「電気消すね」

「うん。おやすみクレオ」

「おやすみ、カフカ」


 ぬいぐるみや明るい色のカーテンが可愛い部屋だったけど、照明を落としたら何も見えない。

 ご飯を食べて、楽しいおしゃべりをたくさんしたら、子供は眠る時間。クレオのベッドの横に置かれた来客用の簡易ベッドに寝そべって、わたしはまぶたを閉じた。


 しぃんと静かな部屋。リビングにあふれていた笑い声がまだ耳の奥に残っていて、少し寂しくなる。すぐ隣にクレオがいるのに。


 ――あの後、変じゃなかったよね。普通に笑えてたよね。


 布団に潜る。狭苦しい真っ暗な中に一人だけなのに、孤独にはなれない。洞窟村でのどうでもいい毎日が、たくさんの人に囲まれた日々の思い出が、次々に記憶の底から飛び出してめいめいに光り出す。


 村にあるブランコは、わたしが五歳の頃に作ってくれた。物心ついた時から、村にはわたし一人しか子どもがいなかったのに、小さな村の貴重な空間をあてて置いてくれたんだ。


 すれ違う人みんながわたしに声をかけてくれた。いつも、どんな時だって、無視されたことなんてなかった。わたしの誕生日だって、みんな覚えていてくれた。


 危ないことをしたら、叱ってくれた。分からないことがあったら、仕事の手を止めて教えてくれた。アイスが食べてみたいって言ったら、工夫を凝らして持ってきてくれた。道の柵が壊れていたら、すぐに看板を貼って知らせてくれた。

 

『大切じゃなきゃ、心配なんてしないよ』


 わたしにはパパもママもいないのに寂しくなかったのは、大切にされてきたから。


 ずっとみんなに愛されていたから。


「う……うー……」


 ……長老が外を見せてくれなかったのは、きっとわたしに意地悪したかっただけじゃない。本当に、なにか理由があったんだ。ちょっと考えれば分かるはずなのに。優しくされることに甘えすぎてた。大事にされることが当たり前だって思ってた。


 わたしってなんてばかなんだろ。


 たくさんひどいこと言っちゃった。わがままを言って、勝手に村を飛び出して、きっとみんなすごく心配してる。バレンさんたちはわたしのことを必死に探しているかもしれない。


 早く帰らなきゃ。帰って、謝らなきゃ。

 でも、ベルさんのところに行く約束があるし、明後日はレースにも出なきゃいけない。お世話になったみんなに迷惑はかけられない。


「……フカ……ねえ、カフカ!」

「…………う?」


 叫び声で我に返る。いつの間にか布団をひっぺがして、小さく丸まったままおえつするわたしをクレオが見下ろしていた。


「ひくっ……ク、レオ」


 勝手にしゃくりあがって、うまく声が出てこない。のろのろと体を起こすと、顔があった位置が丸く濡れていた。

 暗闇の中で、クレオの手がわたしの手を包んでいた。肉球みたいなてのひらの、熱いくらいのぬくもりが、胸のあたりまで伝わる。


「カフカ、どうしたの? なんで泣いてるの? あたし……変なこと言って、傷つけちゃった?」

「ひっぐ……違うよ、クレオ。クレオ……ふぇ、ううぅ」


 もう嘘で取り繕うことなんて到底できなくて、わたしはクレオに全部白状した。村のみんなの許可を得てきたっていうのは嘘で、本当は家出同然だってこと。そのくせに今更さみしくなって、反省して、帰りたくなっちゃったって。


 正直、呆れられると思ってた。バカだねって。だけどそんなことはなくて、クレオは手にぎゅっと力を込めて、わたしの話に耳を傾けてくれた。そして話が終わると、静かに声を漏らした。


「……なら、帰らなきゃ、だね」


 こくりと頷く。目が部屋の暗さに慣れて、クレオの表情が分かるようになった。

 クレオはすました顔で微笑んでいた。


「明日、ベルさんに会いに行ったら、もう帰ったほうがいいと思う。レースのことは、あたしからヘルガさんたちに謝っておくから。……みんなカフカのこと心配してるだろうし、一日でも早く顔を見せたほうがいいと思うし。それに……その、だから……そのっ……」


 きれいに作られていた顔は、あっとういうまに崩れた。


「やだよぉ」


 くにゃりと歪んだ唇から小さな白い牙が見える。潤んだ瞳が星の明かりをぱらりと反射したかと思ったら、まあるい水滴がこぼれ落ちた。


「こんなに早く帰るなんて聞いてない。もっとカフカといっしょにいたい……帰らないでよ。わたしだって、カフカのこと大事に思ってるんだから。やっとできた、大事な友だちなんだから」

「クレオ……」

「もっと一緒に話したい、遊びに行きたい。海にも行くって言ったじゃない。学校にも一緒に通いたい。離れたくないよ……もう一人になりたくない」


 気持ちが揺れる。わたしも、帰りたいけど帰りたくない。


 ココット村で過ごす日々の楽しさは、洞窟村では感じることができないものだった。空の青さも、朝焼けの感動も、夕暮れのもの悲しさも、日差しの暑さも、雨の後のむせ返るような湿気も、土と草の香りも、木陰でまどろむ午後の心地よさも……

 クレオ、ハヤテ、ヘルガさん、チルさんにロジャーさん、配送局のみんな、村の人たち……みんなみんな優しかった。見るもの全部が輝いていた。思い切って飛び出した世界に歓迎される、感じたことのないほどの心の高ぶり。大切な思い出。


 でも、ずっとここにはいられない。わたしの帰りを待っている人がいるんだもん。だから、


「クレオ、わたしね」

「ごめん」


 クレオの声は、いつもの調子に戻っていた。涙の跡を頬の毛先に残したまま、寂しそうに――さっきみたいに微笑む。


「わがまま言っちゃった。ごめんね」


 一息置いて、


「あたし、友達いないの」


 自分を小馬鹿にするような声で続ける。


「あたし、たまに言葉の最後に「にゃ」って付けちゃうでしょ? これってね、まだうまくしゃべれない、小さい子どもが言うことなの。五年生の時、それを友達だった子にからかわれてさ、やめてって言ったけど、やめてくれなくて。そのうちクラスの男子もあたしのことばかにするようになって、ある日怒って喧嘩になって、つい押しちゃったら、転んで怪我をして……乱暴者って、みんなが避けるようになって、学校に行けなくなっちゃった」


 なにそれ。どうしてそんなことでクレオが馬鹿にされなきゃいけないの? やめてって言ったのに、どうしてやめてくれなかったの?

 学校って、楽しいばかりじゃないの?


「パパとママが心配して、中学に入るタイミングで隣の村からここに引っ越してきた。でも、また馬鹿にされるのが怖くて、うまく喋れなくて、友達も作れなくて、結局一人ぼっち。……さみしいやつでしょ」

「なんでっ」


 わたしはムキになって首を強く横に振った。さみしいやつってなによ。友達がいなくたって別にいいじゃない。わたしだってついこの間まで、同年代の友達が一人しかいなかったんだから。

 だけどクレオの顔は浮かない。うすい掛け布団をたぐり寄せて抱きしめると、また話し出す。


「あたし、カフカに初めて会ったとき、すっごくドキドキした」

「へ?」

「あたしって趣味もないし、勉強も運動も、名前も毛色も身長もぜーんぶ普通。得意なこともないし友達もいないから、夏休みもバイトばっかり……学校よりはいいけどね。学校ある日は毎日つまんなくて、心が死んじゃいそうだったから。……でもあの日、いきなり飛行機が降りてきて、中から出てきたカフカのすっごく綺麗な毛並みを見て、信じられないくらいドキドキしたの。ずっと昔に地上からいなくなった、珍しいヒト類の女の子が目の前に現れるなんて、なんか、マンガの主人公になったみたいで、嬉しくてさ。友だちになれてからは、もっと嬉しくて楽しかった。あんなにつまんなかった毎日がキラキラして、あっという間に過ぎるていくんだもん」


 クレオの気持ちがすごく分かる。わたしも洞窟村にいたときは毎日同じ日々の繰り返しで、退屈でたまらなかったから。


「だからカフカはね、あたしの特別。フツーでダメなあたしの毎日を変えてくれた、特別な子なの。こんなに特別な子なんだからさ、そりゃみんなに心配されてるよね。だから、カフカはちゃんと帰らなきゃ…………分かってるのに、嫌なの。離れたくない……」


 そう言って膝に顔をうずめると、それきり黙ってしまった。たまに聞こえるのは鼻をすする音。丸くなった体は、いつもよりもすごく小さく見える。

 小さく震えるこの子を一人ぼっちにしたくなかった。ずっと一緒にはいられないけど、でも、せめて気持ちだけはつながっていられる別れ方にしなくちゃって思った。


「ね、クレオ、海に行こ」


 肩の震えが収まって、ちょっとだけ顔が上がった。目の周りの毛が濡れてぺったんこになってる。


「でも、早く帰らなきゃ」

「わたしが行きたいの! レースの次の日いっしょに海を見に行って、それから……帰る」

「…………でも、カフカだって泣いちゃうくらい寂しいんでしょ?」

「寂しいけど、でもクレオとの約束を守れないほうがイヤ」


 クレオが不安げに抱きしめている毛布を引っ剥がして、驚いた顔に向けて言う。


「帰るのが遅くなればなるほど怒られるだろうけど、クレオのためなら全然平気。わたしはクレオのために怒られるから、クレオはわたしのために怒られて」

「にゃ……なに? どういうこと?」

「レースの次の日バイトでしょ? 休んで。わたしのために。怒られても、ぜーったい」

「……別に、ヘルガさんなら怒んないと思うけど」

「別に怒られないならそれはそれでいいよ。はい決定。海行くからね。絶対二人で行くから。約束!」


 クレオはまくしたてるわたしを困った顔で見ていたけど、じっと見つめ合っているうちに、どちらからともなく笑っちゃった。ずっと浮かない顔をしていたクレオが笑ってるのが嬉しくて、もっと笑った。


「もう寝なさいねー」


 ドアの向こうからクレオのママの優しい声がして、わたしたちはほぼ同時に口を手でおさえた。それがまたおかしくって、声が出ないように肩で笑う。クレオのママの足音が聞こえなくなるまで待ってから、二人でわたしが寝ていたベッドに仰向けになった。

 ずっとこうしていたいけど、それはできないって分かってる。だからせめて後悔がないようにしたいな。


「海、行こ」


 顔をクレオに向けてもう一度そう言って、小指を差し出した。今度は迷いなく答えが返ってくる。


「うん」


 小指同士が絡まる。ゆびきりげんまん。

 心の中で約束をもう一つ。離れてもずっと友達でいようねって。

 きっとクレオも同じことを思ってくれてる。

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