「歯ブラシ取りが歯ブラシになる」「なにそれ?」

マルヤ六世

「歯ブラシ取りが歯ブラシになる」「なにそれ?」

 ディン、ドン。


 スマートフォンの通知で目が覚める。買った時には既に入っているカレンダーアプリは、一度繰り返し設定にしてしまうと毎回同じ時間に決まって俺を叩き起こした。こうなることがわかっていたのに持ち帰った課題に取り組んでいた俺も悪い。というか、というか。全部、全部俺が悪い。目を覚ましたと言っても、ほとんど眠った気はしなかった。

 通知を切ればいいし、予定の削除をすればいい。たったそれだけのことができないで、俺は毎年ため息を吐きながら起き上がる。それができれば、もう二度と夜中にこんな気分で目覚めることもないはずだ。こんな、思い出すたびに心臓をフォークで一突きされるような、最低で最高な気分で。忘れたいわけじゃない。あの日々がなかったことになって欲しいとは思わない。人生で一番、幸せな日々だったから。

 どうすればよかったかなんてわからない。わからないまま、寝ているのか起きているのかわからない毎日を過ごしている。ずっと眠って夢を見られるならその方がいい。あの真昼の日差しみたいな笑顔が見られないなら、もういっそ、死んでしまうのも手だ。

 でも、真夜中に太陽が見えなくなってもそこにあるみたいに、この世界に一緒に生きていることがやめられない。同じ町で──こんな狭い町で、同じ場所に毎日通っていて、それなのにもう二年も会わないままで。


 土砂降りの雨が窓を叩いた。風がごうごう吹いている。立ち上がった俺は冷蔵庫から一リットルのほうじ茶の紙パックを取り出して、三分の一ほど残っていた中身をいっきに飲み干した。喉はまだ乾いている。潤うことなんてない。俺の首に設置されてしまった喉には悪いことをしたと思う。

 十二月三日、午前零時。通知にはこうあった。


 “歯ブラシ交換の日”。




 夜中に降り出した雨は朝方まで続き、雨のせいってだけでもないけれど、俺はほとんどまともに眠れないままアラームを最初の一音で止めた。カーテンを開けばまたいつ降ってもおかしくない曇天で、天候が俺の気分に応じて変わるなら、どうせなら雪にしてほしい、とそう思う。

 俺は電話を一本入れて大学の講義を丸一日休んだ。三回目ともなると慣れたものなのか、友人も講師も体調を気遣う連絡をしてくることはない。なにか重大な、例えば大切な人の亡くなった日かなにかと思い込んでいるらしい。普段は人を食ったような態度の幼馴染も、理由を知っているのに周囲には黙っているみたいだった。

 なんてことはない、ただ歯ブラシを買いに行くだけのことだ。それだけなのだが、言いあぐねている間に「そういう」ことになった。そういうことを積み重ねてきたから、俺は今日に囚われている。こんなどうでもいい記念日かどうかもわからないものに振り回されて、いつか将来を左右する重大な予定と被ったらどうする気なのだろう。重大な予定ってなんだろうか。歯ブラシを交換するよりも大切なことなんてない気がする。きっと、あいつもそうだろうから。

 

 アーケードにはところどころに水たまりがあって、こういう日は決まって黒い靴を履くことにしている。以前、黒と白と灰で身に着けるものを構成するのがいいと教えられて、言われた通りに白い靴で雨の日に出かけてため息をつかれたことがあった。それから雨の日とその次の日は、黒い靴を履くことを意識している。

 そのため息をついた男が、勝手に俺のスマートフォンに記念日を設定した張本人だ。その記念日が今日で、それが歯ブラシ交換の日。お前はなにを言っているんだ、と幼馴染に一度言われたことがある。俺もよくわからない。異文化交流みたいに、人の大切な日常の決まり事を真似しているだけに過ぎない。とにかく、俺にとっては十二月三日なんて、それまでは普通の数ある毎日の一部だったわけだから。


 その日、唐突に彼が今日は休もうと言い出した。俺も一度は断ったものの押し切られ、仕方がなく二人でドラッグストアに行ったのだった。

 よく覚えている。高校一年の冬、どこからか持ち込んだこたつに寝転びながら、そいつはせっかく着替えた制服のジャケットをむりやり脱がせてきた。


「歯ブラシ交換の日だぞ。学校なんて行ってる場合か?」


 彼のなかで歯ブラシがそんなに重要な意味を持つものだと知らなくて、俺は念入りに謝罪をしてから私服に着替えた。その、実を言うと最初は「そのルールって俺も守らないといけないのだろうか」と思ったりもした。けれど、すぐに思い直した。

 家庭の決まり事を教えてくれるなんて、この男は俺のことを相当親しい間柄だと思ってくれているんじゃないだろうか。確かに俺たちは今や家族みたいに二人で暮らしているのだし、譲れないものについては二人できちんと分かり合っていくべきだ。

 学校をサボったのはその日が初めてだった。俺たちの高校は全寮制の男子校で、寮を抜け出して授業をサボるのは至難の業だと言われていた。けれど、あいつは簡単にやってのけた。それも、そんなことをするはずがないと思われていた生徒会役員の俺を伴って。

 まさかその至難の業をそれから三年連続で成功させると思っていなかった教師陣は、俺たちが卒業する頃には胸を撫でおろしていたらしい。様々な知り合いに注意をされたものだが、十二月三日にサボる以外、俺たちは至って真面目な生徒だったから、毎年一言釘を刺されるに留まった。

 後から聞いた話だが、三年の十二月にはもう誰もかれもこの日のことを諦めていて、校長先生もが俺たちが抜け出すのを見送ってくれていたという。そうやって周囲を巻き込んで納得させてしまう力を、あいつは持っていた。


 あれから俺は──例え使った期間がどんなに短かろうと──その日の朝まで使っていた歯ブラシをゴミ箱に捨てて、毎年歯ブラシを交換している。高校時代と同じ行動を、虫みたいに、プログラムみたいに、毎年繰り返している。

 高校時代はこの日になると細かい雪が降っていたけど、一昨年と去年はからっと晴れていた。今日なんて、昨日の雨雲がまだどんよりと残っている。同じ条件になってくれるほど天気は甘くないし、あいつも甘くない。この日に雪が降らなくなって、三年目になる。

 どこにでもあるチェーン店の入口には、だいたいどの店舗にも同じ赤と緑のマットが敷かれている。いらっしゃいませ、の字が消えかけるほどに泥で汚れているそれは、水を多分に含んでいて踏むと嫌な感触がした。なんとか最小限の歩数で通り過ぎようと歩幅を微妙にずらして奇妙な足取りで入店すると、客や店員の注目を浴びてしまい、少し恥ずかしい思いをした。

 あの頃は靴下を濡らすとすごく怒られた。誰が漂白すると思ってるんだよ、もっと考えて歩け、なんて。

 店内は外の天気のせいか、うっすらと暗い。テーマソングが控えめにかかっていて、化粧品売り場には女子高生が制服のまま屯していた。やっていることは彼女たちと同じだな、と思いながら年末セールと銘打たれた手書きのポップに促され、歯ブラシコーナーに向かう。


「黄色がいいよ」


 そう言ってあの日、霧島牧野は俺の買い物カゴに黄色い歯ブラシを放り込んだ。

 マキは中学二年の時に都会から転校してきた。そうして俺の後ろの席に座って以来、彼とは腐れ縁がつづいた。俺は腐ってなんていないと思うけど、いつでも真新しいぴかぴかの関係だと思うけど、マキは俺たちのことを誰かに話す時、必ずそう表現した。

 マキは転校してきてすぐに俺の服装や髪型にやたらと口を出した。モノトーンを勧めてきたのも彼だった。こうした方がいい、こういう風にすればダサくない、と俺をプロデュースした。


「なんだよそれ、俺がダサいってこと?」


 そう尋ねた時に彼は何も答えなくて、俺はわずかにショックを受けた。彼のことを霧島、と呼んでいた俺にマキノと呼べと言ったくせに、自分は俺のことを廉二郎と呼ばなかった時にも、俺はたしかにショックを受けた。

 フラペチーノを初めて飲んだ時にかき氷みたいだと言ったら笑われて、それ以来マキが「コーヒーかき氷」と呼び始めたことはそうでもなかったけど、クラスの他のやつも同じようにコーヒーかき氷と呼ぶようになった時はもっとショックだった。

 当然、マキが四年間に及ぶルームシェアを解消して出ていった日は、なにも手につかなかったんだよ。本当はわかってるんだろ?


 マキはいつも眩しかった。昔からこの町に住んでいたみたいに、すぐにクラスの中心人物になった。気難しいことで有名な俺の幼馴染とも簡単に打ち解けた。

 三木聡、という少々ひねくれた物言いをする(悪いやつじゃない)俺の幼馴染は、昔からこの町じゃ少しハイカラな方で、いつの間にか聡とマキは「マキミキコンビ」なんてセットみたいに呼ばれるようになっていた。二人とも勉強も運動も得意だったし、人をからかうのがうまかった。俺も成績では同じくらいだと思うけど、周囲には仲間には見えないみたいだった。

 ある時、体育の授業で容赦なく俺の顔にボールをぶつけて退場にしたマキを指さして「あいつって太陽みたいに笑うような」と聡がなにか言いたげな目で俺を見た。その日初めて俺は人に喧嘩を売られて、取っ組み合いの言い合いをして、聡に馬乗りになって顔を四発殴った。

 昔から俺は聡に敵わなかった。おしゃれでかっこいいと思っていたし、みんなにもそう言われていた。その喧嘩だって勝ったってわけじゃなかった。先生が来て取り押さえられてしまったので勝つまではできなったし、顔を殴られた聡は次の日も普通に俺に話しかけてきた。

 こんなことではいつかマキが取られてしまう気がしていたし、多分、もう取られていた。だって、誰も俺たちのことを「レンマキ」なんて呼ばなかったんだ。


「簾二郎。今年も黄色い歯ブラシを買いに来ているのか? お前ってやつは本当に女々しいな」


 金色の髪をかき上げて、聡は鼻で笑うようにそう言った。照明を反射した髪がちかちかしていて、薄暗い店内では星が瞬くようだった。彼は昔から目立つ男だった。他人なんて興味ないふうなのに、その他人が彼を放っておかなかった。気難しいと有名だったのに、いつだって彼の周りには人が集まっていた。

 俺は目を細めて、十年来の親友の、その眠たげな顔を見つめる。知らない間にピアスを二個しているということは、どこかで二回痛い思いをしたということだ。


「なにをしている? 空想でデートでもしていたか? しかし、飽きん奴だな」

「昔のこと思い出していたんだ」

「お前は回想に浸っているくらいのつもりだろうが、店の歯ブラシ一つ一つに呪いをかけてるようにしか見えん」

「俺は呪いなんて習得してないよ」

「そうか。まだなようで良かった。その女みたいな顔に反した腕力に呪術まで加わったら僕はお手上げだ」


 店内の鏡に目をやると、黒い髪に黒いニット、黒いズボンに黒い靴の男が映っていた。眼鏡を外して、じっと見る。

 女みたいな顔、そうだろうか。本当にそうなら、女好きなマキは俺の顔が好きだったはずだけど。俺は腕時計を確認して、もう一度聡を見上げる。一コマ目はもう始まっている時間だった。


「先に言っておくが、僕は午前授業がない。お前と一緒にするな」

「黄色がいいって、マキが言ったんだ。目に付くから、マキの持ち物が暖色系だから。交換すれば、離れても傍にいる気がするからって」

「自分の話たいことしか話せないのか、お前」


 マキがの方が、一緒に住もうかと提案してきた。同じ大学に入った俺たちは、家族からの仕送りを少しでも減らすため、二人でルームシェアして金銭的負担を分割した。高校時代の三年間を相部屋で過ごした俺とマキは、互いの生活空間を分け合うことに慣れていた。それだけじゃなくて、互いに家事をしながら、苦手な教科を教え合いながら、バイトの日をずらしながら、そうやって補い合いながら暮らした。

 幸せな日々だった。高校生活の延長線上だったとはいえ、人気者のマキが一緒に住む相手に俺を選んでくれたことがとても誇らしく、嬉しかった。飲み会の帰り道は泥酔したマキに肩を貸して、同じ部屋に帰れることが嬉しかった。二日酔いの朝は間違えて俺の歯ブラシを使いそうになるマキに、だから色の交換なんてしなければ良かったのに、と文句を言ったこともあった。マキの歯ブラシは灰色、俺は黄色。十五の時にそう決めたから、とマキはつっぱねた。俺は彼が歯ブラシに並々ならぬ感情を持っていることを思い出して、正座をして謝って、ハーゲンダッツも買いに行ってようやく許してもらった。

 それなのに、その生活を終わらせたのもマキだった。急だった。悪魔みたいなやつだとマキに思ったのは一度や二度じゃなかったけど、だったら地獄まで一緒に連れて行ってほしいと思ったのはこの日が初めてだった。


「結構金たまったから、一人で暮らせるようになったと思う」


 そうなんだ、と俺は答える。そうなんだよね、と言ってマキは黙り込んだ。


「じゃあ、歯ブラシ買いに行かないといけないし、もう行くね」

「それは大変だ。急いで行ってくれ」


 マキは出て行った。どうして出ていくのかは理由を知らされた。だから、今までありがとうとその背中に伝えた。言外に、一緒に来るなと言われているみたいだった。今まで歯ブラシ交換日には、マキから「行くぞ」と言われていたから。

 だから、楽しかった、身体に気を付けて、とその背中に声をかけた。返事はなかったし、学科が別々の俺たちはそれから会うことはなかった。俺は彼の居心地のいい相手にはなれなかった。


 聡はマキを太陽のようだと言ったけれど、マキは本当に冷たいやつだった。人の話は相槌を打ちながら聞き流しているし、約束した予定を平気ですっぽかす。それなのにちゃんと謝罪するし、埋め合わせをしたりする。

 綺麗な子が好きだという癖にバイトを理由にデートの誘いを断るし、合コンで意気投合した相手の連絡先を交換してすぐに消すこともある。

 彼女との記念日を忘れてフラれるのに、ひどい男に泣かされている女の子のために、その男のアパートに殴りこんだこともある。ひとしきり慰めた後、その子の告白を平然と断ったあたりで、俺は少し気の毒に思った。

 マキは、ちゃんと優しいところもある。親切で、正義感がある。気配りができて、人に手を差し伸べられる。明るくて、元気で、誰とでも気が合う。だけどそれと同じくらいさっぱりとしていた。

 聡とは今でも連絡を取っているらしい。飲みにも行くらしい。どうしてだろう。それがわからないから、俺といるのは嫌だったんだろう。もしも強引に引き留めていたら、聡に勝てない俺は──俺はマキの中でその他大勢になってしまうような気がした。

 あの日だって、毎朝の歯磨きチェックで俺の口の中をライトで当てて「よし、相変わらず綺麗な歯だな」って、そうやって褒めてくれたのに。あれは嘘で、本当は俺の歯磨きの仕方が悪くて、マキにとって落第点を押されてしまったのだろうか。


「ずっと聡に聞こうと思っていたことがある」

「なんだ。理学部の王子サマ?」

「俺に王族の親戚はいないけど。そうじゃないんだ。俺って、マキに捨てらたんだと思う?」

「ふっは!!」


 聡はサングラスを指で押し上げて、腹を抱えて大声で笑いだした。店内の視線が集まり、俺は咳払いをする。


「笑うなよ。真剣に相談してるんだぞ」

「いやあ、すまんすまん。そんな猫か犬のようなことを言い出すとは。お前に擬人化なんていう概念があったことに驚きでな。なんだ? それで毎年授業でもサボっていれば飼い主が戻ってくるとでも? 殊勝なことだ」

「ひどい言い方だ。外国語学部ではそんなコミュニケーションを教わるのか」

「そうだな、お前はそういうやつだ。忠犬廉公。それで、寂しい歯ブラシ記念日が三年目ともなると気分はどうだ?」

「最悪だよ。いつだって忘れられないのに、猶更この日はマキのことで頭がいっぱいになる。マキはどういうつもりなんだろう。俺が黄色い歯ブラシしか使えなくなっていることを、彼の文化ではどんな罰に当たるんだと思う? マキがこうなるとわかっていてやったのなら、あいつは本当に悪魔だ。いいや、虫歯菌だ」

「らしいぞ、虫歯菌」

「歯学部につける徒名じゃないだろ。風評被害だぞ」


 健康食品の棚を挟んで、ひょこりとマキが顔をだす。青汁越しに三年ぶりにまっすぐに目を見たのに、すぐに逸らされてしまった。茶色の猫みたいな目は飴玉みたいにまんまるをしている。ああ、やっぱりマキは、笑顔だけじゃなくて、困った顔だって眩しい。


「どうして二人が一緒にいるんだ?」

「おい、待て簾二郎。袖をまくるな。そりゃ、この菌がうちに転がり込んでいるからだ。おっと、拳は降ろせ。話は最後まで聞くんだ。俺はお前とは違って暴力事件を起こすほどにこいつに思い入れはない」

「じゃあ、なんであの時は俺と喧嘩したんだ?」

「お前に思い入れがあったからだ」

「ごめん。俺、聡のことで暴力事件を起こしたことがなくて……その、俺にとってマキは特別なところがあるんだ。聡のことをないがしろに思ってるわけじゃない。親友だと、思ってる」

「こいつ……僕だってそうだと言っているんだよ。やっぱり起こすか? 暴力事件」

「わかった」

「わかるな。おい、おい待て! こっちに向かってくるな! もういい、埒があかん。二人でちゃんと話し合え。痴話げんか以下のやり取りに二度と僕を巻き込むな。焼肉でも奢れよ?」

「わかった。今貯金を下ろしてくるから待っていてくれ」

「だからわかるな」


 焼肉を食べたいと急に言い出したくせ、聡はひらひらと手を振って店を出て行った。何も買わずに、何をしにきたんだろう。


「……あの、さ」

「なに?」


 絞り出すように、マキが俺に声をかけてきた。俺に、声をかけてくれた。途端に俺は体の中からどろどろ溶けていくような感じがした。

 急いで棚を迂回しようとすると、マキは手で制止して、申し訳なさそうに背中をまるめて歯ブラシコーナーにやってきた。そうか、マキにとっても今日は歯ブラシを交換する大切な日だ。彼もここに用事があったんだろう。


「瀧、そういう顔して立ってるの、やめなよ」

「ごめん、退くよ。歯ブラシを選んでくれ」

「そうじゃないんだよ! 歯ブラシなんてどうでもいいんだよ!」

「!」


 マキに歯ブラシよりも大事なことがあるなんて思わなくて、俺は固唾をのんで次の言葉を待った。


「ていうか、別に歯学部選んだのもお前が勧めたからだし、俺そんな、歯ブラシに執着してないし!」

「!」

「……ビックリマークだけで返事するのやめてくんない?」

「ごめん、衝撃の連続で……それじゃあ、どうして歯ブラシ記念日なんて」

「ああ、もう、なんでも良かったんだよ。話すきっかけっていうか、仲良くなるとっかかりっていうか、瀧が授業サボったら面白そうだったし」

「面白そう……」


 マキは居心地悪そうに、特段なにかを買う様子もなくレジを通り過ぎて店の外に向かう。本当に歯ブラシなんてどうでも良かったんだ。歯ブラシに人生を捧げた独特の風習があるわけじゃなかったんだ。

 じゃあ、本当に俺が「歯磨きが上手だから歯学部に行ったほうがいい」なんて言ったから歯学部に? 俺が言ったことがマキの中に残って、なにかを選ぶ時に意味を持ってそこにあったってことなのか。それじゃあ、マキの今の生活は、俺と過ごしていなくたって、俺の言葉の結果で続いているんじゃないか。毎日俺の言葉に影響されて入った歯学部で一生懸命勉強していたなんて、そんな。そんなことって、とんでもなくドキドキしちゃうよ。

 俺も同じように手ぶらで、彼の後ろに急いでついて行った。マキはふとみんなの輪から出て行ってしまうことがあるから、今もそんな気分だったんだと思う。俺もはやく二人になりたかったから、幸運だった。


 無言のまま俺のアパートまで足速に歩くマキの後ろを、俺は機嫌よく歩いていた。マキのふわふわの後頭部を見るのは久しぶりだ。

 玄関のドアを開くと、靴を脱ぐ間もなく襟首をつかまれた。なんてことだ、暴力事件がここで起きるなんて。


「滝廉太郎の弟みたいな名前だって、マキが言ってくれたこと覚えてる」

「今俺、お前の襟を締め上げてるんだけど?」

「うん、嬉しい。マキが俺のこと見てるね」


 深いため息をついて、マキは手を放してしまう。服越しでも、鎖骨のところにマキの手が当たっていて体温を感じられたのに。その手がもっと熱くたっていいのに。焼けた鉄みたいにマキの手が痛くたって、俺はそれに触れてほしいって思う。

 何度か呻いて、頭をくしゃくしゃとかき混ぜて、半笑いの顔でマキは俺を見上げた。呆れた、馬鹿馬鹿しい、どうでもいいや、と少し怒っている時の顔だった。


「あのさ、瀧は俺のこと好きなの?」

「うん、好きだ。マキのずるいところもひどいところも、全部好きだ」

「嘘だあ。だって瀧は好き? って聞かなきゃそう言わないじゃないか。わがままなんて、一つも言ってくれなかった。どこに行きたいか聞いたって俺が行きたいところ、何が好きか聞いても俺の好きなもの、そう答えるばっかりで……全然心を許してくれなかった。それが俺は、ずっと寂しかった」

「マキはいっぱい好きって言われるのが好きなんだね」

「起きるぞ、暴力事件」


 マキはもう一度ため息をついて、改めて俺の襟首を掴む。とろとろの蜂蜜、ねっとりしたキャラメル、胸焼けしそうな甘い瞳。今そこには俺だけが入っていて、俺はその中に納まった、自分自身の真っ暗な、おもちゃみたいな、偽物みたいな目と目が合った。

この中に閉じこもりたいな。琥珀みたいに三千年くらい経って、マキの瞳の中に入った俺が発見されて美術館に飾られたらいいのに。その黄色の中に俺だけ閉じ込めて、他には塵も気泡もない、まっさらな石にしてほしい。


「……瀧は俺とキスしたいと思ったことある? ないだろ。俺が聞いてる好きって、そういうことなんだけど」

「考えたこともなかったな……」


 でも、今そう言われて初めて、考えてみた。すごく照れ臭いけど、やっぱり嬉しい。俺には縁遠い話だと思ってたけど、そうか。もう成人しているんだし、手とかも繋いで良かったのかもしれない。


「ほらな。そういうの、大事だろ? 合わないとさ」

「していいならしたい」

「いや、そういうことじゃなくてさ。俺に同意してとか、言われたからってんじゃなくて……ああもう。だから俺、出てったのに。あ! そうだ。それに瀧、俺が出ていく時止めなかったろ? あれから連絡だってしてこないしさ。だから……お前はあれでよかったんだと思った」

「マキだって連絡してこなかった。止めていいって言われたら、俺、止めたよ」

「別に試したわけじゃない。むしろ、わかってたんだ。お前は止めないって」


 そりゃそうだよ。マキが思ってる以上のこと、俺は想像もしないんだから。そうならないようにしているんだ。そういうのって、もっと大人にならないとダメなんだろ? クリスマスの町を歩く恋人たちを見て「お前はああいうの、大人になってからだな」って、そう言ったのはマキだ。

 聡は俺を犬だなんて言ったけど、だとしたら、何年「待て」を言われてるんだろう。


「瀧は純粋だから、やさしいから、わかんないんだよ。恋なんて、したことないから。俺がどんなに頑張って、瀧への気持ち我慢してたかって話だよ。別に、お前なんて顔しか好きじゃなかったのに。勘弁してくれよ。違う気持ちだってわかっちゃったら、俺だけ友情を裏切ったみたいじゃん」


 泣き出すマキの、ぐしゃぐしゃな顔を見たくてその腕を強引に掴む。そんなこと、今までの俺じゃ絶対にしなかったことだ。マキが次から次へと俺を喜ばせるようなことを言ってくれるから、少し強気に出てもいいという傲慢さに支配されているような気分だった。


「わかってないのはマキだ。マキが止めてもいいよって言ったら俺は首輪を買ってきて繋いででも止めたし、マキが連絡しても良かったなら俺は一日五百回だってラインしたかった。マキに嫌われたくないから、いきなり連絡先から消されたくないから、三日で別れたくないから、マキを独り占めしないように我慢した。マキがいいって言うなら、誰とも喋らないでほしいから、舌を引っこ抜きたい。でも、そうしたらマキと話せなくなっちゃうから、しないで我慢しているんだろ」

「怖ぇよ」

「ほら、そう言うから。同じ気持ちじゃないとダメなら、それこそマキの方が俺を全然好きじゃない。どうして同じじゃないとダメなんだ。そんなの無理だ。それとも、マキも俺と同じくらいになってくれるのか? マキの腕も足も吹っ飛んで、どこにも行けなくなればいいんだ。俺が助けてあげなきゃ何も食べられないようになっちゃえば、俺と住まなきゃいられないだろ」

「ンアア」

「どうして猫の真似? かわいい」


 マキは黙り込んで目頭を押さえる。そうしてドアから出ていこうとした。俺はすぐに鍵をかけて、手をつくとドアと俺との間にマキを挟んだ。ひゅ、と喉の奥で音を鳴らして、マキが縮こまる。骨ばった、筋肉のついた肩が困ったように俺を押し返す。嫌なら殴り飛ばせばいいのに、マキの方が、多分喧嘩したら俺より強いよ。


「……マキのこと、閉じ込めてもいいの?」

「いや、いや、ダメ。俺、明日レポート提出あるし」

「また一緒に暮らしたい。いいよ、って言うまで帰さない」

「わかったから一回退いて」


 手を放すと、ようやく酸素を吸えたように深呼吸して、マキは鞄を肩に背負いなおす。その表情を伺いたくて顔を寄せれば、マキの頬に俺の髪が当たって、くすぐったそうに笑った。


「どこに行くんだ」

「三木のとこ。こら腕をまくるな、俺より先に出ていこうとするな落ち着け。荷物取りに行かないとだろ」


 マキの方から俺の手を握ってくれたのなんて、何年ぶりだろう。


「なんで。買いに行ってもいいけど」

「いいから、待っててよ。ちゃんと戻ってくる。俺だって落ち着かないんだ。タキマキコンビじゃないとさ」

「なにそれ」

「いや、俺たちそうやって呼ばれてたろ? ずっとさ。そこで首傾げるな。なんだよお前ほんとに。なんにもわかってないんだな、大事なこと」

「わかるよ、マキも俺のことが好きだってこと。そうだ、いっぱい言ってほしいんだったな。好きだよ、マキのこと、好きだ」

「ンナァ」

「どうして猫になるんだ? 可愛がられたいの? 首輪、買う?」

「いらないよ、バカぁ。あ、待ってろって言っても玄関で待ってなくていいからな。言わないとわかんないんだからさ」


 俺はマキが大荷物を抱えて帰ってくるのを、ドアの外で待っていた。マキは相変わらずため息を吐いて、車から手を振る聡を追いかけていこうとする俺を抱きしめるように、止めた。

 わかんないのはマキだよ。だって、少しでも早くマキに会いたかったんだ。その冷え切った黄色の目で、俺を見ていてほしいんだよ。


「あ」

「なに?」

「歯ブラシ買い忘れたじゃん」

「やっぱり歯ブラシ大事なんじゃないか?」

「おかげさまでな!」

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「歯ブラシ取りが歯ブラシになる」「なにそれ?」 マルヤ六世 @maruyarokusei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ