三月が終わる頃に、山縣さんは岡山に引っ越していった。

 デートは、月に一回。山縣さんが東京に来てくれたり、わたしが岡山に行ったり……。

 新幹線で、三時間ちょっと。新幹線代は、往復で三万三千円くらい。

 だいたいいつも、金曜日の夜から、日曜日の昼間まで会っていた。

 ホテルに泊まったりはしないで、お互いの部屋に泊まっていた。

 わたしの部屋に山縣さんが来てくれている時は、とくに、心がふわふわした。

 わたしの日常の中に、好きな人がいて、生きて動いているのが、うれしくって……。

 その頃には、部屋の中では、マスクはつけないでいようということになっていた。


* * *


 夏になった。

 山縣さんとの遠距離恋愛は、あまり、うまくいっていなかった。

 会えば、しっかり向きあってくれる。でも、別れる時になると、急にそっけなくなるような感じがした。

 とまどっていた。

 セックスをするためだけに、会ってるような気になることもあった。


 どこかちぐはぐなまま、ビデオ通話と、月に一回のデートは続いていた。

 もう、だめかもしれない……。

 心が疼いた。

 なるべく冷静でいようとしたけれど、冷静ではいられなかった。

 責めたくなかった。人の心がうつろっていくのは、あたりまえのことだと思った。


 秋になる頃に、「距離を置きたい」と言われた。わたしは、「はい」と言った。

 泣いて、すがりつく気には、なれなかった。

 遠距離恋愛なのに、もっと距離が必要なんだ。そう思ったら、少しおかしかった。

 わたしは、失恋したんだなと思った。


* * *


 冬になった。

 新しい人を見つける気にはなれなくて、いわゆる自分磨きをすることにした。

 華道のお稽古に通いはじめた。

 花にふれていると、荒れていた心が安らいだ。

 年配の女性ばかりの中で、かわいがってもらえた。

 お子さんが社会人になったとか、うちの息子は四十を過ぎたとか、そんな話を聞く度に、わたしも、いつか結婚できるだろうかという思いにとらわれた。


 山縣さんのことが、忘れられなかった。

 彼の体のことも。

 セックスをする時だけ、下の名前で呼んだ。忍さんって。

 愛されてると思っていた。わたしの中に入ってくる時の忍さんは、いつも、そうっとしていた。入ってもいいのか、不安がってるみたいに。

 動く時も、やさしかった。

 甘い声で、いいかどうか聞いてくれた。「痛くない?」と聞いてくれたのは、忍さんだけだった。

 声が聞きたい。体にふれたい。

 もちろん、どっちも、できっこない。

 偶然に、どこかで再会できるほど、近い距離にはいない。



 年が変わって、二月になった頃。

 LINEに、山縣さんからメッセージがあった。

 『会いたい』って。

 既読スルーした。

 どう返せばいいのか、わからなかった。


 その日の夜に、電話がかかってきた。

 応答ボタンにふれる指が、ふるえた。

「……やまがたさん」

「ゆかりちゃん。ずっと連絡もしないで、ごめんね」

「謝ることなんて、ないです」

「僕を責めないんだ」

「責める理由がないです。わたしたち、もう、別れましたよね」

 言ってから、あれっと思った。「距離を置きたい」とは言われたけれど、「別れよう」とは言われてなかった。

「えっ」

「え?」

「ごめん。別れてるつもりは、なかった」

「はあ?」

 わけがわからなかった。

「だって、会ってないです。電話もしてない……」

「うん。仕事が立てこんでて……。あと、会うと、別れる時がつらくて」

「そんなの。わたしだって、そうですから」

「わかってるよ。わかってた。

 あの、だから……」

「はい」

「結婚してください。悪いけど、こっちへの異動が無理なら、仕事はあきらめて……。

 ごめん。無理だよね。そんなの」

「えっ。えっ?!」

「ビデオ通話にすればよかった。今、ぜったい、すごい顔してるよね」

「してます。わ、わたし……。どうしよう。

 ちょっと、いったん切っていいですか」

「いやだよ。やっと、声が聞けたのに。

 岡山に来てから、上司と何度も話し合った。本社に戻れないかって。

 ずいぶん話したけど、だめだった。最低でも、三年は岡山にいろって。

 それで……僕も、ちょっともう、煮つまっちゃって。

 仕事は好きだけど。そのために、大切なものを犠牲にしたいとは、思えなかった」

「忍さん」

「はい」

「どうして、相談してくれなかったの……?」

「説明するのは難しいね。ゆかりちゃんを手放した方が、いいんじゃないかと思った。

 あれから、どうしてた? 誰かと寝た? つき合った?」

「……はあ」

 ため息しか出ない。

「誰とも、何もないです。つまらない人生ですよ」

「そうなの?」

「もともと、もてる方じゃないです。自分から、ぐいぐい行ける性格でもないです。

 少し前から、お花のお稽古をはじめました」

「おはなの、おけいこ……」

 笑うのを我慢してるような声だった。

「切ります」

「ごめんなさい! 切らないで」

「わたし、怒りはしなかったけど、悲しかった」

「そうだよね……」

「あなたのこと、あなたの体のこと、何度も思い返しました。

 それが、どんなに、つらいことだったか……。

 そういうこと、わかってないでしょう。

 わからないですよね。男の人には」

「異議あり」

「これ、裁判だったんですか」

「違うよ。僕だって、何度も思い返した。

 ゆかりちゃんの幻と、ずっと暮らしていたような感じだった。

 月に一回しか会えないなんて、耐えられない。

 本当は、四六時中、そばにいたい。仕事をしてる時以外は」

「わたしが岡山に異動できたら、仕事中も、会うことになりますけど」

「いいよ。それは、ぜんぜんかまわない。でも、異動は無理だと思う」

「そうですか。じゃあ……。

 上司に相談します。却下されたら、退職します」

「いいの?」

「いいです」

「……好きだよ」

 声が、かすれていた。泣いてるみたいだった。

「忍さん」

「ゆかりちゃんの声って、かわいいよね」

「そんなこと、言われたことないです」

「そう? 僕は、そう思ってた。ずっと」

「電話でプロポーズされるなんて、思ってなかったです」

「そうだね。ごめんね……」

「しかたないです。こんな時だから。

 わたしが異動できても、できなくても……。忍さんと結婚したら、ずっと、一緒にいられるんですね」

「うん」

「うれしい」

「ありがとう。会社に相談してみてくれる?」

「いいですよ。勝算は、ないわけじゃないです」

「そうかな」

「わたしの上司は、甲斐さんですよ」

「ああ……。そうだったね」

「そのかわり、『山縣さんと結婚するので、異動を希望します』っていうふうに話しますよ。

 大丈夫ですか?」

「うん」

「これからは、ちゃんと相談してください。忍さんの上司の方だけじゃなくて、わたしにも」

「うん。ごめんなさい」

 声が、しょんぼりしていた。だから、もう許してあげようと思った。

「また、電話しますね。していい?」

「うん」

「じゃあ、またね」

「ゆかりちゃん」

「はい」

「好きだよ」

「……わたしも。好き」


 電話が切れた。

 心臓が、どっどっと鳴ってるみたい。

 冷静でいようとするわたしは、もう、どこにもいなかった。

 これからも、忍さんのそばにいられる……。

 うれしかった。



 次の日には、甲斐さんに相談した。

 甲斐さんが、さらに上の上司の人に話をしてくれることになった。


 一週間もしないうちに、甲斐さんから『おめでとう』という返事をもらった。

 甲斐さんにお礼を言っていると、同じ部署の人たちから、『何の話?』と聞かれた。忍さんとのことを話したら、みんなで『おめでとう!』と祝福してくれた。

 全員がマスク姿の怪人でも、心から笑えば、目が細くなる。

 みんな、笑っていた。

 わたしも、同じように笑った。


 お昼休みに、速報として、忍さんにLINEを送った。

 終業時間になってから、スマートフォンを見てみた。

 短い返事が送られてきていた。

 『よかった』って。

 じわじわと、喜びが胸を満たした。

 よかった。岡山で、忍さんも笑ってる。きっと……。



 わたしの恋が、愛に変わっていく。

 そんな予感がしていた。

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