さあ、残るは一機、グレーの三十六番だけ! 島を離れてまた海上へ。一位との距離は約一コルトル弱。ちょっと無理しないと追いつけなさそうな距離だ。放水装置の隙間を狙ってショートカット。少しは縮まったかな。


「……ゴールまであと十コルトルか。いけるか?」

「いけるよ。絶対!」


 そう宣言したものの、思うように縮まらない距離に焦る。まだ遠い。

 少しもミスできない。コースの先と目の前を同時に見る。どう飛んだら、どう動いたら無駄がない?


 次が最後の障害物。グレーの三十六番はかなり堅実なルート取り。わたしと十分距離が離れてるから、無茶する必要がないんだ。わたしはできる限りまっすぐに、最低限の動きでブロックを避けていく。翼の先端ではねたブロックが粉々に弾けた。


「少しずつ縮まってるけど、いま百メリルちょいってとこか」


 苦々しげにハヤテが唸った。「聞け、カフカ」ハヤテが口をわたしの首の後ろに寄せた。


「この機体の旋回性能は現代の飛行機の比じゃない。だから障害物を最小の動作で避けながら追い上げてこれたけど、ここから先に障害物はない。純粋な速さとコース取りで決まる」

「ん……」


 小さく頷く。コチちゃんって今の飛行機よりも性能がいいの? 初耳。……それは今考えることじゃないか。

 前に集中。最短ルートから絶対に外れないようにしないと。


 ここまで来て勝てないなんて嫌だ。クレオとの約束を守りたい。あんなに応援してくれてるんだから。

 優勝して、みんなにも喜んでほしい。すっごくお世話になったんだもん。最後に恩返しがしたいの。


「だから……おい、聞いてるか?」


 なのに、思うように差が縮まらない。届かない。

 何が足りないの? もう無理なの? 奥歯を噛み締める。


「カフカ、なあ」


 海から突き出した小さな岩場に、残り六コルトルの表示。前との距離は、多分まだ百メリル以上ある。このままじゃ間に合わないっ!


「負けたくないのにぃっ!」


 ガガッカッ。

 二発の水弾が空に真っ直ぐ伸びて、グレーの機体の背中を追う。だけど届かない。ゆるやかに落ちていく。わたしは目がまん丸になった。


「ま、無理だよな」

「えええ! なんでこんなところで」


 もったいない……続けようとした言葉は、金具が外れる音にのまれた。後ろを振り向こうとしてハヤテに止められる。


「悪かったな」


 なんで謝るんだろ。振り返ろうとして、また止められた。


「前見てないと離されるぞ」

「なにしてるの? ズルはダメだよ」


 しねーよ、と苦笑いして一度深呼吸、それから落ち着いた声で話し始めた。


「本当にイヤムを抜けるとは思ってなかった。信じてなくてごめんな」

「そうなの? わたしたちの前ではチリみたいなものだったけど」


 くくっと笑って体をよじった気配がした。目をぱちくりする。後ろが気になる。


「お前って最高だよ」


 両サイドの足元に置かれた、重心調整のためのスライド式の重りが後ろに動かされた。それからガコッとロックが外れる音がして、すぐに風がなだれ込んでくる。

 あ、と声が出た。ハヤテが何をしようとしているのか分かって、止めようとして、


「集中」 


 ぴしゃりと叱られた。とん、と背もたれを後ろから叩かれる。遠慮はなく、だけどどこか優しく。

 機体が揺れる。


「行け、カフカ」


 コッ、と靴の裏が機体側面を蹴りつけたのを最後に、小さな飛行機から一人分の重みが消えた。まるで自分の身体が軽くなったみたいだった。


 振り返らなかった。前を飛ぶただ一機の姿を追う。絶対に食らいついてやるっていう気持ちで。

 真っ青な空と海のはざまに描かれていく灰色の軌跡を、わたしが上書きしていく。赤と白で塗りつぶす。確かに、少しずつ近づいていく。


 宝石のように眼下の海が光る。波で乱れてはわたしの瞳を刺す。だけど目は細めない。目を見開いて、見れるものすべてを見てやるんだ。遠い浜辺に立つ木の揺れ、海面のさざ波、些細な風にも翻る旗。


 最後のカーブが近づく。キッサ湾の付け根、波風に削られた岸壁。このカーブを曲がりきれば、じきにゴールが見えてくる。眼前に迫るグレーの三十六番はここに来てギリギリのインコースを選ぼうとしている。焦ってるんだ。

 ここで抜きたいけど、この距離でルートの取り合いをするのは危なすぎる。でも外側から仕掛けるのもリスクがある。


 どうする。


「……コチちゃん」


 おじいちゃんならどうしてた? ……分かるはずないよね。

 自分で決めなきゃ。


 エンジンキーの赤と白のガラス玉が揺れた。クレオたちがこの先で待っている。情けないところなんて見せたくない。


 なによりも、わたしが負けたくない。勝ちたい。


 ベルさんの言葉が頭をよぎる。


『風を捕まえて、味方につけるんだ。そうすれば、やみくもに羽ばたかずとも飛べるものだよ』


 ……よく分かんないよ。風は好き勝手に吹くものでしょ? 味方につけるってどういうこと?


 首を傾げるわたしに、ベルさんは微笑む。


『待つのも肝要だ。だがね、時には自ら捉えにいかなければならないときもある。違いが分かるかな……きっといずれ分かるときがくるよ』


 陸地がぐんぐん近づいてくる。海を抱きしめるような地形の、丁度左腕のあたり。いくつも並んだ小さな船の白い帆が波に揺れる海沿いの景色が、村を飛び出した日に見た光景と重なった。


 風は海から吹いてくる。岩の形に沿い、街を走り抜けてだれかの帽子を飛ばす。

 息を吐いて、肩の力を抜く。吹く風の流れを機体で感じる。

 波風でえぐれた岸壁に沿って、風は流れていく。


 風を味方につける。……まだ、よく分からないけど。

 でも、来る。今。それだけは分かる。凪いだ海を荒らす一陣が。


『風を捕まえにいけ』


 東からの風が来る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る