最後のなくし物

新川春樹

『ありがとう』『さようなら』

 たった五文字が言えなかった。何も言えなかった。最後の最後まで。


 全く、僕は本当にどうしようもなく、救いようのない奴だと思う。

 四十九日目。午後六時。

 この世に留まれる最期の夜の、最後のままに、こうして自分の残り香を探しに来ることを選んだのだ。

 誰に気持ちを伝えるわけでもなく、誰に会うわけでもない。結局、自分が可愛いだけなのかもしれない。

 そんな自分に呆れながら、日の落ちる街角でドクターペッパーを喉に注いでいく。何とも言えない弱い炭酸の喉越しは最悪で、甘ったるいこの味も決して好きではない。なのに、どうしても飲んでしまう。

 そう言えば、これも彼女の影響だろう。

 もう顔も声もはっきりとは思い出せなくなってしまった、彼女の。


 思えば、僕は彼女の行動をいつしか真似まねていた。

 大したことのない考え事やほんの少しばかり物思いにふけりたくなれば、近くの自販機に足を運び、缶ジュースにも関わらず百三十円と割高なドクターペッパーを買っては、家まで待ち切れずに帰りながら飲む。

 自分でも行動の理由なんて分からない。いつかだったか、「なんでそんなことをするの」と聞いた気がするが、もう思い出せやしない。


 冷たい空気が全身をかすめて行き、塀越へいごしに漏れた家の灯りに照らされ、そっと吐いた息は白く立ち昇る。こんな日くらい、やっぱりホットレモンでも買っておくべきだったか。いや、いっそのこと、酒でも飲んでおくべきだった。かじかんだ手を見つめて、そう思う。


 今夜はまだ始まったばかり。

 さざなみの音がかすかに響き渡るこの街を歩いて行く。色んな場所を回っていこう。そう心に言い聞かせて、手に持った空き缶を強く握り、近くのゴミ箱に捨てた。

 次々と前から現れる風景を、ただ横目に見ながら進んで行く。誰もいない夜霞よがすみに包まれた世界を裸足のまま、足早に駆け抜けていく。


 数メートル先も見えない霧をき分け、信じた方向へと只管ひたすらに向かっていく。不安になる自分を、弱い自分を振り払っていくように。

 そして、視界が開け、一番最初に見えたのはあの公園だった。


 今見ればとても小さな滑り台、こっそり逆上がりの練習をした鉄棒、気の済むまで遊んだ砂場。なんて懐かしいものだろう。よみがえる淡い記憶の数々に、つい頬が緩んでしまう。


––––不思議な気分だった。


 ペースを少し落とし、ゆっくりと反対側の出入り口へと向かう。その間も、全身を駆け巡る哀愁あいしゅうと似た感傷に浸っていた。

 彼女と一緒に座ったベンチ、陽炎に見舞われた帰りに通った裏道、勇気を振り絞って告白した茂み裏。


 そこまで見たところで、ふと脳裏に鮮明な映像が過った。



 

そ、その、僕と、つ、付き合って下さい。

「えっ」

お願いします。

「あ、うん……えっと、こちらこそよろしく」

え?

「だ、だから、わ、私も、君が、好きです」

あ、うん。え、えっと、その、よ、よろしく。




 あの日の記憶か。気恥ずかしくも、嬉しかった瞬間。今に思えば、あの時の僕はなんとも言えないほどぎこちなかった。

 ……あぁ、もう。懐かしくて、懐かしくて、懐かしくて仕方がない。心が締め付けられる程に。


 だが、それは僕の求めているものではなかった。

 だから、なんて言うのは変だろうが、ほんの少しでも感じた、感じてしまったこの胸の温かさを、ポケットに入っている二枚のチケットと一緒に、出口横にあるゴミ箱へと投げ入れた。

 これ以上の感傷は、未練にも繋がりかねない。今にも引き千切れそうでどうしようもないこの感情を無理やり断ち切り、思い切りくしゃくしゃにする。跡形も残らない様に。

 あまりの痛さに奥歯を食いしばった。

 そして、振り向くこともなく、次なる場所へと歩み始める。


 そうこうしている間にも、夕凪ゆうなぎは完全に止み、吹き始めた潮風は夜の冷たさを帯び始めていた。

 同時に、一歩また一歩と歩みを進めていくにつれて、視界を奪おうとするもやが段々と身体までもむしばんでくる様な気がして、焦燥感しょうそうかんに駆られてしまう。

 瞬く星の下、これでもかと言わんばかりの力を振り絞った。息なんて切れやしないと分かっていても、呼吸を荒げてしまうほどに、心ばかりが先を行かないように走る。


 所々、視界が開け、見える場所。


 登校時に彼女との集合場所だった五本目の電信柱、彼女と一緒によく遊んでもらった駄菓子屋のおじちゃん、僕と彼女をよく可愛がってくれたおばちゃんとそこの大きなワンちゃん。

 その全てが目に入るたびに鮮明に蘇ってくる。そして、色褪いろあせて消え去って行く。


 ダメだ。どれもこれもが僕の探し物ではない。それだけで、もう苦しくて辛くて、ついうつむきながらただ前に歩みを進める。

 どうして、どうして、どうして僕の欲しいものがないんだ。頭は段々と苛立いらだち始め、心はつのる焦りとともに叫び出す。吐き出し切れない思いは嗚咽おえつとなって口から漏れ出し、見えない涙がしたたり落ちていった。


 やがて、足は動きを少しずつ止め、完全に立ち止まった時には顔が滅茶苦茶めちゃくちゃになっている。そして、目を開け、顔を上げた時、そこには学校があった。

 高校なんて本当に久しぶりだった。


 涙を袖でぬぐうと校門を潜り、グランド横目に昇降口へと行く。下駄箱の近くまで来た時、何となく久々にする学校の匂いが脳裏に埋もれた記憶をくすぶる。心の奥に隠していた思い出にほんの少しばかり想いを寄せてみた。


 何とも言えない学校特有の安心感や緊張感が肌を突き刺す。それを楽しむように昇降口を歩き回った。

 だが、どの箱を開けても靴どころか上履き一つとしてない。掲示物も、泥汚れも、傘立ても。

 ただ、三年四組と書かれたスペースの十八番の箱だけ上履きが入っていた。

 あぁ、そうだ。僕の出席番号だ。

 はっきりと思い出した瞬間、ほんのかすかだけ残っていたはずの記憶でさえも少しずつ消え始めていることに形のない恐怖を覚え出す。

 しかし、ここで滅入めいって、止まっていてはいけない。


 大きく深呼吸を一つ。


 そして、薄汚れた上履きに履き替え、廊下を進む。一階には、理科室や購買、調理室に事務室、保健室、音楽室、美術室。二階には職員室、教室、それから視聴覚室もあったっけ。三階は技術室くらいしか特別教室はない。以降上の階はクラスごとの教室だけ。


 本当に懐かしいなぁ。なんて思っている間に、引き寄せられる様な感覚の後、気付いたら三年四組と書かれた教室の前にいた。

 そこに入ると、真っ先に黒板に書いてある「卒業おめでとう」が目に入った。

 そうか。今日は卒業式だったのか。全く、なんて運の悪いのか良いのか。もうホント……。

 また瞳には生温い嫌な涙が浮かぶ。


 教壇に立ち、教室全体を見渡してみると左から三列目の後ろから二番目の席に筒が一つ置いてあるではないか。


 まさか。


 震える足を必死に動かし、近づくと、やはりそうだった。


 蓋を開け、中身を見てみると、卒業証書が入っている。しかも、そこには涙の跡がついていた。

 ったく、誰だよ、人の思い出のものを、濡らし、やがって、さ……。

 そう思いつつ、また一つ、自分の涙の跡がついてしまった。

 泣きっぱなしだな、今日は。生きている間は涙一つとて出なかったというのに。これで一生分泣いた気がする。

 と、筒にまだ何か入ってるのが見えた。取り出してみると、寄せ書きと一通の手紙。

 あいつらと言えば、本当にどこまでも泣かせてくれる。あまり長い事引きずられることも、こっちとしては辛いのだ。胸がチクチクして仕方が無い。けれど、嬉しい事は間違いなかった。


「また、どっかで」

「お前だけ良い思いすんなよ」

「地獄行ってたら許さねぇからな」

「向こうでも楽しんで」

「またね」

「俺たちのこと、忘れんじゃねぇぞ」


 思い思いに書かれた文字は、何処か不格好で、下手くそだった。中には、線が震えていて、文字の形を保てていないものもあった。


「ご冥福をお祈りしています」


 そんな一言が右下に添えられている。唯一、その文字だけは大人びていた。それにも関わらず、ほんの小さく震えている様にも見える。

 こんな紙切れなんて、三途の河を渡る代金にもなりやしないし、天国に行けるようになるわけでもない。どころか、そもそも僕に届くかも分からないって言うのに。

 皆揃みんなそろって、皆バカだなぁ。

 止まらない涙、乱れる呼吸、それでも心は暖まっていた。


 そして、手紙を見てみると、差出人は明記されていない。だが、誰が書いたかくらい、確信を持っている。


 彼女だ。


 そう信じて、封を切り、中を出してみる。と、出てきたのは、幾度いくども折られた紙一枚だけ。ただ、そこに書いてあったのは長ったらしく、しみったれた文章なんかではない。


『ありがとう』『さようなら』


 僕達が別れの代わりとして、一度も言うに言えなかった、どうしても言いたかった、五文字が二つだけだった。

 思い出せば、また胸に大きな穴が開いてしまいそうになるのだが、どうしてだろう。今はこの五文字を見るだけでなんとなく幸せだ。

 ここに込められた想いが本物な気がして。彼女の香りがして。


 消えかかった心は再び火が付き、前に行く決心がついた。

 それを胸に、ここを立ち去る。最後、教室を出る時、校門を出る時、お辞儀じぎをして、最後の挨拶をして。


今まで、お世話になりました。ありがとう。さようなら。


 そろそろ朝に近づいてしまったのか、霧はだんだん薄くなってしまっている。急がないといけない。

 走った。走った。走った。でも、何となく今は、笑顔になっている気がする。行く先も分かってしまっているかのように。

 そうして、着いたのは最終地点みたいだ。


 この海。この砂浜。

 なるほど。ゴールにしてはぴったりだ。


 途端、視界にかかる靄は消え、朝日登る水平線とそこから溢れ出す海、取り囲んでいる様な防波堤、その奥に佇み、ようやく深い眠りから目覚め始めた街。

 最期の最後に見る景色にしては上々ではないか。


「では、参りましょう」


 ふと、右から声が聞こえた。男性の声。いいや、違う。これは、死神の声だろう。


「さぁ、こちらへ」


はい。


「これ以降は、あなたの全てがなくなります」


はい。


「よろしいですね?」


はい。


「では、こちらへ」


 そう隣から聞こえた声に身を委ねると、ゆっくり身体は光に溶けていく。そして、空高く舞い上がった。

 見下ろすこの景色、ここに居る人達、その全ては僕のなくし物なんだ。遠く離れた病院でくたばった僕のなくした物。


 『残り香を探したい』なんて願いは最初から意味を履き違えられていて、これは単に『なくし物巡り』だったわけか。

 なら、やっぱり一番のお目当ての物は見つかるはずもないよな。

 彼女は別になくしたわけじゃないんだから。彼女の中にいる僕はなくなっていないんだから。


 それでも……。


「その卒業証書は持っていかれますか?」


はい。みんなからの最後の贈り物なので。


「分かりました」


 意識は段々と揺れ始め、不思議な感覚が全身を襲う。怖い。勿論、怖いに決まっている。それでも––––。


「もう時期着きますよ」


……はい。


「どこに、とか聞かないんですね」


えぇ。


 きっとこれは、終わりなんかではなく、また新たな何かの始まりなのだろうから。

 そう。小さい頃、彼女は僕に一つ教えてくれた。


『死んじゃっても、終わりじゃないんだって。神さまが新しい世界に連れて行ってくれるの。だから、もし大人になって、おじいちゃんおばあちゃんになって、死んじゃってもね、一緒だよ?』


 そんな言葉を真に受けて、信じる僕も僕だろう。が、それでいい。それでもいいのだ。

 ただ、脳裏に浮かぶ彼女の顔さえも段々と消えて行く。

 途端、一気に後悔の冷たさが足からにじみ上がって来た。

 あの時、たった五文字、『ありがとう』『さようなら』のどちらかさえ言えていれば。本当に憎らしいよ、自分が。


「何か忘れ物は御座ございますか?」


いっぱいありますよ。


左様さようで。では、何かなくしたものなんかは?」


それは……、僕は。


 もう全く浮かばない、思い出せない彼女の顔。

 僕の一番の宝物。

 そして、一番のなくし物。


––––大切なものをなくしました。

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最後のなくし物 新川春樹 @haruki_niikawa

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