「うん……」


 無線機から聞こえてくるノルンの声に頷いて、わたしは何枚目か分からないちり紙を手に取って鼻を拭いた。


「何か理由があるのかもしれないけど……それにしたって外の空気さえ吸わせてくれないなんて、ちょっと意地悪すぎるよ」

「ぐすっ……だよね。ひどいよね。自分たちばっかりずるい」


 操縦席の中で膝を抱えてつま先を重ねる。無線機越しに聞こえるノルンの吐息から心配してくれているの伝わってきて、わたしはちょっとだけ心が軽くなった。


「カフカのそばにいられたらいいのにな。そしたら一緒に遊んだり、愚痴を聞いたり、カフカの味方になったりできるのに」

「それ無線越しでもしてくれてるじゃん。しりとりしたり、わたしの愚痴を聞いて味方になってくれたり」


 あ、とノルンが間の抜けた声をあげたから、わたしはくすくす笑っちゃった。照れくさそうな吐息がマイクをカサカサ鳴らす。


「いつもありがと」

「……うん。こっちこそ」


 気分が良くなってきた。わたしはなんとなく無線機の小さなランプに指先を押し付けた。

 黄色い光といえばお昼の光。夕方は赤色、朝日は……白? オレンジ色? うーん、シャッターの隙間から覗いたくらいじゃはっきり分からない。ハヤテはどんな色の光を眺めながら家に帰ったのかな?


 今朝のことを思い出す。外に行ってみるかって聞かれた時、やっぱりわたしも着いて行ったらよかった。ハヤテのもちふわな手を借りながら壊れた鉄柵を乗り越えて、細い通路をこわごわ進んで、一緒にシャッターを乗り越えて、村の外に広がる空を見るの。わあなんて綺麗! じゃあね、道中(空中?)気をつけて。どんどん小さくなっていく飛行機に手を振って、わたしは朝日を浴びながら満足気に家に戻る。夕方になって狡いおじい二人組に会っても全然平気。「ごきげんよう。わたしだって空くらいみたことあるから羨ましくなんかないのよ」「ええっいつの間に?」「それは秘密。おほほほ」ってお話して喧嘩にもならない。


「正解はこれだったかぁ……」

「ふぁぐ、なんの話?」

「こっちの話。ねえなんか食べてる?」

「食べてないよ。歯磨きしてた」

「ならよかった。夜に食べたら太るからね」


 昨日の自分を棚に上げてそう言うと、返事みたいにシャコシャコ聞こえてきた。

 わたしたちは話すことがなくなると、めいめい好きに活動しだす。本を読んだり考えごとをしたり。独り言が聞こえてきたら反応したり、そこからまた会話になったりならなかったり。やってることは一人の時と変わらなくても、そばに友達がいると思うだけで嬉しいし落ち着くんだ。


「ねー、今の空って星出てる?」


 無線機の向こうで服が擦れて、ギッと椅子が鳴った。


「見える。綺麗だよ」

「いいなー。何個くらい?」

「んー、三百兆個」

「すごーい」


 そんなに星があったら超巨大ダウ座が作り放題だね。でも空想の星空には、三百兆個の星はさすがに描ききれない。想像よりも現実の方が素敵ってことね。はいはい。


「うがいひてくう」

「んー」


 投げやりに返事をして天井を見上げた。蛍光キノコランプの光にぼんやり照らされた、剥き出しの鉄骨が支える薄いトタンの屋根。その向こうにある岩の天井。更にその向こうに広がる黒い空と星の粒。


 想像するだけで身体の奥からじわっと何かが湧き上がる。


 空や外の世界には何度も憧れたけど、今日の気持ちは今までとはどこか違った。

 ハヤテに会って、曖昧だった憧れが確かに縁取られた。話で聞くだけだった世界がぐんと近づいてきて、さわれそうなほど確かになって。


 天井に手を伸ばす。胸の鼓動がトクトクと早まっていく。

 もう昨日までの自分には戻れないみたい。


「……空、見てみたいな」


 村の外に出てみたい。


「長老の家に忍び込んでやろうかな。鍵はトンカチで破壊して……」

「物騒な独り言」


 ノルンが戻ってきた。


「ねえノルン、わたし決めた。空を見に行く」


 一瞬沈黙。目をぱちくりさせている気配がする。


「いいと思うけど、どうやって?」

「そこなの! やっぱり長老の家の隠し部屋に不法侵入かなー」


 ……いや待って。出口ならもう一箇所ある。


 なんで思いつかなかったんだろ。せっかくハヤテが柵を壊してくれたのに。別にハヤテがいなくたって通れるじゃない!


「ちょっと行ってくる!」

「早っ。ちょ、カフカ……おーい」


 コチちゃんの翼から蛍光キノコランプをひったくって、わたしは飛び跳ねるみたいにガレージを出た。すぐ左手を見ると、いつものように換気のためにうっすらと開かれたシャッター。そして蹴飛ばされたボロボロの柵が、


「……ない」


 錆びた鉄柵は綺麗に片付けられていて、代わりにがっしりした木材がバッテンの形に組まれ、キケンと大きく書かれた張り紙がしてあった。


「なによもー!」


 変なところで仕事が早いんだから! 恨みをこめて非常通路を睨みつけると不思議なことに昨日よりも広く、わたしでも通れそうに見えた。


 とぼとぼとコチちゃんのところへ戻って声をかけると、すっかり気の抜けたノルンの声が返ってきた。もうおねむらしいノルンにおやすみを言って、人差し指で電源を切る。


 ヘッドセットを定位置に戻すと、あっという間に一人の世界。計器の光が消えた薄暗い操縦席の中で膝を抱えた。

 こうやってコチちゃんの中にいると落ち着く。ノルンみたいに優しく慰めてくれないし、推理小説に出てくるバーのマスターみたいに小粋なジョークで楽しませてはくれないけど、いつでもおいでって思ってくれているような気がする。


「あのねぇコチちゃん。今日ね、コチちゃんが大活躍する本を読んだよ。おじいちゃんと一緒に空を飛び回って、悪い空賊をやっつけたり、鳥竜と競走したり……かっこよかったよ」


 本の内容を思い出しながら操縦席から手を出してボディを撫でる。固くひんやりした感触。そのまま手をくっつけていると、わたしの手の温もりとボディの冷たさが段々と混じりあって、まるで一つになったみたいだった。

 かっこよくて可愛い、おじいちゃんの相棒。赤と白のぴかぴかボディが、まぶたの裏の空を舞う。


「……コチちゃんも、ずっとここにいるの?」


 おじいちゃんに置いていかれたっていう点では、わたしたちって似たもの同士かも。一人じゃこの村から出られないっていうところも。

 もしもわたしが大人になって村を出ることになっても、コチちゃんはずっとここで暮らすのかな。埃をかぶって、くすんで、プロペラも回らないくらいクモの巣が絡んで……


 それってなんだか、すごく寂しいな。


「コチちゃんがもっと……こう、これくらい小さかったらさ、抱っこして連れて行ってあげられるのにね。それか逆に、わたしのことを乗せて……」


 胸の前で手振りをして小さな丸を作りながらそう言って、わたしはぴたっと動きを止めた。


「…………」 


 頭に浮かんだ、ちょっぴり無茶な想像。


 そわそわした気持ちで操縦席を出る。ランプを持ってコチちゃんの全身を眺めて、それから視線をガレージのシャッターへと移す。シャッターの横幅は、広げた羽の先がギリギリ当たらないくらい。縦方向には余裕がある。


 少し錆びついた鍵を回し開けて、なるべく音が響かないように、慎重にシャッターを持ち上げた。私の身長の高さまで上げたら、一歩外に踏み出す。くるりとガレージに向き直ると、外を向いたコチちゃんと目が合った。夜風が背後から吹き付けて、わたしの髪をぱらぱらと散らしたあと、コチちゃんの両翼に裂かれて周りの空気に馴染んだ。

 新鮮な空気を吸い込む。体を前に傾けて、手を膝に当て、そして話しかける。


「……わたしのことも、乗せてくれる?」


 鼻先のプロペラが、首を傾げたみたいに小さく揺れた。




 数日後。


「ありがとーございました」


 見知った顔のおばあちゃんが、買い物を終えて店から出ていく。ドアが閉まるのを見届けてから、預かった数枚のお札と小銭をレジの中に仕舞った。

 おじいちゃんが始めた、小さな村の日用品店。開店当初から商売気はこれっぽっちもなかったみたいで、代替わりした今も、バレンさんから仕入れた商品をほぼ横流しで村人たちに売っている。この村に住んでいたらお金を使う機会なんてほとんど無いから、利益よりも住人からの感謝を得たほうが得だって思ったんだろうね。


 レジカウンターの椅子から降りて、小さな店内を練り歩く。壁に沿って置かれた陳列棚には空きが目立ってきた。明日はバレンさんが来る日だから、足りない物を仕入れるためにメモに書いておくの。


「おぉい」


 ドアベルが鳴るのと同時に聞こえた声に、わたしは動きを止めて唇を結んだ。


「カフカちゃん、ちょっとお買い物させてくれんかなぁ〜」

「はい、ご自由にどうぞ。お金はそこに置いて行ってください」

「そんなぁ」


 ドアの隙間からひょっこり顔を覗かせたゆで卵みたいな頭。長老だった。


「まだ怒ってるかい?」


 当たり前でしょ! って返しそうになったけど、深呼吸を挟んで冷静に返事をした。


「なにが? わたし配達で忙しいから。じゃあね」


 ドアの隙間のゆで卵が干からびたみたいにしおれる。ちょっと胸が痛むしょんぼり顔に、ぷいっと背中を向けると、


「カフカちゃん、俺たちが悪かった! 話し合おうよぉ」


 もう一人の悪じじ、ベンさんがお店になだれ込んできた! ただでさえ小さな店内がムワッと狭苦しくなる。


「わたしは話したくないから! いつもみたいに、空でも眺めながら、二人で話せばー?」


 いじめっこみたいなことを言い捨てて、店の奥にある倉庫へと逃げ込んだ。

 わたしは別に、おじいちゃんを生き返らせろとか、友達が欲しいから子供を何人かさらってこいとか、そういう無茶なお願いをしているわけじゃない。なのにあんな態度を取られたらたまったものじゃないよ。

 ぜーったい許さないんだから!




「うんしょ」


 薄暗い倉庫の棚の上に隠すように置いてあった、『シア・アリムスの冒険』四巻を手に持ち、家のリビングへと向かう。

 三巻は昨夜読み終えたばかり。大昔の王様が残した財宝の在処を突き止めたおじいちゃんとベルさんが、ついにその場所へと向かう……っていうところで三巻は終わり。この引きで次の巻に手をつけずにぐっすり寝られる人なんてわたしくらいじゃない?


  ここで問題、なぜわたしは昨日早めに寝られたのでしょう。チクチクタクタク……正解は、この質素な我が家をご覧下さい! もし財宝を手に入れていたら、うちのテーブルは金でできていたはず。オチが分かってるせいでちょっと興ざめだったの。


 それでも、いざ読み始めたら止まらなくなる。数時間かけて約四百枚の紙をめくり終わったわたしは、満ち足りた気持ちで息を吐き、本を抱きしめた。


「お前という相棒さえいれば、財宝なんていらないぜ……うふっ」


 恥ずかしー! でもちょっとカッコイイ。財宝よりも相棒であるベルさんとの絆を選んだおじいちゃん。そんなに大事な相棒がいただなんて、羨ましくなっちゃう。


 でもさ、本に財宝を手に入れました! なんて書いたら角が立つから、あえて嘘をついている可能性もあるんじゃない? だったらいいな。いいなったらいいな……うきうきしながら転がったソファのへたりっぷりを感じて、そんなわけがないって思い知らされた。ちぇっ。


 最終巻である五巻はまた明日ね。寝そべっていたソファから勢いをつけて立ち上がり、短い廊下を抜けておじいちゃんの部屋に入る。つい先日までがらんとしていた部屋には大きなシーツが広げられていた。


「今日はここまで縫うぞー! がんばるっ」


 一人で決意表明をしながら裁縫箱から縫い針と糸を取り出してベッドに腰掛けた。床に置かれたシーツを膝の上にたぐり寄せて、まち針で留めてある部分をすいすいと塗っていく。


 今のわたしの脳内は大半が『計画』のことで占められている。

 今に見ててよね。いじわるおじい二人組の腰を抜かしてやるんだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る