美食家の味付け

知世

美食家の味付け

 もう恋愛なんか懲り懲りよ、と言っていたはずだが、前の彼氏と別れて1週間で新しい彼氏ができた、そうだ。瑞季さんはいつも男と別れるとこう言って、その舌の根の乾かぬうちに、というか、股の間の乾く間のなく、新しい男ができる。その変わり身の早さに私は呆れ返っていた。まあ、今に始まった事ではないので驚きはしないが。とんだビッチである。というと彼女は怒ってしまうので、彼女のことはロマンス多き女性と呼ばねばならない。笑ったり、怒ったり、拗ねてみたり、クルクルと忙しく変わる彼女の表情に周りはいつも翻弄されている。もちろん私もその1人である。今日も、夕食は和食がいいと言い張っていたのにもかかわらず、ナスを切った段階でやっぱりパスタが食べたいと駄々をこねるものだから、ナスの肉味噌炒めと味噌汁からミートソースパスタとコンソメスープに変更せざるを得なくなった。炊き始めてしまったご飯は冷凍することにして、パスタを茹でる用にお湯を沸かす。開かれた窓からは夜風が入ってくる。控えめな間接照明が本を読む瑞希さんの橫顏を照らしている。

「舞子の作るミートソースが世界で1番美味しいの。いっぱい食べるから多めに茹でてね!」

 そうやって彼女はリビングから私のことを元気に褒めちぎった。そこだけ切り取れば普通の親バカにも見えなくもないか。いや、あれはただ調子がいいだけだな。そう、彼女、後藤瑞季は私の母親である。瑞希さんがこぶつきだということを知ると、大抵の男は驚くらしい。妙にふわふわとして捉え所がなく、所帯染みるところがないからだろう。授業参観の時はその服装と態度で周りを圧倒していたし、運動会での親子二人三脚ではフル装備で本気を出して私よりもはしゃいでいた。小学生の頃、そんな彼女を『家族のみんなを描いてみよう』という授業で絵にしたことがあった。みんながテンプレ家族写真、みたいな物を描くなか、少しひねくれていた私は、二日酔いで床に寝転んでいる瑞希さんとそれを介抱している私を描いた。その方が面白いと思ったからだ。当時担任だった女教師は、素晴らしい。とベタ褒めした。私は読みがハマったことに鼻高々だった。そのあと彼女は私の絵をクラスのみんなの前で紹介したあと、こう言った。

「藤代さんはお母さんと2人でもへっちゃらでかっこいいですね!みんな、拍手しましょう」

 不思議顔の児童たちの拍手がぱらぱらと起こり、私は困惑した。何か私の意図と違うところで褒められていると思ったからだ。高校生になったいま、担任はきっと善意と尊敬の皮を被った憐れみを私に向けていたのだろうということがわかる。


 瑞希さんがお茶を所望した。冷蔵庫から作っておいた麦茶を出して、グラスに注ぐ。彼女の元に持っていくと、ウィンクが返ってくる。やれやれ。と私はキッチンに戻る。


 私はずっと母親と2人で暮らしてきた。それが褒められたり、逆に蔑まれたりして、人の手によって色々に味付けされることがあることを私は知っている。どんな味でも食べてね?と口の中に突っ込まれる嫌悪感は、本人にしかわからないのかもしれない。弱者であればあるほど様々な発言が許され、議論が激化していく今時の風潮も、他者によって調理された自分ごとを否応なく食べさせられる代償を払って生まれた新しい権利なのかもしれない。「当事者」という肩書で、世界は変わるのだ。出来上がったパスタを瑞希さんは綺麗にフォークに巻きつけて、次々と口に運んでいった。

「やっぱり美味しい。この味よ」

 そう言って彼女は1.5人前をぺろりと平らげた。「味付け」のことを考えていた私は、いつのまにか手が止まっていたらしい。食べ終わって、麦茶を飲んで、一息ついた瑞希さんが言う。

「どしたの、ぼんやりしちゃって。考え事?」

 口の中で咀嚼していたパスタをこくりと飲み込んで、返事をする。

「やっぱり、シングルマザーだと子どもは苦労をしなきゃいけないって、相場が決まっているのかな、と思って」

「さあ?最近そんなわかりやすい差別する人、いる?」

「憐れみみたいなものを褒め言葉で上手く包んだものは、小さい頃に無理矢理食べさせられたけどね。シングルマザーの家庭であることは無味無臭の事実なはずなのに、なんでみんな可哀想、とかえらい、とかスパイスをかけたがるんだろう」

「なるほど、舞子は美食家なのね。出された料理が気に入らないわけだ」

 くすくすと笑う瑞希さんにムッとする。

「茶化さないでよ。割と真面目に悩んでるのに」

「茶化してないわよう。舞子さんは一丁前にお料理はするけど、食事のマナーは半人前ってことね」

 反論する前に彼女はご馳走様、と言って席を立ってしまった。不完全燃焼の気持ちのまま、私もパスタを食べ終えて、洗い物をする。いつも夕食の洗い物はその日のうちに済ませることにしている。朝、汚れたシンクを見るとやる気が削がれてしまうからだ。6時半にセットしたアラームで目が覚めた私は、いつもと同じように、綺麗なキッチンで朝ごはんと弁当を作ることにした。朝早い瑞希さんはいつも朝ごはんを食べず、昼は社食を利用するので、自分の分だけを用意する。誰かに食べてもらえないご飯を作るのは面倒くささが一気に増す。まず朝ごはんはチーズトーストと昨日パスタと一緒に食べたコンソメスープでお茶を濁す。弁当用に卵サンドを作り、残ったスープをジャーに移して、学校へ向かった。


 数学と物理、英語の後の午前の最後の授業は、調理実習だった。すっかり忘れて普通にサンドイッチを用意してしまった。まあ、それは夜食べることにする。使うエプロンと三角巾は学校に置いてあった。よかった。とほっと息をつく。佐藤くんと清水さん、瀬尾くんと私の4人で今日は海老グラタンを作るようだ。家庭科の先生の指示をなんとなく聞き流して、取り掛かる。

 ベシャメルソースってなんだ?初めて聞いたよね。と喋る佐藤くんと清水さんを横目で見つつ、玉ねぎをスライスする。その手元を見た瀬尾くんが声をかけてくる。

「後藤さん、手際いいね。家でも料理するの?」

「あ、うん。というかうちでは私が料理担当だから」

「へぇ、そうなんだ。親御さんは作らないんだね」

「そうだね、母親、忙しいから」

「お父さんは?作らないの?」

「うち、片親なのよ」

 しまった、あ、しまったも失礼か。みたいな顔をした瀬尾くんに謝られる。全然気にしてないよ、と手を振って、そんなに謝ってもらわなくてもいいんだけど、と思う。

「瀬尾くんは?うちで料理するの?」

「うん。するよ」

 驚いて彼をみる。三角巾からはみ出た整髪料で整えられた前髪と校則違反のピアスが目にはいる。意外っしょ?と彼が笑う。

「うちは母親が看護師でさ、帰りが遅いから公務員の父親と交互に作るんだよね。俺、部活やってないし。弟と妹が食べ盛りで、早く食べさせろってせっつかれるの」

「それは大変だ」

「そう見える?俺は結構楽しんでやってるんだけどね」

 今の時代、家事に男とか女とか関係ないしね、と続けた彼に、今度は私がしまった。と思う番だった。

「あ、いいのいいの、やっぱみんなに大変とか偉いねとか言われてさ。そういうの実際と離れてるときあるし、違和感あったのは事実。でも、俺も夕食作ってて別に苦じゃないのに、後藤さんが片親って聞いて大変そうって思っちゃったし。だから、おあいこ」

 そう笑ってくれた彼と、小学生の頃の私が重なる。あんなに嫌だった「へっちゃらでかっこいい」という言葉と同じことを言ってしまった。それでも、出来上がった海老グラタンの湯気に食欲がそそって、いつでもお腹は正直だ。と思った。


 午後の授業が終わり、帰宅する。キッチンに立って料理をしながら、帰ってきた瑞希さんにことの顛末を話すと、ソファに座った彼女は青春だねえと頷いた。

「昨日の舞子の言い方をするならば、物事を焼いたり煮込んだりしてわかりやすくするという作業は、きっと自分の理解のためでもあるのよね。」

「舞子のお勉強グラタン」になった訳だ。と瑞希さんは笑う。でも、問題はそれを人に食べさせるときだ。私は他人に料理を振る舞うのが怖い。だから、やめる方法を考えたいと思う。そういう思いつきを話すと、彼女はそれを若さだと断言したので、思わずむくれる。私を宥めるように彼女は言う。

「他人のために料理しないということは、物事を半分しか知ることができないということじゃない?作ったものが拒否権なしに口に入ってくる感覚って若い人の特権。とりあえず受け取って、後でゴミ箱に捨てとくこともそのうちできるようになるから、そんなに焦らないの」

 沢山勉強して、美味しい料理を作ってくださいな。と瑞希さんは続けた。

 そうなのかなあ、と私は思う。考えてみると世の中のいろんなものが味付けされている。それを受け入れられる人も、受け入れられない人もいる。私は受け入れられず偏食になりかけて、味付けなんかいらない!料理なんてしない!と駄々をこねているのかもしれない。美味しくない、と誰かに言われるのが怖いのだ。瀬尾くんの「そう見える?」をしっかり受け止められたとき、私は大人になるのかもしれない。今はまだ、出来ないけれど。

「それで、今日のご飯は?」

 メニューを伝えると、彼女はにっこり笑って美味しそう。と呟いた。

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