シュレディンガーの斎藤くん
マルヤ六世
シュレディンガーの斎藤くん
「紫陽花って好き」
嘘にもならない嘘を吐いた。もう、十年以上前になる。中学時代の写生だったか地域のレポートだったか、校外学習で近所のお寺に訪れた時のことだ。
班長の斉藤くんがじっと紫陽花を見つめていたものだから、話しかけるきっかけ程度に口にしたものだ。クラスに友達がいないわけでも、斉藤くんが好きなわけでもなかった。ただ、私は絵を描くのも、お寺のお坊さんのお話をメモするのも面白みを感じなかっただけだ。このままふっといなくなって、カラオケにでも行って、みんなで割り勘してプリクラを撮ったりしていたかった。でも、そういうわけにはいかないので彼に話しかけた。それだけ。
斉藤くんは眼鏡をきらりと光らせてこちらを見上げる。近くで見ると、黒髪は意外と癖毛で細くて、こんなにじめじめしているのに目元が涼しげだ。
「あづ」
女友達しか呼ばないあだ名で急に呼ばれて、私は大きく息を吸い込んだ。ついでにスカートのプリーツを数えて、手を交差したりして「なあに」なんて甘えた声も勝手に出た。
「ああ、そうか。君も“あづ”だったね。梓。本宮梓だ」
斉藤くんは照れ臭そうに笑う。女子と話すことに慣れていないような仕草に、自分がなんだかすごく魅力的な女の子になった気がして、少しいい気分になった。
「でも、本宮さんのことじゃなくて。紫陽花のこと」
けれど私の魔法はあっという間に解けてしまって、すぐに普通の、ただの吹奏楽部の本宮梓に戻ってしまう。
「紫陽花という名前は、まず、音から生まれた」
授業中に朗読をするような声で斉藤くんは語り始めた。教室で彼の言葉に真剣に耳を傾けたことなんてないのに、今はするりと耳の中に入ってくるのが不思議だ。音、というところで私の顔を見てにっこりと笑う。私が吹奏楽部だから、だろうか。
「紫陽花という名前は、あづさヰという言葉が変化したものなんだ。あづ、は小さいものが集まっている様子。さヰ、は藍色のこと」
好きな花だといった手前、知らなかったことが恥ずかしく思えて、私はあいづちだけを打った。
「つまんなかったかな」
斉藤くんは目の前の小花の塊を見ながらそう言って、水彩絵の具をパレットの上で混ぜた。お世辞にも上手とは言えないけれど、スケッチブックに描かれた鉛筆の線は何重にも描きなおした跡があって、なんというか愚直だった。消しゴムで消しても残っている鉛筆が通った道はでこぼこしていて、斉藤くんの筆圧が強いことを知ったのは、あの時だ。
「私のあづ、と斉藤くんのさい、だね」
「え?」
斉藤くんの長い睫毛も、真っ赤な顔も、漫画みたいにぽとりと落とした筆も、なにもかもがとても愛おしかった。
彼を好きになってしまいたかった。けれど、紫陽花が好きだなんて嘘を簡単に言えてしまう私は、真面目を絵に描いたみたいな斉藤くんには全然似合ってなくて、止めた方がいいんだろうなと思った。
それに今、全然好きじゃないけど彼氏もいるし。どうしてオーボエとコントラバスの担当は部活代々付き合ってたなんて話になったのかも忘れたけど、変に嫌がり続けるのも空気が読めない感じがしたからそうなった。でも、カラオケで彼氏がAKBばかり歌って、からかわれる私の身にもなって欲しかった。
むしむしとした風が吹いて、止まった時間が動くみたいに彼は筆を取り直して、頭を掻きながら俯いた。
「からかうなよ」
「確かに。私が名前の方のあづ、なんだから、斉藤くんもまこと、の方じゃないと変だね」
「それじゃ“吾妻コート”だよ」
「なにそれ?」
「コートだよ。和服のさ。女性用の」
「なんでも知ってるんだ」
「色々調べると面白いものだよ」
「斉藤くん、頭いいからなあ」
話をせいいっぱい逸らして、私は紫陽花の細い枝に触れる。吹奏楽だって、本当はそんなに好きじゃない。わざわざ知りたいと思うほど好きなことなんてなにもない。しなくていいなら、デートの時に化粧だってしたくない。
「あーあ。私たち、もっと早く出会っていればよかったって思わない?」
「……小学校から一緒なのに?」
「それは出会ってるって言わないよ。だってこんなにおしゃべりして面白い人だなんて思わなかったもん。もっと前からいっぱいしゃべっておけば、私図書委員にだってなってたかもだよ」
「思わなかったんだ」
「だって、斎藤くんって頭良くて、話してもなに言ってるかわからなさそうじゃない? 雰囲気がしゃべりかけにくいし」
「うーん。そんなことないけどな。それに、俺は本宮さんのこと、いつも元気で……おしゃれだなあって思ってたけど」
「私はおしゃれなんかしたくないんだよお。タイムトラベルで時間が巻き戻ればいいのにね」
「戻らないよ。それに、本宮さんはなんでもまっすぐ言っちゃうし、ちょっと冷たい人だね」
私が、家で猫を撫でるように紫陽花を指でこすっているのを、斉藤くんはじっと見つめている。
そっちの言い方の方がよっぽど、冷たいじゃない。
「なにそれ。もう、斉藤くんなんかしらな~い!」
今、まっすぐ思うあなたへの想いを一生懸命押さえつけて言わないでいることも知らないで。冷たいのはそっちじゃない。
丁度頃合いに感じて、私は怒った振りをしてその場を離れた。彼も引き止めなかったし、謝らなかったし、私は紫陽花なんか好きじゃないし、それからの日々は今までにすっかり戻ってしまったように何事もなく続いた。
そんなこと、今の今まで思い出しもしなかった。仕事に行き詰って、彼氏と喧嘩別れして、神頼みに来たはずが相変わらず私は馬鹿で、お寺に来てしまって。
そうして、今も変わらず花を付ける紫陽花を見て、思えば初恋にも似た、あの十数分のむずがゆい時間に帰ったのだ。
彼が今どうしているのかは知らない。同窓会に行けば会えるかもしれないけれど、もしも奥さんがいたり、子供ができていたりしたらちょっと悲しい。それでなくても、髪が茶髪になってたり、本を読んでなかったり、コンタクトレンズにしていたりするかもしれないから。
あの日のまま、写真すら持っていないあの時の記憶の斉藤くんがいい。紫陽花の藍色と同じ色の学ラン姿でいる、彼がいい。
それを大事に大事に箱にしまって、中身のことは見ないでいるほうがいい。
「……嘘、本宮? 本宮だよね?」
「斉藤くんは私のこと本宮、なんて呼ばないんだけど」
「えっ……俺、なんて呼んでたっけ」
「あづって呼んでた」
「嘘つくなよ」
身長は少しだけ伸びたかな。黒髪は変わらないけど、髪も少し伸びてる。眼鏡は外しちゃったかあ。かくいう私の方は茶髪だし、ピアスは開いてるし、肩とか出ちゃってるけど。
「なんで同窓会、来なかったの? みんな会いたがってたよ」
「私、別に中学時代に思い入れとかないしなあ。親友って感じの子もいなかったし。あ、でも高校のには行ったよ」
「やっぱり本宮って、ちょっと冷たいよ」
「やっぱりタイムトラベルして、昔に戻って、すごく紫陽花に詳しくなって、あの日の斉藤くんを言い負かしたいな」
「なにそれ」
笑った時に恥ずかしそうにするところは、昔のままだ。
「あ、でも。今から詳しくなれば? そうすればタイムトラベルなんていらないよ」
「待って、今調べるから」
十年後の今には、文明の利器がある。いや、十年前にもあったけど、スマホ。
鏡みたいに同じポーズでスマホを取り出した斉藤くんに付きつけるように、私は検索ページを見せた。
「紫陽花の花言葉は、辛抱強い愛情、だって」
「え?」
取り落しそうになったスマホを漫画みたいに手で何度も弾いてなんとかキャッチした斉藤くんは、真っ赤な顔でじっと私を見た。今度は俯かなくて、私の方がなんだか照れそうだった。
「……俺、そういうの本気にするんだよ」
「知ってる」
「本宮って、昔からそういうところあるよね」
「昔からわざとだったの」
怒ったような顔の彼が差し出したスマホには、チャットの招待画面が映し出されている。
ああ、なんてことはない。意外と、箱は開けてみるものなんだ。
シュレディンガーの斎藤くん マルヤ六世 @maruyarokusei
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