2日目

 朝は眩しいものだって、初めて実感できたかも。むくりとベッドから起き上がって明るくなった窓の向こうの世界を覗き込むと、長い長い影が草原に落ちている。それがこの大樹のものだって気づくのに、少し時間がかかった。


 時計を見たら、まだ朝の五時にもなっていなかった。昨日散らかした服を片付けて、着替えをして、こっそりと部屋を出た。

 リビングは、昨日の記憶とはうって変わって綺麗に片付けられて、寂しいくらい静かだった。お酒と食べ物の残り香がほんのりと鼻をつく。キッチンのシンク周りには、凄い量のお酒の空き缶や瓶がひっくり返して置いてある。


 長い階段を降りて一階へ。ここももちろん誰もいない。ペンやガムテープなんかが置いてあるカウンターの横を抜けて、チリ一つ落ちていない待合室を通り過ぎ、外へ出ると、湿気を含んだ生ぬるい風になでられた。わたしの白い髪を梳くように通り過ぎていく。


 土の道から一歩外れ、背の低い草を踏むと、しゃく、と音がした。もう一歩踏み込む。しゃく、しゃく、ぴょん! 着地しても、草と土が衝撃をやわらげてくれる。

 なんだか嬉しくなって、ゆるい下り坂に向かって駆け出した。あっという間にスピードに乗って、止められなくなる。そのうち悲鳴をあげながらこけた。ごろんごろんと二回くらい回って、朝露をたくわえた葉っぱと土の上に顔から突っ込んだ。口に入った土をぺっぺと吐き出したら、さっき吹いた風を煮詰めたようなにおいがした。


 また風が吹いた。今日も熱くなるよって言ってるみたいなぬるい風。わたしはおしりが濡れるのも気にせずその場に座って、やわらかく波打つ青い草原を眺めた。

 バタタ、という低い音に顔を上げる。二階あたりの胴から生えた小さな(と言ってもわたしの背よりもずっと大きな)枝から、鳥が飛び立っていくところだった。梢を大きく揺らしながら次々に木を離れ、村のほうへと飛び去っていく。


 それに続くように、村から軽いエンジン音がした。お店みたいな建物の小さな煙突から細い煙が伸び出して、誰かがドアから出てくる。他の家からも人が出てきて、通りを人が行き交うようになって、バイクが一件一件玄関の前で立ち止まり、何かを配る。人がどんどん動き出すのに合わせて、大樹の影もゆっくりゆっくり立ち上がっていった。


 空の下で暮らす人たちの一日は、こうやって始まるんだね。人が少しづつ動き出していく様子は、案外洞窟村とそんなに変わらないのかも。

 そう思ったら、急にこの地上の村が特別なものじゃないように見えてきた。悪い意味じゃなくてね、身近に感じられるようになった、って意味で。どこに暮らしていても、見た目が違っても、同じ人間なんだなぁって。


 すくっと立ち上がる。今の気持ちを共有したい人がいる。いつもわたしの話を聞いてくれる、最高の友達。

 息を切らしながら屋上まで一気に駆け上がり、コチちゃんの中からノルンに向けて通信。出るかな。朝早いから、出なくても仕方ないけど。そわそわしながらその時を待つ。


「おはよう。どうしたの、早いね」

「でた! ノルーン!」


 寝ぼけた声を遮って、興奮のままに今の状況を伝えた。




 ほかほかほか。白く濁ったスープから骨を取り出して、ザルでこす。じっくり炒めたベーコンと野菜を入れて、もうひと煮立ち。味を整えたら完成〜。

 へへ、ノルンってばすごく驚いてたなぁ。でも一緒に喜んでくれた。会う約束については、あいにく用事が立て込んでいるみたいで、予定は立てられなかったけど。


 そこでズルッと足を引きずる音。誰か起きたのかな、と振り返る。


「ぉ、はょ」

「あ、おはよーチルさん……って大丈夫!?」

「うぅぅ水……」


 踏まれたモンドリトカゲみたいに呻きながら、小さなリス類のお姉さんが壁伝いにキッチンへと入ってきた。半開きの目から覗く眼球はぐるんと上を向いている。


「具合悪いの? はいお水」

「へっ、へっ……ちょっと飲みすぎて」

「椅子に座ってなよ。スープ作ったけど一口くらいなら食べれる?」

「たべる……」


 チルさんにお水を持たせてキッチンから追い出したら、木のお皿にスープをよそう。同じく木のスプーンを添えて、テーブルで肘をついてぐったりしているチルさんの前に出した。


「酒は飲んでも呑まれるなって知り合いのおばちゃんが言ってたよ」

「あたしもそれ家訓より深く心に刻んでんだけどな、一口飲むと忘れちゃうんだわ……」

「依存性じゃない?」


 やっぱりこの人、ちょっと駄目な大人なんだ。ハヤテも毎日大変だね。ここに居る間くらい、わたしがちゃんとお世話してあげよう。


「はよ……水」


 あなたもなの?


「いい匂いがする……なんか腹に入れたい」

「はいはい座ってて」


 ふらふらのハヤテをチルさんの隣に座らせ、同じようにスープをよそってあげた。「いただきます……」って揃って聞こえて、要介護老人みたいな動作でスプーンを口に持っていく。


「んま……」

「野菜なんてしおれたキャビ菜しかなかったでしょうに、やるわね……」

「どうも」


 初めはちびちびすするだけだったけど、食べるうちに段々と元気を取り戻したみたい。調理道具を片付け終わった頃には、だいぶ顔色が良くなってきた。


「おはよう。あらご飯もう食べてた……あ?」


 涼し気な顔を見せたのはヘルガさん。ヘルガはさんはダイニングテーブルでうつむく二人を見るなり「キュッ……」とこれでもかと瞳孔を狭めて見下ろしたあと、何事も無かったかのようにわたしに向けて笑いかけた。情けなくしおれたハヤテの耳とは違い、朝でもしゃんと立った三角耳が凛として素敵だし、ふんわり揺れるクリーム色のしっぽもつやつやで綺麗。かっこいい大人、大人のお手本って感じ!


「おはようございます! 昨日のチキンがちょっとだけ残ってたから、骨と一緒に煮込んでスープにしたの。ヘルガさんも食べる?」

「まあ素敵。少しいただこうかしら」


 そう言って小首を傾げてはにかむ。美人だし可愛い。


「私のおすそ分けはお昼にでも食べて」

「ありがとう。座っててね」


 小さなお鍋を受け取った。中身はなにかな? 朝からわたしのことを心配して料理を持ってきてくれるなんて、とっても優しいなあ。それに比べてこの二人は……


「あなたたち、また飲みすぎたの?」

「……ハイ」

「私、昨日帰る前に言ったわよね。もうやめときなさいって」

「ハイ……」

「なのにこの有様なわけね。あはっ、なんて滑稽ですこと。十三歳の子に食事を作らせて、介抱までさせて。ほんっとうに情けない」

「滅相もございません……」


 元気を取り戻しかけていた二人は、ヘルガさんの説教をこんこんと受けて、しっぽの先をまた床に向けることになった。

 わたし、大人になっても絶対にお酒もタバコもしないんだ。ジンさんとこの二人から学んだよ。


「二人とも、今日は昼まで操縦禁止。局内で事務作業してること」

「えぇ〜飛行機くらい飛ばせるよへーきへーき。お酒は残ってないし。多分」


 多分、のところでヘルガさんにギロリと睨まれて、チルさんは口を「はむっ……」とさせて気まずげに目を逸らした。


「そんな調子で事故でも起こしたらどうするの。駄目よ」


 深刻そうなお話になってきた。蚊帳の外のわたしは離れた席に座って、食べていいって言われてたパンをもしゃもしゃ食べ始める。


「でも今日のララニ行きの荷物どうするんすか?」

「私が行くわ」


 けろりと言ったセリフに、二人は大いに驚いていた。わたしはパンの端っこをスープに浸して食べる。おいしい。


「局長が? 今日九時から役場からお客さんが来るとか言ってなかったっすか?」

「これを食べてすぐに出発したら間に合うわよ。万が一遅刻しても、まあ……多少はいいでしょ。あの人たち普段から暇してるし」

「んな無茶な……毎日働きすぎっすよ」

「そーだそーだ。ヘルガさんも肩の力抜きなよ」


 ヘルガさんが無の表情で二人を睨む。その威圧感はまさしく肉食獣。誰のせいでこうなってるのよ……口に出さなくても言わんとすることが伝わってくるほどの覇気に、ハヤテとチルさんはしゅんしゅん小さくなった。わたしはパンを食べ終えた。


「もぐ……チルさんとハヤテ以外の配達員さんはいないの?」


 さすがにちょっと二人が気の毒だったから、空気を読まない一声を横から差し出してみた。ヘルガさんの顔から険が引いていく。


「いるけど、もう割り振られた仕事があるの。うちって人手不足でね、こうして一人二人抜けるだけで、もうてんてこ舞いで」

「そうなんだ。配達って楽しそうなのに」


 お給料を貰いながら飛行機に乗れるなんて得だなぁって思っちゃった。わたしもやってみたいな。コチちゃんに荷物や手紙を満載して、色んな町に行くんだ。配達先の人とお喋りしたりして……うん、想像しただけで楽しそう。


「人気のある職業ではあるんだけどね。若い子はみんな都会に行きたがるから」


 へぇ、都会ってそんなに楽しいところなのかな。いまいちピンとこずにいるわたしに、だいぶ復活してきたハヤテとチルさんが横から言う。


「ここは田舎の割に担当範囲が広くて忙しいってのもある。待遇はいいんだけどさ」

「カフカも二年後どう? 中卒歓迎よん」

「へへ、前向きに考えとくね。……ねえ、今日の荷物さ、わたしが持っていこうか?」


 え、と三人の声が重なった。そんなにおかしなこと言った?


「うちのコチちゃんってね、コンテナを吊るせるようになってるんだよ。燃費は下がるけど、でもちゃんと飛ぶらしいよ!」


 おじいちゃんは昔、こっそり貨物用コンテナにたくさんの避難民を乗せて、一人の怪我人も出さずに運んだらしいよ。まさに神業だったって自分で言ってた。


 わたしじゃそこまで上手く操縦できないと思うけど、でも運ぶのは人じゃなくて荷物だし。お世話になってる人たちが困っているなら力になりたいんだけど、ダメかなぁ。

 チルさんとハヤテはちょっと楽しそうに目線を交差させ、ヘルガさんは不安そうにペックナッツ色の瞳を揺らした。すぐに拒否しないってことは考えてるってこと。考えてるってことは、許可する可能性もあるってことだよね!


「駄目よ。何かあったら親御さんに申し訳が立たないもの」


 あれれ。


「えー、いいじゃん。せっかくだし手伝ってもらおうよ」


 この援護はチルさんから。ヘルガさんは納得いかない顔で長い足を組んだ。


「まだ十三歳の子よ?」

「クレオも十三歳だけど働いてくれてんじゃん?」

「あの子は仕分け業務だもの。運送はちょっと……」


 渋い顔を崩さないヘルガさんに、ハヤテが追撃した。


「田舎じゃ十歳にもなりゃバイクで新聞配達してますよ」

「それはそうだけど……飛行機よ?」

「そう変わらないですって」


 そうなんだ。バイクに乗ったことがないから知らなかった。

 ヘルガさんは悩んでいる。わたしは立ち上がり、最後のひと押しをした。


「ねえヘルガさん。わたしね、ここに泊めてもらえて、すっごく感謝してるんだ。だから何か役に立ちたいの。……ダメかなぁ?」


 胸の前で手を組んで、お願いのポーズ。ヘルガさんはしばらくうんうん唸ってから、きゃしゃな手首にはめられたシンプルなデザインの腕時計をちら見して、息を細く静かに吐いた。上目にわたしを見て、唇の端を上げながらゆっくりと口を開く。


「お願いできる? お給料は出すわ」


 やったー! ついぴょんっと飛び上がっちゃった。

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