第25話 正と破の逆転

 夢について早速話したいところだけど、その前に、賀来ちゃんは、ご自身のおられる世界ではたいがい、同床異夢が当たり前の世界ってこと、言ったよな。

 その世界のことについては、わしもまったく同感だが、それは置いておこう。

 さて、なんであんな言葉が大昔から言われてきたかと考えてみよう。

 普通は、同じ目的に向って進む、それこそ、社会主義国あたりの言う「同志」って言葉でくくられるような関係にある人たち同士なら、同じ目的に向って同じ場所にいる者同士、ってことで、同じ「夢」を見ているのが普通だという認識があって、それが本来の、とまではいわなくても、当然、普通にある状態である、そんな認識がベースにあって、ところが、そうでないようなことが珍しく、しかも目立つような形で起きているから、ああいう言葉ができたのではないか、と、わしは考えた。

 もしそうだとするなら、同じ目的に向って進む者同士、例えば、あの例ではほぼ幼馴染とも言っていいであろう、縁あって夫婦になった者同士、しかも新婚の日で同じベッドの上で寝ていた一組2名の男女が、同じ場所で同じ夢を見たってことになればだな、それは本来、どこでも起こっていて当然なこと、なんて感じで、何の違和感もなく受け止められるはずだと思うでしょ?

 ところが、わし、こうして書いてみて、まあ、その、わしやわしの先輩の石本さん側についてはまあともかくとしても、夫婦でまったく同じ日に同じ場所で、同じようなどころかまったく同じ光景からの夢を見るなんて、そのほうがむしろ「同床異夢」という状態よりも、珍しいというかレアな事例じゃないかとさえ思えてならんのよ。

 じゃあ、「同床同夢」なんて言葉は昔からあったのかと言われると、そんなことはないわけね。

 はっきり言うまでもない。

 わしの造語やで。

 本来なら「同床同夢」が「正」の状態であることを前提として、この「同床異夢」という言葉ができて、本来の状況と異なる「破」の位置づけにあてられた。

 それがなぜか、わしが、本来「正」であるはずの位置取りにあるような事例をこうして紹介してみたら、紹介した当のわしまでが、なんか、奇妙な違和感を抱くに至ったのはなぜだろうか、ってね。

 ひょっとこれ、本来の「正」と「破」が、逆転している状態ではないかと、わしは、そんなことを考えずにはいられなくなってきて、な・・・。


 ここまで聞いた賀来氏は、珈琲をすすりつつも興味深そうに話を聞いていたのだが、対手の米河氏が一息入れて珈琲をすすった段階で、口を開いた。


 なるほどな。

 そう言われてみれば、そうだ。

 大体、ぼくら以上に言葉を使って仕事せざるを得ん米ちゃんの意識からすれば、そういうところに気が回っていくのも、無理は、ないな。

 言われるほどに、なるほど・・・、としか言いようがない。

 それはともかくとして、そもそもなんで、大宮さんご夫妻が、新婚早々、まあそれまで十数年来お互い付合ってきていたというのはあったとはいえ、そんな日に限って同じ場面からの夢を、ひょっとするまでもなく、それはほぼ同じ時間に同時進行で観たってことになるのだろうけど、この際、多少のタイムラグは問わない。

 君のほうのも、含めてな。

 なぜ、伯備線の「やくも」で、同じ日の光景が、同じ人物同士の夢として出てきたのか、そういう夢を見るまでの伏線というかな、そこがまず、ぼくとしては気になるところなのだが、おおむね、見当はついている。

 それはおそらく、お二人の人生である時期から大きく影響を与えた人物が間違いなくいて、だな、その人物が、そういう話をしょっちゅう、もしくは、長期間にわたって断続的にでもやらかしていたからではないかと、ぼくは考察する。

 で、その考察に該当する人物なのだが、何人かいるであろうとは思われるが、その一番中心になる人物というのが、いるはずや。


 そこまで語った賀来氏、残りの珈琲を飲み干して、近くにいた女性店員におかわりを所望。一方の米河氏も、ほぼ同時に残りを飲み干し、賀来氏の注文に「便乗」しておかわりを頼むとともに、チェイサーの水を口に含んで、飲みこんだ。


「それ、わしのことか。まあ、問うだけ野暮やねんけど・・・」

「その通り。他のどなたでもなかろう。この作品で語られた話が実話かどうかは、もはや問題ではない。この作品で語られた「夢」を複数人が同時に見たというのが、そもそも、あってもおかしくはないかもしれないが、ここまでの形で君の言う「同床同夢」を地で行く状況が発生すること自体が、むしろ本来、起こりえないほど珍しい事例だってことに気付くはずだ。ぼくも含めた第三者の読者としては、な・・・」

「そう、まったくもってそこやねん。本来「破」であるはずの「同床異夢」という状態が実はむしろ「正」で、このような「同床同夢」というべき、それもわしの定義した言葉どおりの、それもそのものずばりな状況が起こっていて、そのくらいのほうが「正」として扱われるべきところ、いざ実際起こったとなれば、何の違和感もなく普通のこととは取れず、むしろ、とんでもない奇跡のような印象さえ受ける。「正」のはずが、「破」の極致に実はあるってことに気づかされると言ったらいいような感じというか感覚やねんな、これ・・・」


 女性店員が、珈琲を両者のカップに注いで、立ち去って行った。

 彼らはそれぞれ、注がれた黒い液体を幾分すすった。

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