第37話 好き嫌いと適性と仕事
ところで米ちゃん、君のかねての御主張と関わってくると思うが、松井選手は、あの後巨人に入団したでしょ、本人は阪神ファンだったけど。彼は野球の才能があって野球をし続けて、それで、プロになった。野球自体が嫌いでどうにもならなければ、無論あそこまで力をつけられるとも思えないが、それはともかくとして、好きなチームに入ることと、あくまでも仕事としてそうでもないチームに入るのと比べてみて、どうだろうか?
松井選手は、巨人に入ったことであれだけの選手になれた。
もちろん阪神に入っても、すごい選手になったとは思うが、どうかな?
あそこまでの選手に、なれただろうか?
オレには、そうも思えない。
君の御意見は、いかに?
賀来氏の質問に対し、阪神ファンの米河氏は答える。
実は、わしも、それは同意見でね。
彼は、何と言っても長嶋茂雄というあの世界では歴史を作った人物の後継者として、その人物本人から大いに指導を受けて、あそこまでになったわけよ。もちろん、川上哲治さんが阪神にいた安藤選手に事あるごとにアドバイスを送っていたような関係、あるいは、長嶋さんが掛布選手に打撃のアドバイスを送っていたような関係に、もし松井選手が阪神に行ったとしてもなっていたとは思うが、何と言っても、長嶋さんが監督をするチームで、その後継者として手取り足取り指導されて、あそこまでの選手になれたわけだからな。
好きなチームに行ければそれで目的達成なら、何としても拒否して阪神に、ということもできたかもしれないが、それはしかし、野球人としてはもったいない話よ。
これは仕事でも同じでね、わしも経験があるが、鉄道模型の運転をある鉄道会社のイベントで依頼されて、2日にわたってその会場の司会と警備をしたことがあった。あの時はだな、趣味と仕事の差を、いやというほど痛感した。
鉄道会社に入らなくてよかった、鉄道がらみの仕事についていなくてよかったと、あの時ぐらい肌身にしみて感じたことはない。
実は、小説を書いていられるのも、それと同じでね、もともとその分野はさほど好きでもないからこそ、わしは小説を書くという仕事ができているのよ。これはもう、あちこちでエッセイに書いている通りだけどね。まさに、野村克也さんのプロ入りのときのエピソードのトレースよ。
話が徐々にずれていくようにも思えないではないが、ある意味、もっと大きな視点で話が「深化」していくような流れになってきている。
賀来氏はチェイサーの水を少し体に流し込んで、口を開いた。
その話も、もうよく読ませていただいておるから、十分理解しておりますよ。
まず、君は昔から本を読むのは嫌いじゃなかった。むしろ好きだったと思われる。文章を書く方はどうかというと、こちらは、かなり時間がかかったが、しかし、何段階かにわたってとはいえ、いったん書き出したら、怒涛のように文字を紡いでいくだけの力をつけてきた。
書けるまでにはぼくが見ていてもなんかこいつ、何でもっと書けないのかなと思うときもあったけど、何のことはない。ひとたび書き出したら、それなりにものを書く人らなど、比にならんほどの文章を、早く正確に、小説であれエッセイであれ何であれ、書けるようになって今に至っている。
その点において君は、書くことも嫌いではないと思うし、むしろ、昔からそういう仕事をしたいという願望があったと思える。
しかし、じゃあ、君の好きなこと、例えば鉄道がらみの記事を書いたり、あるいは野球絡みのノンフィクションとか、そういう世界には君は結局、行っているとは言えないわな。小説という、いささか異色な世界を選んだ。
そのあたりの選択は、確かに、野村克也さんのプロ入団前のテストを受ける球団を検討したときの思考回路と、まったくと言っていいほど軌を一にしている。
そこは、ぼくにも十分理解できるよ。
どうやら、仕事と趣味の話へと進んでいくような雰囲気になってきた。
彼らは改めて、珈琲のおかわりとチェイサーの水を所望した。
まだ、日は暮れていない。
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