第123話 利害関係で結ばれた「親子」の実態
「共通の敵というのは、よくわかる。で、だな、東さんから見た共通の敵である君と大槻さんの間は、どうなんだい?」
賀来氏の質問に、米河氏は水を少し飲んで、さらに話を続ける。
わしと大槻さんの間というのは、まさに、親子くらいの年齢差がある。
親世代と子世代の「対立」なんて、いつの時代もあるものよ。
ただ、わしから見た限りではあるのだが、大槻さんに限らず、あの世代、まさに団塊の世代の人たちとの間の感覚を思うにつけ、そういう「対立感」ってのが、まったくと言っていいほど、感じないのよ。
なんでだろう?
わしは別に、あの世代の人らとは、まあその、実際に両親とも同じ世代で、大槻さんよりどちらも少し若いわけだが、まったくと言っていいほど、いやあ、対立軸を探すのに苦労するどころか、もう、大儀になってしていないと言ってもいいほどで、マジもマジで、対立感がないのよ。
それが証拠に、だな、去年公開された「三島由紀夫と東大全共闘」の映画を観ていてもね、まったく、世代差を感じないのね。そりゃあ、周りの雰囲気とか、その時代ならではの、それこそ、おたくサンの母校の教室内で、大作家と20代前半の若い学生諸氏が対談するのはいいが、お互い煙草をふかし合ってとかね、ああいうことが許容された時代であったことは確かだが、そういう差はもちろんわかるけど、わし自身はと言えば、煙草は御覧のとおり吸わないし、1本も吸ったことが人生50年を超えたが、ない。吸う気もならなんだし、これからも吸う気はない。金がもったいないわい、酒代もいるしな(苦笑)。
なんかだんだん、わけのわからん話になってきたけどやな、要するにね、あの団塊の世代、親世代とは、わし自身、対立軸なしで、むしろ、その感覚のまま、今に至っているという感じ。表面的な違いはあるが、あの感覚こそが、しっくりくるのよ。
そうなると、対立の必要は、利害関係を差し引いても、ないってこと。
もちろん、わしと大槻さんの間というのは、愛情がどうとかこうとかいった情緒論なんかほとんどなしで、利害関係で結ばれているような様相が強かったのは確かではあるが、お互い、必要以上の干渉はしないで、黙々と自らの道を行くというかね、そういう「同業者」みたいな感じかな。
もちろん、相手の余計なところに入り込めばぶつかり合いも起ろうが、そんな無駄なことをしているヒマは、お互い、ビタの1秒ないというところやね。
それぞれが、「己との闘い」に挑んでいて、協力できるところはする。助け合うところは助け合う。でも、お互いに余計なことには入り込まない。
こんな感覚であれば、わしらが子どもの頃に流行った青春ドラマみたいな関係なんか生まれる余地は、ないわな。あんなものは、時間と労力の無駄でしかない。
具体的に誰がとは言わんが、情緒論の好きな人らからすれば、わしも大槻さんも、えらい冷たい人間に見られているだろうな、さぞかし。
ここまで言い終えて、米河氏は幾分薄くなったアイスコーヒーをすすった。
賀来氏も、それに続く。
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