5
さあ、残るは一機、グレーの三十六番だけ! 島を離れてまた海上へ。一位との距離は約一コルトル弱。ちょっと無理しないと追いつけなさそうな距離だ。放水装置の隙間を狙ってショートカット。少しは縮まったかな。
「……ゴールまであと十コルトルか。いけるか?」
「いけるよ。絶対!」
そう宣言したものの、思うように縮まらない距離に焦る。まだ遠い。
少しもミスできない。コースの先と目の前を同時に見る。どう飛んだら、どう動いたら無駄がない?
次が最後の障害物。グレーの三十六番はかなり堅実なルート取り。わたしと十分距離が離れてるから、無茶する必要がないんだ。わたしはできる限りまっすぐに、最低限の動きでブロックを避けていく。翼の先端ではねたブロックが粉々に弾けた。
「少しずつ縮まってるけど、いま百メリルちょいってとこか」
苦々しげにハヤテが唸った。「聞け、カフカ」ハヤテが口をわたしの首の後ろに寄せた。
「この機体の旋回性能は現代の飛行機の比じゃない。だから障害物を最小の動作で避けながら追い上げてこれたけど、ここから先に障害物はない。純粋な速さとコース取りで決まる」
「ん……」
小さく頷く。コチちゃんって今の飛行機よりも性能がいいの? 初耳。……それは今考えることじゃないか。
前に集中。最短ルートから絶対に外れないようにしないと。
ここまで来て勝てないなんて嫌だ。クレオとの約束を守りたい。あんなに応援してくれてるんだから。
優勝して、みんなにも喜んでほしい。すっごくお世話になったんだもん。最後に恩返しがしたいの。
「だから……おい、聞いてるか?」
なのに、思うように差が縮まらない。届かない。
何が足りないの? もう無理なの? 奥歯を噛み締める。
「カフカ、なあ」
海から突き出した小さな岩場に、残り六コルトルの表示。前との距離は、多分まだ百メリル以上ある。このままじゃ間に合わないっ!
「負けたくないのにぃっ!」
ガガッカッ。
二発の水弾が空に真っ直ぐ伸びて、グレーの機体の背中を追う。だけど届かない。ゆるやかに落ちていく。わたしは目がまん丸になった。
「ま、無理だよな」
「えええ! なんでこんなところで」
もったいない……続けようとした言葉は、金具が外れる音にのまれた。後ろを振り向こうとしてハヤテに止められる。
「悪かったな」
なんで謝るんだろ。振り返ろうとして、また止められた。
「前見てないと離されるぞ」
「なにしてるの? ズルはダメだよ」
しねーよ、と苦笑いして一度深呼吸、それから落ち着いた声で話し始めた。
「本当にイヤムを抜けるとは思ってなかった。信じてなくてごめんな」
「そうなの? わたしたちの前ではチリみたいなものだったけど」
くくっと笑って体をよじった気配がした。目をぱちくりする。後ろが気になる。
「お前って最高だよ」
両サイドの足元に置かれた、重心調整のためのスライド式の重りが後ろに動かされた。それからガコッとロックが外れる音がして、すぐに風がなだれ込んでくる。
あ、と声が出た。ハヤテが何をしようとしているのか分かって、止めようとして、
「集中」
ぴしゃりと叱られた。とん、と背もたれを後ろから叩かれる。遠慮はなく、だけどどこか優しく。
機体が揺れる。
「行け、カフカ」
コッ、と靴の裏が機体側面を蹴りつけたのを最後に、小さな飛行機から一人分の重みが消えた。まるで自分の身体が軽くなったみたいだった。
振り返らなかった。前を飛ぶただ一機の姿を追う。絶対に食らいついてやるっていう気持ちで。
真っ青な空と海のはざまに描かれていく灰色の軌跡を、わたしが上書きしていく。赤と白で塗りつぶす。確かに、少しずつ近づいていく。
宝石のように眼下の海が光る。波で乱れてはわたしの瞳を刺す。だけど目は細めない。目を見開いて、見れるものすべてを見てやるんだ。遠い浜辺に立つ木の揺れ、海面のさざ波、些細な風にも翻る旗。
最後のカーブが近づく。キッサ湾の付け根、波風に削られた岸壁。このカーブを曲がりきれば、じきにゴールが見えてくる。眼前に迫るグレーの三十六番はここに来てギリギリのインコースを選ぼうとしている。焦ってるんだ。
ここで抜きたいけど、この距離でルートの取り合いをするのは危なすぎる。でも外側から仕掛けるのもリスクがある。
どうする。
「……コチちゃん」
おじいちゃんならどうしてた? ……分かるはずないよね。
自分で決めなきゃ。
エンジンキーの赤と白のガラス玉が揺れた。クレオたちがこの先で待っている。情けないところなんて見せたくない。
なによりも、わたしが負けたくない。勝ちたい。
ベルさんの言葉が頭をよぎる。
『風を捕まえて、味方につけるんだ。そうすれば、やみくもに羽ばたかずとも飛べるものだよ』
……よく分かんないよ。風は好き勝手に吹くものでしょ? 味方につけるってどういうこと?
首を傾げるわたしに、ベルさんは微笑む。
『待つのも肝要だ。だがね、時には自ら捉えにいかなければならないときもある。違いが分かるかな……きっといずれ分かるときがくるよ』
陸地がぐんぐん近づいてくる。海を抱きしめるような地形の、丁度左腕のあたり。いくつも並んだ小さな船の白い帆が波に揺れる海沿いの景色が、村を飛び出した日に見た光景と重なった。
風は海から吹いてくる。岩の形に沿い、街を走り抜けてだれかの帽子を飛ばす。
息を吐いて、肩の力を抜く。吹く風の流れを機体で感じる。
波風でえぐれた岸壁に沿って、風は流れていく。
風を味方につける。……まだ、よく分からないけど。
でも、来る。今。それだけは分かる。凪いだ海を荒らす一陣が。
『風を捕まえにいけ』
東からの風が来る。
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