4
ハヤテが少しだけ残っていたお茶を飲み干した。すかさずカップにお茶をつごうとしたら手で制されて、さて、って言いながら立ち上がる。
「夜が明ける前に帰る。悪いけどこの手紙を宛先に届けといて貰えるか?」
肩からななめに下げていたカバンから一通の手紙を取り出してわたしに手渡す。赤い封蝋が押してあって、くるりと裏返すと、とても短い宛名が書いてあるだけ。シアさんへ、って。
「おじいちゃん宛?」
わたしの呟きにハヤテが黒い目をまん丸にした。この村にはおじいちゃん以外にシアさんはいないもん。
「そりゃ話が早くて助かるが、お前さっき一人暮らしって言ってなかったか? 一緒に住んでないのか」
「うん。おじいちゃん半年前に死んじゃったんだ。だからこの手紙も渡せないや」
「……親は?」
「わたし拾われっ子なの」
わたしの言葉にぱちりと瞬きをして「そっか」と頷いた。ちょっと申し訳なさそうにしているのが分かったから、慌てて言葉を継ぎ足す。
「でも村のみんなが可愛がってくれるから寂しくないよ。いつもお手伝いしてくれてありがとう、偉いねって褒められるんだ。へへーん」
ハヤテは丸くしていた目を細めて、もう一度「そっか」と言って、短い毛に覆われた大きな手をわたしの頭に置きかけたけど、ぱっと手を離してバツの悪そうな顔をした。
「あー……悪い。つい癖で」
「?」
「なあ、この手紙の差出人はカフカのじいちゃんが死んだことを知らないみたいだから、カフカが代わりに中を確認して返信を書いてやってくれるか?」
「分かった」
わたしの返事に頷いて、肩掛けカバンの革紐をぎゅぎゅっと動かしてから帽子を広げる。帽子の上部には三角窓が二つあって、そこにとんがり耳がぴったりとはまった。その動作に本当に帰っちゃうんだってことを思い知らされて、ちょっぴりつまらない気持ちになる。もっとお話したかったな。
玄関の扉を開けて周囲を見回して、誰もいないことを確認してから手招きをする。ぴゅうと風が吹いてきた先を見てみると、隙間の空はまだ真っ黒。わたしはドアを閉めてから「ちょっと待ってて」って言ってガレージに飛び込む。
目的の物はコチちゃんの翼の上に置きっ放しになっていた。文字も読めないくらいに明かりが弱ったランプの水をキッチンから持ってきた小さなコップに移して、そこにまた蛍光キノコの粉末を加えてくるくるかき混ぜる。
「すごいなそれ」
後ろからハヤテが顔を出す。あそこに生えてる光るキノコから出来てるんだよ、って説明したら声を上げて感心してた。
「はい。通路は暗くて危ないからこれあげるね」
「俺に?」
発光する液体で満ちた透明なコップとわたしを見比べると、にっと笑ってコップを受け取った。
「ありがとな」
「どういたしまして」
ハヤテは興味深そうにコップを目の前に掲げた。その時にコチちゃんのぴかぴかボディが光を鋭く反射してわたしとハヤテの目に刺さり、思わず目を細めた。
「そういやこの飛行機じいちゃんのか? 綺麗にしてあるな」
「うん。コチちゃんだよ」
わたしが胸を張って紹介すると、機体の横腹を覗き込んでひくひくと黒い鼻先を動かした。
「可愛い名前だな。……新しいオイルの臭いがする。カフカが手入れしてんのか?」
「そうだよ! おじいちゃんがお手入れの方法を教えてくれたんだ。退屈なときにオイルを差したり浮かせてみたりしてるの」
乗る人がいないから意味はないけどね。ハヤテは「へー」って生返事して、眉をひそめながらコチちゃんを眺め回している。あまりにかっこいいから見惚れてるのかな? なんだか誇らしくて嬉しい気持ち。
「赤と白の……コチちゃん……コチ……」
ハヤテの動きがぴたりと止まった。しばらく黙ってから突然勢いよく振り向いて叫んだ。
「コチ306!?」
わ、びっくりしちゃったよ。ちょっと引き気味で頷くわたしにハヤテが迫る。
「あの手紙にはシアってしか書いてなかったけど、まさか、おまえのじいちゃんシア・アリムスか?」
「う、うん。そうだけど」
「うおおおお!?」
ハヤテが子供みたいに目を輝かせて抑え気味に叫んだ。わたしは何がなんだか分からなくてぽかんだよ!
「しーっ。お静かに」
さっきハヤテにされた動作を真似て口の前で人差し指を立てる。「いけね」って顔で黙ったのを見て、長老みたいにゆっくり頷いて「よろしい」って言った。
「こほん。ねえおじいちゃんとコチちゃんのこと知ってるの? もしかして有名人だったりする?」
もしそうだったらちょっと嬉しいかも。するとハヤテは口元をゆるませながら熱っぽく頷いた。
「やることなすこと無茶苦茶だけど、最高にカッコイイ冒険家だ! 俺、子供の頃にシア・アリムスの冒険録を読んで以来、ずっと憧れてたんだよ。戦争であれこれやらかしてから終戦後の行方は知らなかったけど、こんなとこにいたんだな……」
感慨深そうにぐるりとガレージを見渡してから、コチちゃんをまじまじと覗き込む。
「冒険録?」
「孫なのに読んだことないのか? トリエ社刊、全五巻で綴られる、シア・アリムス十七歳から二十四歳までの冒険譚! 十代男子にとっては聖典と言ってもいいな。学校の図書館にも置いてあったけど常に誰かに借りられてたぜ」
「へー……そんなの家には置いてなかったよ」
なんだろ。おじいちゃんが有名人だってことが分かって嬉しいのに、いまいち実感が湧かない。でも胸のずっと奥の方がじんわりと熱い。喜びを噛み締めるようなハヤテの顔を見ていたら、ふいに何かが溢れそうになって、心臓の動きが激しくなった。
火照った手でぎゅっとランタンを握って、中を見ていいかと聞いてきたハヤテに頷き返す。子供っぽい笑顔で操縦席に乗り込んであちこち眺め回したり、操縦桿を握ってじーんとした顔で黙り込んだり。楽しそう。
でも、なんかちょっと悔しいな。おじいちゃんはどうして自分が書いた本をわたしに読ませてくれなかったの? もしかして可愛い孫には知られたくない秘密の話がたくさん書いてあったりする?
ハヤテはわたしの想いなんて知るよしもなく、にやけた顔で操縦席から降りた。
「すげえ、夢みたいだ……俺、今日ここに来て良かった。サンキューカフカ。今度地元に帰ったら友達に自慢する。信じてもらえなさそうだけど」
「なんか子供っぽい」
くすくす笑うわたしに向けて親指を立てる。
「男は何歳になっても少年の心を忘れないもんなんだぜ。Byシア・シリムス」
なにそれ! またわたしの知らないおじいちゃん情報だ。
「そういえばハヤテって何歳?」
「ん? 十九歳」
「えーっもう立派な大人だ! ほんとに子供っぽいね」
「うるせーやい」
頭をぐしゃぐしゃと撫でられて、きゃーっと笑いながら逃げ回った。お兄ちゃんがいたらこんな感じ? 胸がほかほかする。
「ってやばいもうこんな時間だ。老人って朝早いだろ? 起き出す前に帰らないと」
腰ベルトに下げた懐中時計を見て、ハヤテは慌てて出口の方へ向かう。そんなに急がなくても、もう一日くらいゆっくりしていったら? わたしの家に隠れてたら誰にも見つからないって。おじいちゃんの部屋も空いてるし……喉から出かかった言葉を飲み込んで、一緒にガレージの外へ出た。
時計はもう四時前。隙間の空はまだ暗かったけど、太陽は準備体操を始めている頃だと思う。ハヤテの言う通り、空が白くなってくると、村のお年寄りたちも起き出すの。
蛍光キノコランプが辺りを照らして、二人分の影をかたち作っている。ハヤテの影はぴょんと立った三角耳がトレードマーク。わたしの影は……特徴がないや。布を被ったおばけみたいな形。
すぅ、とシャッターの隙間をすり抜けた風が、わたしの髪を揺らした。白い髪の一本一本が身軽に舞って、ゆっくりと落ち着く。
「キレーな毛並みだなぁ」
頭一つぶん上から聞こえてきた言葉に、わたしはぱちぱちと瞬きをした。
「そう? わたしは色がなくてあんまり好きじゃないんだけど」
「俺はいいと思うぜ。ユキムシみたいで」
「ユキムシってなに?」
「白くてフワフワした虫」
「虫ぃ?」
「結構可愛いやつなんだって」
「ふーん見てみたいな」
家にある図鑑には載ってなかったけど、地上にはたくさんいる虫なのかな。
分かってはいたけど、やっぱりわたし、知らないことばっかりだ。空の上で暮らしてるのに広い空を見たことがないし、ヒト以外に二足歩行の生き物がいることさえ知らなかった。
地上にはもっとたくさんの「知らない」が溢れているのかな。本やラジオから得た知識じゃ敵わないほどのドキドキが、そこらじゅういっぱいに……
シャッターの向こうにある夜空に釘付けになっていた目の奥が熱くなって、しきりに瞬きをする。それでも全然熱は引かなくて、ぬるい夜の空気を思い切り吸い込んで数秒息を止め、ゆっくりと吐き出した。加熱したエンジンを冷やすみたいに、それを何度か繰り返すと、やっと体の芯が冷めてきた。
「村の外に出てみたいか?」
わたしの考えを見透かしたような問いかけに、思わずへなちょこな顔をしちゃった。
「俺も田舎で育ったからよく分かるよ。海の向こうとか、山の裏側とか、道の先とか……見えそうで見えないものほど憧れるんだよな」
ふにゃけた唇を結び直してすまし顔を作った。わたしも、このシャッターと岩の向こうに憧れてる……そう返したら、ハヤテはなんて言うかな?
気になったけど、口には出さない。そんなわたしを見下ろして、ハヤテは少しだけ困ったようなやさしい目をしてわたしの頭をくしゃりと撫でた。
「空、見てみたいんだろ」
え、と思わず聞き返す。
「シャッターの外まで連れてってやろうか。落っこちないように支えてやるよ」
そう言われて、視線をゆっくりと前に向けた。ボロボロの鉄柵が守っていた石の細道は、ハヤテが柵を蹴飛ばしたおかげでいつもより開けて見えて、気をつけて歩けば全然危なくなんかないんじゃないかって思えてくる。
行ってみたい。けど、足が地面にへばりついて動かない。村のみんなから言われた「危ないから入っちゃだめ」っていう言葉が勝手に再生されて、叱られているような気になる。
随分長いこと悩んでいたような気がする。早く行かなきゃいけないはずなのに、ハヤテはじっと黙って待っていてくれた。けど、わたしは結局首をゆるゆると振った。
「勝手に行ったら怒られそうだから」
ハヤテは怒りも喜びもせずに「そっか」と言って笑ってみせた。倒れた鉄柵に足が触れないように軽やかに飛び越える。一瞬、こっちに向けて手を伸ばしてくれないかなって思ったけど、そんなわけないよね。「行かない」ってわたしが言ったんだから。
「ね、また来てくれる?」
ハヤテは苦笑いをする。
「無理だよ。さっき話したろ? 上に住んでるヒト類は俺たちのことが嫌いなんだ」
予想通りの答えはわたしの顔を少しだけうつむかせた。笑って「またね」って言いたかったけど、言えそうになくて、なんだか悔しい。
視界の隅でハヤテが手を動かしている。金具や布が擦れる音がして、「カフカ」と名前を呼ばれて顔を上げる。
「へいパス」
「わっ」
小さな何かがわたしの胸に飛び込んできて、咄嗟に抱きしめるみたいにキャッチした。
手のひらから出てきたそれは、小さなコンパス。西南西の位置に黒い矢印が書いてある。口を開けたままハヤテに目を向けると、ゆっくりと腕を伸ばし、手に持っていたペンで岩の壁を指した。
「こっち、この向き。赤い方の針が矢印から動かないように、真っ直ぐに三百コルトルくらい飛べば、俺の職場に着く」
「…………」
「大人になってもまだ俺のこと覚えてたら会いに来いよ。無理にとは言わないけど」
わたしは思い切り首を横に振った。忘れるわけなんかない!
「ぜっっったいに会いに行く! 六年……ううん、もうすぐ誕生日だから、あと五年。待ってて!」
岩に向けていた黒いペンを下ろしてにっと笑い、くるんとしたしっぽが一度左右に揺れた。
「もしどこに向かってるか分からなくなったら、地上に降りてその辺の奴にココット村の配送局に行きたいって聞けば余程の世間知らず以外は教えてくれるはずだ。めちゃくちゃ目立つ外観だからな」
「余程の世間知らずって、わたしみたいな人のこと?」
「ははっ。だな」
目立つ外観ってどんなだろ。お城みたいな形とか? そもそも配送局ってどんなところで、どんな人が働いているんだろう?
ハヤテが笑って手を上げる。
「じゃあな。色々ありがとよ」
「ねえ、わたし、すごく楽しかった! またね!」
「またな」
白い歯を見せて、ハヤテはそのまま軽やかに道を辿る。あっという間に端まで行くと、真ん中から開いているシャッターの縁に手をかけて、わたしに軽く手を振った。
わたしは慌てて手を振り返す。ハヤテが体をひょいと向こう側に渡すと、腰の部分だけが空に浮いて見えた。しっぽを揺らしながら端っこまで移動して、姿が見えなくなったと思ったら、もう一度ひょこっと顔を出して手を上げる。歯を見せる笑い方を真似て、わたしもにーっと笑って返すと、ハヤテの笑顔はシャッターの向こうに引っ込んだ。
わたしはしばらくそこにいた。もし飛行機のトラブルで出発できなくなったりしたら困るでしょ? だけどそれは期待まじりの杞憂にしかならなくて、ハヤテがもう一度隙間から顔を覗かせることはなかった。
しばらくそのまま、夢の中にいるような気持ちでぼんやりしてた。空が黒から白、白からオレンジ色、オレンジ色から薄水色に変わりかけた頃、わたしはやっとシャッターに背中を向けた。
玄関を開けて家に飛び込む。見慣れた灰色の岩の中、ダイニングテーブルに残された二つのティーカップだけがいつもと違う。
夢じゃない。
心臓が大きく飛び跳ねる。右手に握ったコンパス。岩の向こう側を指す黒い矢印。
夢じゃない。
本当に、さっきまでいた。立って喋る、犬みたいな人。わたしが知らない外の世界の人。
知らなかったことをたくさん教えてくれた。誰も教えてくれなかったってことは、知っちゃいけないことだったのかもしれない。でも知っちゃったんだ。だから知らなかったことになんてできないよ。
もっと知りたい。
見てみたい。
ざらついた石の床を蹴りつけて、一目散におじいちゃんの部屋に向かう。入口にかけられたのれんを腕でのけて中に入り、埃を被った本棚の前に立ち、棚からぽいぽいと難しそうな本を放り出しては背後に積み上げていった。これも違う、あれも違う……どんどん山になって、もう一つ山ができて、また一つ山ができて……四つ目の山を作ろうとしたところで、棚の奥からこっちを向いてぱたりと倒れた本の存在に気づき、わたしは手を止めた。
手を伸ばして本を裏返す。中央には、赤と白の、かわいくてかっこいい飛行機の絵。そして上の方には、
「シア・アリムスの冒険……」
そう書かれていた。
ばっとこの本が倒れてきた段を覗き込むと、堂々と並ぶ四冊の表紙と目が合う。
こんなふうに隠してたなんて。
「おじいちゃん……」
見つかっちまったか、と声が聞こえた気がした。思わず笑みと意地悪な気持ちが込み上げてきて、口の両端が勝手に持ち上がる。
「ねえ、どんな秘密が書いてあるの?」
指先で硬い表紙をめくった。
とたんに広がる古い紙のにおいが、わたしを冒険に連れだす。
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