おめでとうカフカ……ありがとう」
「え、え、ヘルガさんちょっと泣いてる?」
「悪い? アラサーにもなると頑張る子どもの姿に感動しちゃうの……」
そうなんだ。わたしはそのままヘルガさんにむぎゅっと抱きしめられた。なめらかな毛並みが気持ちいい。ロジャーさんも涙まじりで褒めてくれた。
「ヘルガさん、見ず知らずのわたしを局にいさせてくれてありがとう。ちょっとは役に立てたかな」
「ちょっとどころじゃないわよ! ずっといて欲しいくらい」
ヘルガさんは更にぎゅーっとわたしを抱きしめて、ぱっと離す。それからわたしの顔を見て微笑みながら、両手で頬を包んだ。手があったかい。
「もう。本当にいい子なんだから」
「へへへ」
いい子かどうかは分からないけど、喜んでもらえて、役に立ててよかった。それが心の底から嬉しいや。
いろんな人がおめでとうって言ってくれた。知らない人も一緒に喜んでくれた。生まれて初めて感じる、このくすぐったい誇らしさを、きっとずっと忘れないと思う。
『十四時十分から表彰式を行います。選手の皆さんは係員の指示に従って並んでください』
放送がそう告げる。胸張って行ってこいってロジャーさんに背中を押されて、ハヤテと二人で歩き出そうとしたその時だった。
喧騒を黙らせるほどのエンジン音が聞こえる。バイク? はじめは遠かったのに、すごい勢いで音が近づいてくる。会場中が海に背を向けてその音のする方を向いた瞬間、大型バイクが飛んだ。
飛ばないタイプのバイクなのに、飛んだ。道路から砂浜へ降りる階段から、ツヤ消しブラックの大きな車体が弧を描く。慌てて人が避けて丸い空白地帯になった場所に砂を撒き散らしながら着地。乗っているのは二人。運転手はすぐさまバイクを乗り捨てると、フルフェイスのヘルメットを乱暴に脱いだ。
「や、やっぱりー!」
静まり返った会場に、震える声が響きわたる。茶色い髪をお団子にまとめた若い女のヒト。
「カフカー! じんばいじだんだよおおぉ」
メリさんだ。自称、バレン商船期待の新人。泣きそうな顔でずんずん近づいてくる。てことは、後ろに乗ってるガタイのいい人は。
「……知り合いか?」
ハヤテの問いかけに何も答えられない。冷や汗がだらだら出る。
バイクの後ろに乗っていた人が、のっそりと近づいてきた。ヘルメットのあごに手が伸びる。剥ぎ取るように持ち上げると、あらわになった険しい顔つきと鋭い眼光がわたしを突き刺した。思わず、じり、と後ずさる。
「……あら、先輩?」
ヘルガさんが思いがけないことを口にしたけど、気にしてなんかいられなかった。
のし、のし、と浅黒い肌の大柄なおばちゃんが近づいてくる。知らない人だなんて言えるわけない。
ついに目の前までやって来て、この上なく恐ろしい形相に見下ろされて、手足が震える。大きく息を吸ったのを見て、わたしは覚悟を決めてぎゅっと目を閉じた。
「…………カフカッ!!」
バレンさんは胃が凍りつくような怒鳴り声を発して、わたしのことをぎゅうっときつく抱きしめた。
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