第74話 ついに、その時が来たな・・・
哲郎、済まんな。ちょっとだけ、付合ってくれ。
老紳士が、目の前に現れた。予告されていたこととはいえ、現実に夢に出てこられたあかつきには、さすがに、思うところがないわけでもない。
大槻君は、結局、あのような形になったな。
今西さん(注:大槻夫人の旧姓)が、わしの前で言っておったことが、しかしまさか、このような形で現実化してしまったとは、なぁ・・・。
哲郎はすでに60歳を超えておるし、大槻君にしてもまだ50代半ばとはいえ、今どきは人生まだまだ続くこの方に及んで、年がいったら夫婦仲良くねぎらい合って、とか、そんな情緒論は、あの二人には、どちらも通用しなかったな。
こういう形で大槻家というものが壊れてしまった、というか・・・、
老紳士の言葉を、大宮氏が継ぐ。60代の紳士は、既に鬼籍に入って久しい恩人に対して、生前会って話していた若い頃のような調子で、自説を披露していく。
おじさん、大槻君と奥さんと、それに2人の息子さんたちの「大槻家」と銘打たれてきた組織は、潰れたとも、壊れたとも、もちろん解釈できないわけじゃない。
現に、そういうとり方をする人は、多いと思う。
その「家」というゲマインシャフトだけを見れば、そうだ。
ただぼくの見立てでは、ね、この度の「事件」は、大槻家というのは確かに壊れたと言えなくはないけれども、それはあの組織の構成員たちの属性や行動傾向を考えてみるに、屁理屈といわれるかもしれないが、大槻家というのは、構成員各々のこれからのために「発展的解消」がなされたのではないか。
ぼくは、そう捉えている。
おじさんの世代の人たちには、こんなのは若い世代のとんだ詭弁といわれるかもしれない。だけど、今の時代は、ぼくらくらいの年齢の者にとっても、このくらいの事例はごくごく当たり前のように起きている。ひょっとすると、誰もが結婚して子を得てその子を育て、やがて巣立ったら夫婦水入らずで仲良く老後を・・・、なんて社会モデル自体に、そもそも無理があったのかもしれないね。
確かに血のつながりというのはあって、それは生涯切れることはない。
ぼくと息子の太郎、その息子や娘である孫たちとは、そんな関係だ。兄にしても、傍系ではあるが共通の両親を抱いている以上、それはあてはまる。
しかしね、夫婦というのは、血のつながりはない。
なまじ近い血縁関係の両親から生まれた子というのは、いろいろあるよね。それはまあ、ここでは言わないでおくけど。
そんなことを考えていったら、夫婦というのは、切れない縁をあまりに固定化させないための、しかしそれでいて、切れない縁を切らずに済ませていくための、そんな関係性を本質的に含んだものではないかと。
大槻君と奥さんは、確かにここで別れた。
息子の太郎や嫁のたまきちゃんの大学の後輩になる米河清治君、よつ葉園にもいたことのある青年ですけどね、彼の両親のように、大槻君と奥さんが、離婚後一度も顔を合わせないという形になるか、それともどこかでたびたび会うような関係になるのか、それは、わからない。
しかし、大槻君にとっても奥さんにとっても、2人の息子さんたちにとっては、それでもやはり父親であり、母親であることは、否定することのできない、厳然とした事実なのですよ。
そんなことを、ぼくは、昨日おじさんにお会いしてから、ずっと、考えていた。
どうでしょうか?
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