「着替え、お財布、タオル、水筒、ベルさんからの手紙よし!」


 荷物をパンパンに詰め込んだ旅行カバンとショルダーバッグを縛り上げて、コチちゃんの後席足元に放り込む。

 時刻は朝四時前。ガレージの目の前では、バレン商船のみんなが慌ただしく出航の準備をしている。誰かがガレージに入ってきてわたしのたくらみがバレたらどうしようかとちょっぴりヒヤヒヤした。


 火にかけていたやかんの様子を見にキッチンに行くと、ジンさんが気だるそうにタバコを吸っていて、わたしに気がつくと軽く手を上げた。


「ジンさんおはよー。みんな忙しそうだよ。働かなくていいの?」

「もう俺の仕事は終わったからいいの。一服して脳が冴えた状態で風を読まないとな」

「ふーん」


 ぐつぐつとおしゃべりなやかんの火を弱めると、ジンさんが横から口を挟んできた。


「コーヒーでも入れてくれんの?」

「そんなわけないでしょ。……飲む?」

「冗談だよ」


 ジンさんはへらへら笑いながらタバコの火を消して、勝手口から外に出た。わたしもそれに続く。

 出航の準備はもう終わったみたいで、乗組員のほとんどがもう船内に入っていた。まさに今乗り込もうとしていたメリさんがわたしに気づいて、出入口から飛び降りて駆け寄ってくる。


「カフカおはよー! 私を見送るために早起きしてくれたの? えらい!」

「えへへ」


 そうじゃないけど、笑顔で頷いておいた。


「次来るのは来週?」

「うん。五日後になるかな? ね、バレンさん」

「ああ」


 飛行船の船首付近にいたバレンさんがのしのしと歩いてくる。


「カフカ」


 バレンさんのしゃがれた低い声が頭上から降ってきた。慣れてるけど、ちょっとだけ威圧感を感じる。


「なあに?」

「燃料」


 思わず肩がビクッてしちゃった。ジンさんに頼んだ三百トルの燃料は、みんなコチちゃんのお腹の中。ボイラー用だなんてのは嘘なの。そのことがバレちゃったのかと思ってドキドキしていたら、


「足りたか?」

「……え? う、うん! 足りたよ。ありがとう!」


 単純に心配してくれただけみたい。ほっとしたぁ。

 バレンさんは無口で無愛想だけど、こんな感じでいつもわたしのことを気にかけてくれる。バレンさんが子供の頃、うちのおじいちゃんによく懐いていたらしくて、そのおかげでわたしにも優しくしてくれるのかも。


「……あ? そういやお前、今日誕生日か」

「うん」


 バレンさんがそう言って頭をガリガリかくと、メリさんとジンさんが目を丸くした。


「そうだったの? おめでとー!」

「もう十三歳か」

「ありがとう。そうだよ。もうお姉さんかな?」

「自信持って言いきれないところがまだまだお子ちゃまって感じだな」

「ちぇっ」

「ジンさんひどーい」


 ジンさんがからかうように笑って、メリさんがそれを横目に睨んだ。ヘラヘラしながら懐からタバコの箱を取り出しかけたところでメリさんに手をはたかれる。


「禁煙!」

「つい手癖で……」


 十歳も歳下のメリさんに叱られてるのを見ていると、ジンさんってダメ人間って感じがするね。

 二人のやりとりを眺めていたら、ほっぺたに板のようなものが押し付けられた。なあに?


「やる」


 そう言ったのはバレンさん。受け取ると、それは銀色の包み紙に覆われた四角い物体だった。なんか生暖かい。


「なにこれ」

「チョコ」


 食べかけだ。


「……ちょっと溶けてる。ありがとう」

「ああ」


 ずっとポケットに入れてたのかな。あとでおやつにしようっと。空の上で食べるチョコの味は、いつもよりずっと美味しいに違いないよ。こうして食べかけの板チョコはバレンさんのポケットからわたしのポケットへと移されましたとさ。

 わたしの手の動きをじーっと見ていたバレンさんが、また唐突に口を開いた。


「今日は何するんだ」

「へ!?」


 藪から棒になに? 思わずきょどきょどして言葉に詰まっちゃう。


「誕生日なら村の老人どもがなんか用意してるんじゃないのか」

「あ……うん、多分」


 わたしの誕生日には、いつも村のみんながご馳走を作ってお祝いしてくれる。わたしがいなかったら、ご馳走が全部無駄になっちゃうのかな? こんな日に家出(村出?)だなんて、ちょっと罪悪感が湧いてきた。

 バレンさんはわたしが浮かない顔をしだしたのが気になったのか、大きな手をぼすんとわたしの頭に乗せた。


「老人どもを悲しませるなよ。お前のことを何より大切にしてるんだからな」

「うん……」


 なんか勘づいてる? 汗がたらりと背中を伝う。バレンさんは頭から手を離して「じゃあな」と背中を向けて、船に向かって何歩か進んだところでちらっと店の方を見て足を止めた。

 何を見てるんだろ。バレンさんの視線の先を探すと、わたしが吊るしておいた目隠しの白い布が! 縛って脇にまとめておいたはずなのに、いつのまにか広がって風に揺られてる。


「なんだあれ」

「わあー! なんでもない! なんでもないから!」


 慌てて布をまとめて、地面に落ちていた紐できつーく縛る。三人の方に向き直り、手を広げながらにっこり笑ってジャジャーン! なんでもありませんよ〜。


「……何企んでんだ」


 だめだった!


「たたた企んでなんかないよ!」

「誕生日会の飾り?」

「そうそれ! メリさんの言う通り!」

「お子ちゃまの嘘は分かりやすいねぇ」

「嘘じゃないしお子ちゃまでもないよ! ジンさんのばか!」


 バレンさんが口をへの字にしてわたしをじっと見てる。どうにかして誤魔化さなきゃ。でも上手い言い訳が全然思いつかないよ……頭はぽかぽか、体の芯はひやひや。だけど焦りに焦るわたしの心境を見逃してくれたみたいに、バレンさんからそれ以上の追求はなく、ため息ひとつを残してくるりと背中を向けた。


「行くぞ」

「はーい。またね、カフカ」

「うい。じゃな」

「あ……ばいばい……」


 手汗まみれの手のひらを見せてゆらゆらと振る。命拾いしたみたい?

 メリさんが係留ロープを解き、いよいよ出港だ。わたしは慌てて家に戻ると熱されすぎて悲鳴をあげているやかんを火から下ろし、両手で慎重に持ってガレージへと向かう。機体の下部に取り付けられた揚力機関から、後方へと伸びるパイプの先に、給水口がある。その黒いキャップを開けてそこに沸かしたお湯を全て注ぎ、プッシュポンプを何度か押して揚力機関に温水を行き渡らせてから、操縦席に飛び乗ってゆっくりとレバーを引いた。


 コチちゃんは腕を広げてバランスを取っているみたいに、ふらふらと揺れながら音もなく体を浮かばせた。胸の奥がぞくんとする。体で感じる浮遊感とは、なにか別の。

 レバーを押し戻して機体を降ろす。船がシャッターをくぐったら、それに便乗してこっそり村を出るんだ。そしてコンパスに従って真っ直ぐに進んで、ハヤテとシアさんに会って、外の風景を目いっぱい楽しむまで帰ってこない。


 後部座席に置いてあったぶかぶかのジャケットに袖を通し、帽子を鼻に近づける。


「カビ臭くー、ない!」


 何度か洗濯をしたおかげで、ホコリっぽい見た目も綺麗になった。帽子を被ってみると、あらかじめ目いっぱいベルトを締めておいたおかげで、わたしの頭にぴったり。


 ショルダーバッグには大事なものが入っている。お財布、ベルさんの手紙、非常食のクッキー。容量にはまだ余裕があるから、地上で素敵なものを見つけたら、中に入れて持ち帰ることもできる。


 ごうんと、お腹の底に響くエンジン音がして、振動が計器の針を震わせた。出発するんだ! コチちゃんから飛び降りてドアの隙間から外を伺う。たくさんのプロペラが周りだし、全開になった村の出口へ向けてのっそりと動き出したのを見て、わたしは慌てて操縦席へと戻り、エンジンキーを回した。


 きゅるる。引きつった音が一度、二度。どちらも飛行船のエンジン音にかき消されて、わたしにしか聞こえない。

 少し置いて、もう一度回す。小さな箱の中で頼もしい爆発が起こり、ピストンを動かし始めた。規則的なエンジン音がガレージ内を反射して回り、同時に、始動時の濃い排気ガスがぶわりと充満する。思わず咳込んだけど、ちょっとだけがまん。口と鼻を袖で抑えながらガレージのシャッター前に歩いていき、飛行船のエンジン音が遠のいていくのに耳を澄ます。


 いよいよだ。わたし、外に出られるんだ。もう抑えられないくらいドキドキしている。


 村中に響いていた音がふっと遠くなった。飛行船が完全に村を出たんだ。指先に力を込めて、重たいシャッターを少し持ち上げる。生まれた小さな隙間に両手を差し入れ、腕を思いっきり振り上げた!


「いっ、くぞー!」


 わたしの掛け声と一緒に、ガラガラと音を立てて勢いよく上まで跳ね上がる。

 開け放たれたシャッターの向こうには、日の出前の綺麗な空が……


「どこへ行くって?」


 目の前で、腕を組んで気だるげに首を傾げている人がいる。


 思いもよらない事態に、わたしは思わず二、三歩後退り、そのまま身体がカチコチに固まってしまった。


 バレンさんが、険しい顔でじいっとわたしを見ている。

 なんでいるの? 飛行船はもう出発したんじゃないの?


「……ボイラーのタンクなんてせいぜい三十トルだろ。一度に三百トルもペトロ燃料が欲しいだなんておかしいと思ったんだよ」


 わたしの心を見透かしているみたいにため息混じりでそう言って、転がっていた輪止めを足で車輪の横に寄せた。それからわたしの横を通り過ぎ、壁際に置いてあった混合燃料の空き缶を大きな手でつまみ、軽く振る。


「空か。メンテナンスがてらエンジンをかける程度なら、使用期限までに一缶使い切れないのが普通なんだがな」


 ああ、全部ばれてる。熱く高鳴っていた心臓がぎゅんぎゅん冷えて、汗だくになる。

 バレンさんは缶をゆっくりと床に下ろし、コチちゃんの操縦席に腕を伸ばしてエンジンを切った。

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