第7話 カーテンが取り払われた日 1

4 カーテンが取り払われた日 ~ 大宮たまき


 私たちが中学生のとき、私が交通事故、彼はある病気で入院した病院で出会って初めて話したのは、私のギプスがとれて、子ども用の病室から太郎君のいる大人用の病室に移ったときでした。

 子ども用の病室でもそうでしたが、大人用の病室も、個室でない限りは同じ室内のカーテン一つで区切られた、ベッドを中心とした区画の中で過ごします。


 いい大人ならまだしも、中2の女子と中1の男子が一緒の部屋のカーテン1枚で仕切られた隣同士の場所で過ごした数週間。

 今思っても、なんだか不思議な思いがします。

 病院の人たちも、私や太郎君の両親も、よく、そんな状況になることを認めたものです。兄弟でも親戚同士でも何でもない、中学校も違うしお互い見ず知らずで、しかも思春期に入りたての少年と少女が、カーテンで区切られているとはいえ同じ部屋の中で何日も過ごすわけで、何かあったらどうするのかと、今なら思うところです。

 息子ならまだしも、娘には、そんな場所にいさせたいとは、正直思いませんね。


 病院の看護婦さんには、太郎君の叔母に当たるかなさんがいました。

 彼女の話によると、看護婦さんたちの中で、あの二人、


 私たまきと太郎君は、「できる」か?


 なんて、まるで賭けのような話を冗談めかしてしていたようです。いつの時点をもって「できる」ことになるのかって話になって、結局お金をかけて、ということはなかったそうですけれども、その分、結構楽しく盛り上がっていたそうで、まあ、いいのですがね。


 かなさんは、私たちの退院後、私や太郎君の主治医だった院長の息子に当たる太郎先生と結婚されました。その「キューピット」が私だとのことで、親族の太郎君とともに、私も結婚式に呼ばれました。

 こうなると、叔父と甥に「太郎」さんが、あわせて2人。

 英国の元首相大ピットと小ピット(父と息子)、あるいは古代ローマの学者大プリニウスと小プリニウス(伯父と甥)などの例に従い、太郎先生は「大太郎」さん、太郎君は「小太郎」君となりました。

 世界史が得意なクラスメイトで鉄道の写真を撮るのが好きな下山君(今はある雑誌の編集部にいるそうです)に相談したところ、そう呼べばいいと「発案」され、私がこうしたらいいのではと、義父というか太郎君のお父さんに提案したところ、太郎君の親族の間では、満場一致? で採択され、今に至っております。

 そして私はもう一度、今度は、男女ではなく「レアな体験をした元少年」を取り持つという、いささか変な「キューピット」をする羽目に。そのことは、後程。


 高校生の頃は、お互いあまり頻繁に会ってはいませんでした。

 特に太郎君は病気の病み上がりで学校にも行けず、いわゆる「大検(大学入学資格検定。現在の高校卒業程度認定試験)」を受験してO大学に行くための勉強をしていましたし、私は演劇部で忙しかったから、あまり会う機会はありませんでしたが、当人以上に私たちの両親が仲良くなって家族ぐるみの付き合いになってしまっており、嫌でも(嫌じゃなくてとってもうれしかったけど)太郎君とは顔を合わせる機会は度々ありました。

 彼は勉強のかたわら、プロ野球の本や資料を読み漁って、そのころになると、日本の野球のことは歴史も含めて大抵のことは知っているくらいになっていました。さらに鉄道にも興味を持ち、大学ではぜひ鉄道がらみのサークルに入りたいと思うようになっていました。


 かくして、年齢通り1年早くO大学に合格した私は、太郎君の頼みの鉄道関係のサークルがあるかどうかを入学式の日に調べることとなりましたが、苦もなく、「ある=実在している」ことが判明しました。

 中学生にもかかわらず、大学の新歓ビラを配っていた少年がいました。彼の配っていたビラには「鉄道研究会(鉄研)」と書かれていて、伯備線が電化する前の気動車特急(気動車を「電車」と言ったらこの筋の人に怒られると太郎君に聞いていたので、そこはきちんと区別できるようになっていました~苦笑)「やくも」の絵も描かれていました。私自身は新聞部に入りましたが、太郎君に情報を伝える目的で鉄研の例会をしている現場にも何度か足を運びました。鉄研の先輩方の方針もあり、その少年、マニア君こと米河清治君とのお付き合いは、そこから始まりました。

 かたや、病院の院内放送でDJをした少年(太郎君はなぜか、その病院の先生方と仲良くなって、そういう「企画」をやってみないかと言われて、始めたのです。彼の放送は、患者さんや職員の皆さんにも、結構人気でしたね。その経験が高じて、後に大学卒業後、ある地元ラジオ局の社長に、私もいっしょに「スカウト」されて、今に至っています)、こちらは、小学5年で大学の鉄研に「スカウト」されて毎週水曜と土曜ともなればO大学の鉄研の例会に通い、入学式の日には新歓ビラを配っていた少年。同世代の男の子でそうそうできない経験をした少年たちは、こうして、私を介して巡り合うこととなったのです。

 しかも、「悪い虫よけ」ということで太郎君の父方の伯父さん宅に下宿させてもらい、ほどなく太郎君もやってきました。何だか、少女漫画みたいな状況ですね。

 最大の違いと言えば、マニア君は太郎君の「恋敵」たり得なかったことかな。

 それだけならいいけど、相も変わらず独身で女っ気なしというのは、おねえさんとしては、さすがにいかがなものかと思いますけどね。


 あるとき、太郎君は自分が「悪い虫」だろう、と言ったら、両方の両親から、即座に「却下」されました。じゃあオレは「虫よけ戦士」か、と言うと、バカ受けして、そろって大笑い。私の友人、特に女子の間では今も太郎君は「(悪い)虫よけ戦士」と言われています。

 「虫よけ戦士」はともかくとして、今度は、カーテンでの仕切りではなく、壁での「仕切り」がありましたけど、私たちはかくして、同じ屋根の下で過ごすことになりました。この頃になるともう、私の方も太郎君の方も、両親たちまでが私たちをあおるようなことを言いだしていました。

 まあ、ある程度冗談めかしてではありますが。

 太郎君は、ほっといてくれと言っていましたね。

 ただ、下手に言おうものなら、誰か他に好きな人でもできたかとか何とか、突っ込まれてややこしいからと言って、変な反撃はしませんでしたが。


 こんな話をしていると、あのマニア氏、3等級の2等の「開放型寝台」から「個室寝台」に進化して、結婚後は同じ寝室で、まさに3等級の1等寝台の2人用個室で、それこそツインデラックスですな、とか何とか、寝台車の歴史に絡めてなにやら論評してくださいました。

 人の寝床を寝台車に例えないでよ、と言いたくもなるところではありますが、まあ、確かにそうですね。彼の話のスジに乗って、考えてみますね。


 太郎君と私は、同じ「列車(建物)」の中で夜を過ごした期間がとても長いことに気づきます。彼は、鉄研の後輩の堀田氏が卒業時に譲ってくれた元ブルートレインの52センチの寝台を書斎に置いていて、そこでたまに寝ます。

 何も3等寝台に寝なくても、とは思うけど、彼なりに色々することもあるようですから、無理も言えません。それでも、2人用のベッドに1人で寝るのは広々としていいようですが、なんだか、寂しいものです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る