夕凪ちよこれいと

山南こはる

本編

本編

 フラれた。


 いいや、厳密に言えば、自分はフラれてすらいないのだ。だってそもそもの話、告白すらしていないのだから。


 バレンタイン、放課後の校舎。あなたのことが、ずっと好きでした。


 目当ての河野くんを呼び出す算段はついている。今朝早く来て、下駄箱に手紙を入れておいた。名前は恥ずかしかったから書かなかったけれど、きっと優しい彼のことだ。そして事実、約束の時間、彼は教室で待ってくれていた。


「……」


 息をひそめて、教室の中をのぞく。河野くんしかいないはずの教室からは他の誰かの声がしていて、それが女の子の声で、その内容が愛の告白だと知った時、頭をぶん殴られたような衝撃を受けた。


 自分はとんでもない思い違いをしていた。

 河野くんを想っているのが自分だけだなんて、そんなはず、あるわけないじゃないか。


 ショックだった。脇目もふらず、回れ右をして廊下を走った。相手の女の子の顔は見なかった。頭の中が真っ白になって、何も考えられなかった。


 自分のバカさ加減が嫌になる。

 どこをどう走ったかなんて覚えていない。気づいたら、帰路を歩いていた。


 海辺の道路、薄明の空。一点、白く染め抜かれたように飛ぶカモメ。波の音がする。風が左から右に吹いていて、風上を見ると、炎の球みたいな太陽が、人の気も知らずに海の向こうに沈んでいくのが見える。


 カバンの中、渡せなかったチョコレートが鉛みたいに重い。家はすぐ近くなのに、まっすぐ帰ろうとは思えない。この落ち込んでいる顔を、目ににじんだ涙をどうにかしなければいけない。



     ※



 家の近所の浜辺に、古いベンチがある。


 路肩にある小さな階段を降りた浜。いつも流木やら割れたびんやらビニールのゴミが流れ着いている砂の片隅、満潮の時にはギリギリ水没するかしないかの位置に、そのベンチはある。青い塗装が薄くなっている。縁が潮風のせいで、赤茶色に変色している。地元のタクシー会社の電話番号が、掠れて読めなくなっている。


 ひとりで考えごとをしたい時には必ず来る、お気に入りの場所。


 しかし、


「やあ」


 先客がいた。


 先客はベンチの上でのけぞり、こちらを見た。知らない顔ではない。クラスの冴えない男の子。話したことはほとんどないけど、さすがに名前くらいは知っている。


 浅野あさのとおる


 ほんとうは引き返したかったけれど、バッチリ目が合って話しかけられた今、無視して帰るわけにもいかない。


「どうしたの? おいでよ」


 邪気のない笑顔の亨。対して自分は、失恋のショックで、うまく笑えない。彼はベンチの端に移動し、となりの空席を「座りなよ」と言わんばかりにぽんぽん叩く。自分に立ち去るという選択肢が残っていないのが、なんだかムカつく。


 階段を降りる。海から吹きつける風が、バタバタとスカートをはためかす。浜に降りていく間にも、亨は子どもみたいな笑顔のままだ。たぶん彼の世界には、バレンタインだの告白だの愛の駆け引きだの、そんな事象は存在しないのだろう。


「……」


 ローファーの底が、柔らかい砂を踏んだ。

 冬の夕暮れの浜は、思いの外、寒かった。


 彼に指し示されるがまま、ベンチの空白に腰を下ろす。浅野亨は人懐こい柴犬みたいな顔をしてこちらをのぞき込んでくる。そしてあいさつもそこそこ、開口一番、


「落ち込んでいるの?」

「……そんなことない」

「ウソだろ。君、いつももっと、楽しそうじゃん」

「……そんなことない」

「なんで怒ってんの?」

「……知らない」


 私、帰る。


 こんなやつの誘いに応じる自分がバカだった。ベンチを蹴倒す勢いで立ち上がる。しかしそんな自分の手を、亨が掴む。


「ちょっと、離してよ!」


 思ったよりも、ずっと力強い手。彼は柴犬みたいな人懐こい顔のまま、想像できないような真剣な表情を浮かべて、


「ちょっと待って」


 そう言って、左手の腕時計に視線を落とし、


「……あと十分、いいや、七分でいいから」

「七分って……、なんで?」

「落ち込んでいる君に、すごいものを見せてあげようと思ってさ」


 すごいもの。

 何だかまるっきり想像できない。普段、教室の片隅で、ずっと本を読んでいる浅野亨。ぜんぜん話したことのない浅野亨。バレンタインも告白も愛の駆け引きも存在しない世界の住人である浅野亨が、ものすごく真剣な顔をして、ものすごい何かを、見せようとしてくる。


「……」


 ベンチに座り直す。彼の真剣な表情に気圧されたのもあるが、それ以上に興味が勝った。制服のスカート越しに、硬くて冷たい座面の感触が、坐骨に痛い。海から浜へと吹きつける風がとにかく強くて、まっすぐに前を向いていられない。


 十分、いいや、せめて七分。友だちとおしゃべりをしていれば、あっという間の時間。大好きだった河野くんのことを考えていれば、一瞬で過ぎる時間。しかし、ぜんぜん話したことのない浅野亨と過ごすには、あまりに長過ぎる時間。


 今日はバレンタインなのに。告白で愛の駆け引きで幸せな放課後だったはずなのに。


「ねえ、甘いの好き?」


 なんでこんなことを、浅野亨に訊いているのだろう。


「うん! 大好き!」


 吹きつけてくる風が強すぎて、すぐ近くにいる彼の声が、ものすごく遠くに聞こえる。


「チョコ、食べる?」


 カバンからつぶれた紙袋を取り出す。紙袋が風に揺れて踊る。暮れていく薄明の中、浅野亨ははっきりと目を見開いた。


「いいの⁉︎」

「うん」


 どうせもう、河野くんには渡せないのだから。


 紙袋を渡す。亨は風から紙袋を守るようにして、嬉しそうに開封していく。リボン、包装紙、そして箱。河野くんを想って、丁寧に包装した。レシピを調べて買いものをして、下手くそなりに一生懸命作った。なのにその想いは受け取られぬどころか、渡すことすら、叶わなかった。


 風が少し、弱くなる。


「あのさ、これ、河野に?」

「なっ、なんでそう思うの?」

「だって、手紙入ってるし」

「うそ⁉︎」


 紙袋を引ったくる。その慌てぶりが面白かったらしく、亨は柴犬みたいな顔のまま、ゲラゲラ笑う。


 笑い声が尾を引いて消えた後、波の音だけが、世界に残る。


「渡さなかったの?」

「……渡せなかったの」


 これほどみじめなことって、たぶん、何ひとつない。


「……先客でもいた?」

「……見てたの?」

「まさか」


 浅野亨は、案外長い足を砂浜の上に投げ出して、


「河野ってさ、けっこうモテるからさ。バレンタインの時は、千客万来なんだよ」


 千客万来なんて言葉、ほんとうに使っている人、はじめて見た。


「あいつ、甘いもの好きじゃないのにさ。毎年たくさん、チョコもらっているんだよ」

「へぇ、よく知っているね」

「おすそ分けされるんだよ。俺は甘いの好きだからいいけどさ。……でもそれって、女の子に対しては、失礼だよな」


 亨の柴犬みたいな顔の上に、真剣でまじめな何かがよぎる。


「そういうあんたは、もらったことあるの? 女の子に、チョコレート」

「ううん、ないよ。今、はじめてもらった」


 そんなことだろうと思った。


「なんでそんなに嬉しそうなのよ?」

「そりゃ、嬉しいからに決まってるだろ」


 余りものなのに。義理ですらないのに。


 河野くんの笑顔を思い浮かべる。彼が甘いものを好まないことくらい、知っていた。でもバレンタインだから、チョコレートにした。ビターにした。あの人へ向けるはずだった想いのかたまりが、ほろ苦い恋の終わりが、この不思議な柴犬みたいなクラスメイトの口に、飲み込まれていく。


 この苦い想いの名前を、自分は知らない。

 やがて亨は、ココアパウダーのついた指を舐めて、


「うん、うまい。……でもちょっと、苦いかな」


 そう言って笑う、柴犬みたいな彼の顔。腹を立てるのも悔しがるのも、なんだか急にバカバカしく思えてきて、気が抜けてしまう。


 目に見えて、風が弱くなってきた。空がだんだん群青色を増していって、赤い太陽が西の水平線へと、溶けて消えていく。


 時間のことなんて、いつの間にか忘れていた。まだ三分くらいしか経っていない気がしていた。それでも彼は、ハート型のチョコレートを噛み砕きながら、左腕の時計を見る。


「ほら」


 それが、魔法のかけ声。


 風が、完全に収まる。いつもは波立っているはずの水面が、ゆらぎを止めている。海の上に、逆さまの雲が浮かんでいる。水平線を挟んで、少しだけ歪んだ太陽が、海面に映っている。


「あ……」


 海の上に、空があった。波が消えた海の上が、一面の鏡になって、空を映していた。


 凪。


 完璧な世界の形が、そこにあった。


「な? すごいだろ?」

「うん……」


 あまりの美しさに、幻想的な風景に、息を呑んだ。頭の中は真っ白になってはいないのに、何も考えられなかったし、考える気も、湧かなかった。


 鏡の空に目を奪われていると、亨が唐突に、


「じゃーんけーん、ぽん!」


 反射的にパーを出す。亨はチョキ。彼は二本立てた指を見てにんまり笑い、おもむろに靴を脱ぎ靴下までも脱ぎ、


 そして、


「ち・よ・こ・れ・い・と!」


 二月で真冬で、しかも夕方。おそろしく冷たいはずの水の中を、亨はやっぱり、子どもか柴犬か何かのように跳んでいく。彼の素足が水を踏みたびに、海面に映った空が、同心円状に波打っていく。


 バカみたい。ほんとうに、子どもみたい。

 そう思っているはずなのに、気づいたら自分もまた、靴と靴下を脱いでいた。


 指先が冷水に触れる。真冬の水の中は、氷そのものみたいに冷たくて痛い。


 息を詰めて、水を踏む。自分の影が、普段は波打っているはずの水面に反射している。冷たくて痛くて真冬でフラれたはずなのに、空の上を歩いているみたいで、楽しかった。


「じゃーんけーん、ぽん!!」


 今度は自分がチョキ。彼もチョキ。あいこはやり直しのはずだけれど、彼はお構いなく、また六歩分、水の中を進む。


 ち・よ・こ・れ・い・と。


 凪の上を、享は魔法使いみたいな足取りで進む。彼を追いかける。六歩分。水が足首まで浸かる。冷たい。


 失恋の事実なんて、もう忘れていた。幻想的な世界の中で、今まで意識したことのなかったただのクラスメイトが、ずっと先で右手を振っている。指先はチョキのまま。きっと爪の隙間には、舐め取れきれなかったココアパウダーが、入り込んでいるに違いない。


「……」


 義理でも、余りものでも。自分のあげたチョコレートを、あんなに喜んで食べてくれた彼。そして、七分後の未来に、こんなにも幻想的な景色を見せてくれた、彼。


 夕凪の中、彼はもう一度、右手を揺らす。じゃんけんぽんの合図。


 脈が少しだけ早くなる。そう、この感覚を、この瞬間を、自分は確かに、知っているのだ。


 恋に落ちる。


「あ、あのさ!」


 時が動く。風がふたたび蘇って、海面が揺らめく。自分よりもずっと先にいた亨は、波を受けて大慌てで戻ってくる。


 二回分の、ち・よ・こ・れ・い・と。


 十二歩分の距離を走る。途中で転ぶ。海に映った空が消える。いつもと同じ泡立った波が、転んだ亨に、容赦なく襲いかかる。


「ちょっ、大丈夫?」

「ゲホっ、ゴホっ……。いや、ちょ、ダメかもしんない」


 ずぶ濡れになった亨。風は向きを変えて、今度は陸から海へとはげしく吹く。海はいつも通りに波しぶきを上げ、幻想的な時間は消えていく。


 凪の魔法使いが、ただのクラスメイトに戻る。


 それでも。

 高鳴った脈は、元には戻らなかった。


「ほら、掴まって」

「悪い悪い」


 亨を助け起こす。びしょ濡れになっても彼は、やっぱり柴犬みたいな顔で、


「……あのさ」

「うん」

「……チョコレート、うまかったよ」


 ちょっと苦かったけどさ。


「……私も、ステキなもの、見せてもらった」


 風が、強くて冷たい。

 彼の大きなくしゃみを聞いて、心の底から声を出して笑った。



     ※



 翌日、河野くんのとなりには新しい彼女がいて、失恋に泣いた子が何人もいて、教室の中にはまだチョコレートの匂いが残っている。亨は風邪を引いて休んだ。その理由をクラスの中で、自分だけが知っているのだ。


 右手の小指で、そっと唇の上をなぞる。


 びしょ濡れで冷え切って、紫色になった彼の唇は、海水とほんの少し、ビターチョコレートの味がした。


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